フダイビーヤの和議

フダイビーヤの和議صلح الحديبية)は、628年に預言者ムハンマドマッカ(メッカ)のクライシュ族の間で結ばれた和議。フダイビーヤの盟約などとも表記される。和議はマッカ郊外の小村フダイビーヤで締結され、交渉の場であるフダイビーヤはマッカの聖域の境界となった[1]

背景、成立までの過程[編集]

624年バドルの戦いでイスラム軍はマッカのクライシュ族に勝利を収め、625年ウフドの戦いではクライシュ族が勝利するが、ハンダクの戦いではクライシュ族はムハンマドに決定的な勝利を収める事ができなかった[1]。ムハンマドに決定的な勝利を収められなかったクライシュ族の権威は低下し、遊牧民や小オアシスの住民の中には同盟相手をクライシュ族からムハンマドに変える勢力が多く現れた[2]

628年3月、夢に促されたムハンマドは信徒を連れてマッカへの小巡礼に発った。クライシュ族の襲撃を危ぶんだムハンマドは、アラブ人と遊牧民を巡礼に動員する[3]。巡礼に参加したムスリムの人数1,400人[4][5]、あるいは1,600人[4]と伝えられている。クライシュ族からの攻撃を想定して武装を進言する者もいたが、ムハンマドはあくまでも巡礼が目的であるとして戦闘の準備は行わず、儀式に使う家畜を伴った[6]。武装したクライシュ族の兵士が進路で待ち受けている報告を受けたムハンマドはフダイビーヤに移動し、交渉に備えた[5]

マッカのクライシュ族は、ムハンマドの巡礼を武力で妨害すれば神聖月の慣例を破ることになり聖地の守護者としての権威は大きく低下し、巡礼を認めるとムハンマドへの屈服の意思を表す状況に陥った[6]。クライシュ族からフダイビーヤのムハンマドの元にマディーナ(メディナ)への撤退を求める使者が送られ、マッカに帰還した使者はムハンマドの信徒の忠誠心の高さを報告した[7][8]。ムハンマドはヒラーシュ・イブン・ウマイヤ・アルフザーイーを使者として派遣するが、ヒラーシュの伝言を聞いたマッカ側は彼の乗ったラクダを斬殺し、ヒラーシュはフダイビーヤに戻った。ヒラーシュが帰還した後、クライシュ族はフダイビーヤの宿営地を襲撃するが失敗に終わった。

次にムハンマドはウマルをマッカへの使者に選んだが、ウマルは自分がマッカのクライシュ族と敵対していたことを理由に任務を辞退し、ウスマーンが使者として派遣された[9][10]。ウスマーンから伝言を受けたマッカ側はウスマーンにタワーフカアバ神殿の周囲を回る儀礼)を認めたが、ウスマーンはマッカからの提案に妥協をしなかった[11]。ウスマーンはクライシュ族の元に監禁され、ムハンマドの元にウスマーンが殺害された知らせが届けられた[12]。ムハンマドに従っていたムスリム達は激怒し、ムハンマドは彼らにいかなる事態が起きても自分の命令に従うよう、樹下の誓い(バイア)を行わせた[1][13]。解放されたウスマーンが帰還した後、クライシュ族からスハイル・イブン・アムルが使者としてフダイビーヤに派遣され、協議を経て和約が成立した[14]

内容[編集]

交渉の結果、以下の内容の和約が締結された。

  • 10年間の休戦[1][15][16][17][18]
  • 巡礼団は一旦マディーナ(メディナ)に帰還し、翌年にムスリムの巡礼のために3日間マッカを開放する[4][16]
  • 保護者の同意なくマディーナに移住したマッカの住民を無条件でマッカに送還する[16][17]
  • ムハンマドの元からマッカのクライシュ族の元に移った人間はそのままマッカに留め置かれる[18][17]
  • マッカ周辺の部族、個人は自由にムハンマドと同盟を締結できる[16][17]

マッカ側はムハンマドが「アッラーの使徒」として和議を結ぶことを認めず、「アブドゥッラーの息子ムハンマド」として書名を行わせた[19]。和約の条件はクライシュ族にとって有利なものであり、ムスリムの中でもアブー・バクルは無条件にムハンマドの決定に従ったが、ウマルのように和約の内容に不満を抱く者もいた[18]。また、目的の小巡礼を果たさずにマディーナに帰還することに、多くの信徒が困惑した[19]しかし、ムハンマドは期待以上の成果を上げたと考え[20]、和議の結果はムハンマドの戦略眼の確かさを示す例にも挙げられる[19]

