ブイル・ノールの戦い

ブイル・ノールの戦い

ブイル・ノール一帯の航空写真
戦争:洪武二十一年の役
年月日洪武21年4月12日1388年5月18日
場所内モンゴルフルンボイル市モンゴル国ドルノド県
結果:明軍の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
ウスハル・ハーン
マンジ太尉
ネケレイ知院
シレムン丞相
永昌侯藍玉(征虜大将軍)
延安侯唐勝宗(左副将軍)
武定侯郭英(右副将軍)
都督僉事耿忠(左参将)
都督僉事孫恪(右参将)
戦力
不明 15万(公称)
損害
不明 不明
Template:Campaignbox 洪武帝のモンゴル出兵

ブイル・ノールの戦いとは、1388年(天元10年/洪武21年)にモンゴル高原東北部のブイル・ノール一帯にて永昌侯藍玉率いる軍と、ウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)率いるモンゴル軍の間で行われた戦闘。明軍の奇襲を受けたモンゴル軍は大敗を喫し、ウスハル・ハーン直属の軍隊の大部分は明軍の捕虜となった。更に、敗走したウスハル・ハーンはその途上でアリク・ブケ家のイェスデルによって殺されてしまい、モンゴル高原は未曾有の大混乱に陥ることとなった。

ブイル・ノールの戦いを含むこの戦役全体を、洪武二十一年の役もしくは洪武帝(明太祖)の第六次北伐とも呼称する。

背景[編集]

1368年、皇帝に即位して明朝を建国した朱元璋は連年モンゴルに対して出兵を続け、北方に領土を拡大した。しかし、1372年に北元政権を滅亡させるべく派遣された遠征軍は嶺北の戦いビリクト・ハーン(昭宗アユルシリダラ)ココ・テムルら率いるモンゴル軍に大敗してしまった。この敗北によって武力によってモンゴル勢力を打倒することは容易でないと覚った洪武帝は方針を変更し、使者の派遣などによってモンゴルの有力者を投降させる方策をとった。

このような政策はビリクト・ハーンが健在な内は成果が現れなかったが、1378年にウスハル・ハーンが新たに即位すると、ダイル・ブカなど明に投降する者が増えてきた。このようなモンゴル人の明への投降の中でも最も規模が大きく、モンゴル高原の情勢を一変せしめたのが遼東の国王ナガチュの投降であった。ナガチュはモンゴル帝国建国の功臣ムカリの末裔で、20万の軍勢を有する大勢力であったが、飢饉の発生などにより1387年(洪武20年)やむなく明朝に降ることになった。

ナガチュの投降はモンゴル側にとって衝撃であり、明に降るのを拒んだナガチュ勢力の残党を収容するためにウスハル・ハーンはモンゴル高原東方のブイル湖(ブイル・ノール)一帯に駐留した。今こそモンゴルに決定的な打撃を与える好機と見た洪武帝は再び大規模な遠征軍を組織し、モンゴル高原に派遣することを決定した。この遠征に洪武帝が抱いていた期待は大きく、ナガチュの投降を成功させた馮勝を更迭して[1]藍玉を起用した上、遠征軍の諸将に「沙漠[のモンゴル勢力]を粛清するは、この一挙にあり。卿らはこれに励め(粛清沙漠、在此一挙。卿等其勉之)」とまで述べている[2]

戦闘に至るまで[編集]

1388年3月、15万の軍勢を率いて出発した藍玉らは後年永楽帝が用いたようなモンゴル高原中央部を縦断するルートではなくヒンガン山脈沿いに東回りに進むルートを取り、大寧(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)を経て慶州に進んだ。そこでウスハル・ハーンがブイル・ノール一帯に駐留していることを知った藍玉らは間道を選び、昼夜兼行で急ぎモンゴル軍の下に到着しようとした[3]。しかしモンゴル高原の自然環境は明軍にとって厳しく、4月9日に遊魂南道という地に駐留した時は水不足に苦しめられた。この時は偶然近くの小山で泉を発見することができ、士卒は「天の助けである」と喜んだという[4]

しかし明軍はブイル・ノールから40里余りの百眼井という地に至ってもなおモンゴル軍を発見することができず、兵糧にも限界が出てきたため、4月11日に藍玉はやむなく軍を引き返すことを考え始めた。だが、武将の一人定遠侯王弼は「10万余りの軍勢を擁してモンゴル高原に入りながら得る所なく帰れば、如何に陛下に復命できようか」と述べて藍玉を説得し、この言に従って藍玉はモンゴル軍の捕捉を続けることとした。明軍は穴を掘って飯を炊くことで炊事の煙がモンゴル兵に見つからないようにしつつ軍を進め、遂にハルハ河の北曲点でモンゴル軍を発見し戦端が開かれることとなった[5]

戦闘の経過[編集]

