ブライアン・デヴィソン

ブライアン・デヴィソン
Brian Davison
生誕 (1942-05-25) 1942年5月25日
出身地 イングランドの旗レスター
死没 2008年4月15日(2008-04-15)(65歳)
ジャンル サイケデリック・ロック
プログレッシブ・ロック
ジャズ・ロック
職業 ミュージシャン
担当楽器 ドラムス
活動期間 1960年代 - 1970年代
共同作業者 マーク・リーマン・ファイヴ
ザ・ナイス
エヴリ・ウィッチ・ウェイ
レフュジー
ゴング

ブライアン・デヴィソンBrian "Blinky" Davison1942年5月25日 - 2008年4月15日)は、イングランドドラマー

略歴[編集]

イングランドレスター出身。イギリスでスキッフル・ブームが起こった1950年代後半から様々な学生バンドで活動。1962年にザ・ロッカー・シェイカーズに加入。ザ・ロッカー・シェイカーズは、新しいボーカリストのジョン・アルバート・アードレイを迎えてザ・マーク・リーマン・ファイヴと改名し[1]、プロデューサーのジョー・ミークに見出されデモ録音を始め、1963年には11曲入りデモ・アルバムを制作した。彼らは、ロンドンのパトニー・ボールルームでマンフレッド・マンの前座を務めるようになり、マンフレッド・マンに気に入られてマーキー・クラブでの前座を頼まれたほか、デヴィッド・ボウイを育てたマネージャーのケン・ピットに紹介されて契約した[2]。そして1965年1月に、マンフレッド・マンポール・ジョーンズをプロデューサーに迎えてデビュー・シングル「Portland Town」を制作して、マンフレッド・マンが所有するマンフレディスクから発表した。しかし6月にフロント・マンのマーク・リーマンことアードレイを交通事故で失い、新しいボーカリストを迎えて活動を続けようとしたものの、翌1966年7月に解散。デヴィソンはザ・ハビッツ、ザ・マイク・コットン・バンド、ザ・シン[注釈 1]、ジ・アタック[注釈 2]を転々とした[3]

1967年8月、女性シンガーのP.P.アーノルドの「パット・アーノルド・アンド・ハー・ナイス」の2代目ドラマーに就任[注釈 3]。ほどなくハー・ナイスは「ザ・ナイス」としてアーノルドから独立して、キース・エマーソン (キーボード)、リー・ジャクソン (ベース)、デヴィッド・オリスト (ギター)、そしてデヴィソンの4人編成で活動。1968年1月にデビュー・アルバムを発表し、過激なライブ・パフォーマンスで次第に知名度を上げていった。10月にはエマーソン、ジャクソン、デヴィソンのキーボード・トリオとなり、さらに5作のアルバムを残した[注釈 4]

1970年4月、ザ・ナイス解散。デヴィソンは、グラハム・ベル[注釈 5](ボーカル)、アラン・カートライト[注釈 6](ベース)、ジェフリー・ピーチ(サクソフォーン、フルート)、ジョン・ヘドリー(ギター)と「エヴリ・ウィッチ・ウェイ」を結成し、同年10月にカリスマ・レコードからデビュー・アルバム『ブライアン・デヴィソンズ・エヴリ・ウィッチ・ウェイ』を発表。しかしデヴィソンとベルとの間に音楽上の対立が生じて、ベルが脱退。次いでヘドリーも脱退したので、エヴリ・ウィッチ・ウェイは1971年の春先に解散した[4]

1973年、スイス出身のキーボード奏者のパトリック・モラーツ、ジャクソンとキーボード・トリオ「レフュジー」を結成。1973年12月2日にロンドンで初公演を行い[5]デビュー。翌1974年4月にデビュー・アルバム『レフュジー』を発表した。しかし同月8月末、モラーツがリック・ウェイクマンの後任としてイエスに加入するためレフュジーを脱退したので、レフュジーは解散した。エマーソンは自伝の中でモラーツの突然の脱退を指して「せっかく二人を紹介したのにモラーツは身勝手だった」と批判している[注釈 7][6][7]

レフュジー解散後、ゴングに短期間参加するも、やがて音楽ビジネスから身を引いた[8]

