フランチェスコ1世 (両シチリア王)

フランチェスコ1世
Francesco I
両シチリア国王
在位 1825年1月4日 - 1830年11月8日
別号 ナポリ王
トリナクリア王

出生 1777年8月14日
ナポリ王国の旗 ナポリ王国ナポリ
死去 (1830-11-08) 1830年11月8日(53歳没)
両シチリア王国の旗 両シチリア王国ナポリ
埋葬 両シチリア王国の旗 両シチリア王国ナポリ、サンタキアラ教会
配偶者 マリーア・クレメンティーナ・ダウストリア
  マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャ
子女 一覧参照
家名 ブルボン=シチリア家
父親 フェルディナンド1世
母親 マリア・カロリーナ・ダズブルゴ
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フランチェスコ1世Francesco I, 1777年8月14日 - 1830年11月8日)は、両シチリア王(在位:1825年 - 1830年)。

先王フェルディナンド1世マリーア・カロリーナ神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの娘)との息子。

生涯[編集]

1806年、ブルボン家ナポリからシチリアへ逃れたあと、イギリス外交官ウィリアム・ベンティンク卿はフェルディナンドから全権をうけて憲法をつくり、フランチェスコは1812年に摂政となった。

ナポレオンの没落後、ナポリへ戻ったフェルディナンドは自治を求めるシチリアを弾圧し、2つの王国を合同させ両シチリア王国が成立した(1816年)。これに際してフランチェスコはカラブリア公に叙された。フランチェスコは自らを自由主義者であると見せかけ、1820年の革命の勃発に際しても新憲法に好意的で、摂政政治を受け入れた。しかし彼は保守的思想の持ち主だった。

このため1825年に即位すると、フランチェスコは保守主義に転換した。彼は一握りの気に入った貴族・高官を用いて政府を動かし、自らは暗殺を恐れて軍の警護を受けながら愛妾たちと暮らした。フランチェスコの在位中、1828年にチレントで暴動が起こったのみであった。

家族[編集]

神聖ローマ皇帝レオポルト2世の娘で、父方でも母方でも従姉であるマリア・クレメンティーネと1796年に結婚し、2子をもうけた。

のち、スペイン王カルロス4世の娘で、互いに父方の従兄妹であるマリア・イサベルと再婚し、12子をもうけた。

家系図[編集]

脚注[編集]

  1. ^ (フランス語) Genealogie ascendante jusqu'au quatrieme degre inclusivement de tous les Rois et Princes de maisons souveraines de l'Europe actuellement vivans [Genealogy up to the fourth degree inclusive of all the Kings and Princes of sovereign houses of Europe currently living]. Bourdeaux: Frederic Guillaume Birnstiel. (1768). pp. 1, 9. https://books.google.com/books?id=AINPAAAAcAAJ&pg=PA1 
先代
フェルディナンド1世
両シチリア国王
1825年 - 1830年
次代
フェルディナンド2世