ブイル・ノールの東北80里、すなわちハルハ河北曲点にモンゴル軍が駐留していることを偵知した藍玉らは軽騎兵を選び、板を銜えさせて音を立てないようにし、モンゴル軍の不意を突いた。ウスハル・ハーンらは明軍が兵站の維持に苦労していることを把握していたため、明軍がモンゴル高原の奥深くまで進軍することはないだろうと油断しており、明軍の攻撃に対する備えを全くしていなかった。それに加え、この時強風によって砂がまいあげられており、明軍の接近を覆い隠してしまっていた。

明軍の奇襲を受けたウスハル・ハーンら首脳陣は北方に逃れようと車馬を整えたが、たちまち明軍が追いついてきた。モンゴル側ではマンジ太尉率いる部隊が殿として残り抗戦したが、衆寡敵せず数千人が殺され、金銀財宝・馬4万余りと5万人余りの捕虜が明軍の手に入った。

ウスハル・ハーンらは本拠地たるモンゴル高原中央部に逃れるためブイル・ノール北岸を西走したが、ここでもヨヨ司徒及び后妃ら4万人余りが明軍の捕虜となり、明軍は馬・駱駝1万5千を手に入れた。その後も明軍の通淵・何福ら率いる部隊はケルレン河まで追撃したが、ウスハル・ハーン及びティポド(天保奴)太子、ネケレイ知院、シレムン丞相ら首脳陣には届かず帰還した。

最終的に明軍はウスハル・ハーンの次男ティボド(地保奴)、故ビリクト・ハーンの妃や公主59人、呉王ドルジら2994人、軍士77037人、宝璽・図書・牌面149、宣勅・照会3390、金印1、銀印3、馬47000匹、駱駝4804頭、牛・羊102994頭、車3000を戦利品として獲得し、残された甲冑などは捕虜としたモンゴル兵たちに焼かせてしまった[6][7][8]

一方、明軍の追撃を振り切ったウスハル・ハーンはカラコルム方面を目指したが、トーラ河に至った所でアリク・ブケ王家のイェスデルの襲撃を受けた。この襲撃によってブイル・ノールの敗戦から逃れてきた残余の軍勢も潰走し、ウスハル・ハーンは僅か16騎とともに逃れてヨウジュ丞相とマルハザ太尉に迎えられた。ウスハル・ハーンは多数の人馬を擁するココ・テムルの下に逃れようとしたが、運悪く大雪に遭い、三日にわたって身動きがとれなかった。トーラ河でウスハル・ハーンを逃してしまったイェスデルは新たにホルフダスン大王とボロト王府官を派遣し、彼等に捕捉されたウスハル・ハーンは弓絃によって縊り殺されてしまった[9]

その後の影響[編集]

ブイル・ノールの敗戦とウスハル・ハーンの死はモンゴル高原の情勢を一変させてしまった。ウスハル・ハーンを弑逆したイェスデルはジョリクト・ハーンとして即位したが、大義なき弑逆のためモンゴル人の信望を集めることができず、モンゴル高原の住民は大きく分けて3つのグループに分かれていく。

一つめの集団は言うまでも無くイェスデルを擁立した勢力で、『華夷訳語』甲種本によるとオイラト部族を主体とする集団であった。オイラト部族はモンゴル高原西北に遊牧地を持つ遊牧集団であり、同じくモンゴル高原西方に居住していたケレイト部の末裔ケレヌート(後のトルグート)、ナイマン部の末裔チョロース(後のジューンガル等)、バルグト諸部などとともにドルベン・オイラト(4オイラト部族連合)を形成した。ドルベン・オイラトは主にモンゴル高原西方を支配し、後述するドチン・モンゴルとモンゴル高原の覇権を巡って争うようになる。

二つめの集団はカラジャン太師、マルハザ太尉、アルクタイに代表されるウスハル・ハーン直属の部下たちで、彼等は散り散りとなったウスハル・ハーンの旧臣を集め再編成した。ドルベン・オイラトの内部抗争によって1402年クン・テムル・ハーンが死んだ時、マルハザらはアラシャー地方に住まうオゴデイ家の末裔オルク・テムルを擁立した。オルク・テムル及びマルハザらはモンゴル帝国の正統な後継者を自認したため、モンゴル語史料はこの勢力をドチン・モンゴル(40モンゴル)と呼称する。一方、明朝はこの勢力を韃靼と呼称するが、これはモンゴル帝国=元朝は既に亡び明朝がその地位を継承したとする立場から「蒙古(モンゴル)」を一方的に呼び代えたものに過ぎない。

三つめの集団は知院ネケレイ、遼王アジャシュリ粛王グナシリら明朝に降った者達である。ある者はイェスデルに仕えるのを恥じて、ある者は明朝の武威を恐れて投降してきた者達を、明朝は応昌衛兀良哈三衛哈密衛といった衛所制度の中に組み込んだ。しかし、これらの集団を明朝が直接統治するようになったわけではなく、名目上は明朝の影響下にありながらも実態としてはウルス(遊牧国家)に他ならなかった。