後年はビディフォード大学にて音楽講師として後進の指導に晩年まで尽力した[9]2002年には、エマーソン、デヴィソンと「キース・エマーソン&ザ・ナイス」の名義で32年ぶりに再結成ライブを行ない、2003年にライブ・アルバム『ヴィヴァシタス - ライヴ・アット・グラスゴー 2002』をリリースした[10][注釈 8]

2008年4月15日、ビディフォード大学から程近いホーンズ・クロス、デヴォンの自宅にて病気で他界した[11]

ディスコグラフィ[編集]

マーク・リーマン・ファイヴ[編集]

シングル
  • "Portland Town/Gotta get myself together" (1965年)
  • "Blow my blues away/On the horizon" (1965年)
  • "Forbidden Fruit/Going To Bluesville" (1966年)
  • "Follow me/Gather Up The Pieces" (1966年)
アルバム
  • Rhythm and Blues Plus! (1963年)

ザ・ナイス[編集]

エヴリ・ウィッチ・ウェイ[編集]

  • 『ブライアン・デヴィソンズ・エヴリ・ウィッチ・ウェイ』 - Brian Davison's Every Which Way (1970年)

レフュジー[編集]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ Hanson (2014), pp. 47–48.
  2. ^ Hanson (2014), pp. 48–49.
  3. ^ Hanson (2014), pp. 50–51.
  4. ^ Hanson (2014), pp. 199–203.
  5. ^ Hanson (2014), p. 207.
  6. ^ 「キース・エマーソン自伝」(ISBN 978-4384057256)。
  7. ^ Emerson (2003), pp. 221–222.
  8. ^ Hanson (2014), pp. 212–213.
  9. ^ Hanson (2014), p. 225.
  10. ^ Hanson (2014), pp. 229–244.
  11. ^ Hanson (2014), pp. 249–252.

注釈[編集]

  1. ^ オルガン奏者のドン・シンが結成したバンドで、メンバーはシン、デヴィソン(ドラムス)、ポール・ニューマン(ベース・ギター)、エディー・ラム(ボーカル)。ニューマンは後にユーライア・ヒープの初代ベーシストとなった。
  2. ^ のちにザ・ナイスで一緒になるデヴィッド・オリストが在籍していた。
  3. ^ 薬物常用で活動に支障をきたしていたドラマーのイアン・ヘイグの後任として、メンバーのデヴィッド・オリストの推薦で就任。
  4. ^ ファイヴ・ブリッジズ』(1970年)、『エレジー』(1971年)、『オータム'67 – スプリング'68』(1972年)は解散後に発売された。
  5. ^ Skip Bifferty
  6. ^ 1972年にプロコル・ハルムに加入。
  7. ^ "Pictures of an Exhibitionist" (ISBN-13: 9-781904-034797) の120ページと121ページには、エマーソン・レイク・アンド・パーマーがロンドンのピカデリー・サーカスにあるパビリオンでコンサートを開いた時に、モラーツがエマーソンの楽屋に押しかけてジャクソンとデヴィソンの近況を尋ねて、エマーソンを苛立たせたという記載があるが、エマーソンがモラーツを二人に紹介したとは記されてはいない。彼は、その約一年後に、ジャクソンからの電話で、二人がモラーツとトリオを形成したことを知ったという。
  8. ^ ディスク1はエマーソン、ジャクソン、デヴィソンの演奏によるザ・ナイスの曲を収録。ディスク2はエマーソンのピアノ・ソロを2曲と、エマーソン、デイヴ・キルミンスター (ギター、ボーカル)、フィル・ウィリアムス (ベース)、ピート・ライリー (ドラム)の演奏によるエマーソン・レイク・アンド・パーマーの曲を収録。ディスク3はエマーソン、ジャクソン、デヴィソンのインタビューを収録。
  9. ^ キース・エマーソン&ザ・ナイス名義。

参考文献[編集]

  • Emerson, Keith (2003), Pictures of an Exhibitionist, John Blake, ISBN 9-781904-034797 
  • Hanson, Martyn (2014), Hang on to a Dream: The Story of the Nice, Foruli Classics, ISBN 978-1-905792-61-0 

関連項目[編集]