総じて、ブイル・ノールの戦いは13世紀末から続く大元ウルスの国体が崩壊し、西のオイラトと東のモンゴルという2大勢力がモンゴル高原の覇権を争い、その周囲をモンゴル系羈縻衛所が取り囲むという北元時代の基本形を形作ったモンゴル史上重要な事件であったと言える。

脚注[編集]

  1. ^ 『明太祖実録』洪武二十年十月「是月、宋国公馮勝以罪召還、至京師」
  2. ^ 『明太祖実録』洪武二十年九月三十日丁未「遣指揮趙隆齎詔命右副将軍永昌侯藍玉為征虜大将軍、延安侯唐勝宗為左副将軍、武定侯郭英為右副将軍、都督僉事耿忠為左参将、都督僉事孫恪為右参将。勅諭玉等曰『……宜因天時、率師進討、曩諭克取之。機尚服斯言益勵士卒奮揚威武期必成功。粛清沙漠、在此一挙。卿等其勉之』」
  3. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年三月「是月、大将軍永昌侯藍玉等率師十五万、由大寧進至慶州、聞虜主脱古思帖木児在捕魚児海、従間道、兼程而進」
  4. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年四月九日癸丑「大将軍永昌侯藍玉等師次遊魂南道、無水泉、軍士渇甚、其地有小山、在韃官観童所居営、忽聞有声如砲、玉使人視之、則四泉湧出、士馬就飲、得不困乏、餘流溢出如渓。衆咸懽呼曰『此朝廷之福、天之助也』……」
  5. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年四月十一日乙卯「大将軍永昌侯藍玉師至百眼井、去捕魚児海尚四十餘里、哨不見虜、欲引兵還。定遠侯王弼曰『吾等受朝廷厚恩、奉聖主威徳提十餘万衆、深入虜地。今略無所得遽言班師恐軍麾一動難可復止、徒労師旅、将何以復命』。玉深然之。戒諸軍、皆穴地而爨、毋令虜望見煙火、師遂進」
  6. ^ 『皇明資治通紀』巻3,「四月藍玉等進兵至哈剌哈河、前鋒探知虜営不遠、来報。玉等帥軽騎、銜枚捲甲、倍道而進、出其不意、直搗虜営。虜主脱古思帖木児大驚、帥十餘騎、潰囲走、其時蛮子太尉来拒、我師奮撃擒之、獲両営輜重金宝及馬四万餘、俘其衆五万餘人。復追至捕魚児海、生擒虜将咬咬司徒・十不剌王子及後宮后妃等四万餘人、馬駝一万五千匹、牛羊輜重無算。都督兪通淵・何福帥師、至曲律河、招降平章阿晩木等、人口馬駝亦万計、乃旋師……」
  7. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年四月丙辰「黎明至捕魚児海南飲馬、偵知虜主営在海東北八十餘里。玉以弼為前鋒、直薄其営。虜始謂我軍乏水草、必不能深入、不設備。又大風揚沙、晝晦軍行、虜皆不知。虜主方欲北行、整車馬皆北向、忽大軍至、其太尉蛮子率衆拒戦、敗之、殺蛮子及其軍士数千人、其衆遂降。虜主脱古思帖木児与其太子天保奴・知院捏怯来・丞相失烈門等数十騎遁去。玉率精騎追之、出千餘里、不及而還。獲其次子地保奴妃子等六十四人及故太子必里禿妃並公主等五十九人。其詹事院同知脱因帖木児将逃、失馬、竄伏深草間、擒之。又追獲呉王朶児只・代王達里麻・平章八蘭等二千九百九十四人、軍士男女七万七千三十七人、得宝璽図書牌面一百四十九、宣勅照会三千三百九十道、金印一、銀印三、馬四万七千匹、駝四千八百四頭、牛羊一十万二千四百五十二頭、車三千餘輌。聚虜兵甲焚之。遣人入奏、遂班師」
  8. ^ ブイル・ノールの戦いについては『皇明資治通紀』と『明太祖実録』にそれぞれ異なった形の記録が残されており、一見すると異なる戦闘であるように見えるが、実際には両史料の差異は報告者の観点の違いに由来するものと考えられている。すなわち、前者がハルハ河での戦闘、ブイル・ノール北岸での戦闘、ケルレン河での戦闘及び戦利品を別々に記述しているのに対し、後者は一連の戦闘・戦利品を一括して記録していると考えると、両史料の整合性がとれる(和田1959,28頁)
  9. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年十月丙午「初虜主脱古思帖木児在捕魚児海、為我師所敗、率其餘衆、欲還和林、依丞相咬住。行至土剌河、為也速迭児所襲撃、其衆潰散独与捏怯来等十六騎遁去。適遇丞相咬住・太尉馬児哈咱領三千人来迎、又以闊闊帖木児人馬衆多、欲往依之、会天大雪、三日不得発。也速迭児遣大王火児忽答孫・王府官孛羅追襲之、獲脱古思帖木児、以弓絃縊殺之、並殺其太子天保奴。故捏怯来等恥事之、遂率其衆来降」

参考文献[編集]

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年