和約の成立後、上に挙げられた条件に基づいて、ムハンマドの信徒の一人であるアブー・ジャンダルが改宗を認めない父親によってマッカに連れ戻された[21]。和約の成立後、ムハンマドは頭を剃り、生け贄を奉げる儀式を行った。この時にムハンマドは先にバドルの戦いで敗死したアブー・ジャハルが所有していたラクダを生け贄として屠り、クライシュ族を挑発した[22]。マディーナへの帰途で、ムハンマドは和約がムスリムにとって有利な結果に繋がる啓示を一団に伝え、帰還した[23][24]

結果、影響[編集]

ムハンマドがマディーナに帰還した後、マッカで拘禁されていた信徒アブー・バスィールがマディーナに逃亡する事件が起きる。ムハンマドは協定に従ってアブー・バスィールを送り返したが、アブー・バスィールは自分を引き取りに来た使者を殺害した。この時、ムハンマドはアブー・バスィールを責めて

こやつの母は呪われよ。ほかに何人か仲間がいれば、戦いに火をつけてしまう — (イブン・イスハーク『預言者ムハンマド伝』3(イブン・ヒシャーム編註, 後藤明、医王秀行、高田康一、高野太輔訳, イスラーム原典叢書, 岩波書店, 2011年7月)、143頁より)

と言った。マッカで束縛を受けていたムスリムは先のムハンマドの言葉を聞き、クライシュ族の隊商の通り道に住処を定めたアブー・バスィールの元に集まった[25]。アブー・バスィールたちは近辺を通りかかるクライシュ族を殺害し、隊商の積荷を略奪した[25]。アブー・バスィールたちを扱いかねたマッカは、ムハンマドに彼らの引き取りを要請し、彼らはマディーナに移住した[25]

休戦協定締結直後、ムハンマドはハンダクの戦いで敵対したナディール族の拠点であるハイバルを攻撃した[2]ハイバル征服の後、ハイバルを初めとするオアシスの多くのユダヤ教徒がムハンマドに降伏する。クライシュ族との同盟が不利だと考えた遊牧民はムハンマドを新たな同盟相手に選び、多くの遊牧民がイスラームに改宗した[26]。また、和議の期間中にはハーリド・イブン・アル=ワリードアムル・イブン・アル=アースらマッカの有力者もイスラームに改宗した[26]

629年、ムハンマドは長剣のみを携えた2,000人の男を率いてカアバ神殿を参拝し、町を出た市民は近郊の丘陵で巡礼の様子を見守っていた[4]。マッカの市民の中から、この光景に心を打たれてイスラームに改宗した者も少なからず現れたと言われる[15]。ムハンマドの教友(サハーバ)の中にはこの機会に乗じたマッカの占領を進言する者もいたが、ムハンマドは和約に従って行動するように説いた[27]。ムハンマドが示威行動、戦闘を行わずに巡礼を果たしたことは、イスラーム勢力の伸張を表していた[28]。巡礼後にムハンマドはハーシム家との和解を図って叔父のアッバースの妻の妹と結婚し、マッカの有力者であるアブー・スフヤーンの娘とも結婚して、婚姻関係を構築した[29]

630年、ムハンマドと同盟する遊牧民のフザーア族がマッカと同盟する遊牧民バクル族から攻撃を受ける事件が起き、ムハンマドとマッカの関係は悪化する[4]。アブー・スフヤーンは和議の再締結に奔走したが、合意には至らなかった[30]。フダイビーヤで結ばれた休戦協定は破棄され、ムハンマドはマッカに進軍する。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 後藤「フダイビヤの和議」『新イスラム事典』、429頁
  2. ^ a b 佐藤『イスラームの歴史』1、72-73頁
  3. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、121頁
  4. ^ a b c d e 前嶋『イスラムの時代』、80-81頁
  5. ^ a b 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、28頁
  6. ^ a b 小杉『イスラーム帝国のジハード』、136頁
  7. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、129頁
  8. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、28-29頁
  9. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、130頁
  10. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、30-31頁
  11. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、31-32頁
  12. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、130-131頁
  13. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、32頁
  14. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、32-33頁
  15. ^ a b 佐藤『イスラーム世界の興隆』、63頁
  16. ^ a b c d 高野「フダイビーヤ」『岩波イスラーム辞典』、848頁
  17. ^ a b c d イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、134頁
  18. ^ a b c 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、33頁
  19. ^ a b c 小杉『イスラーム帝国のジハード』、137頁
  20. ^ デルカンブル『ムハンマドの生涯』、92頁
  21. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、135頁
  22. ^ イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、138頁
  23. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、33-34頁
  24. ^ 小杉『イスラーム帝国のジハード』、138頁
  25. ^ a b c イスハーク『預言者ムハンマド伝』3、143頁
  26. ^ a b 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、34頁
  27. ^ 森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、36-37頁
  28. ^ 小杉『イスラーム帝国のジハード』、139頁
  29. ^ デルカンブル『ムハンマドの生涯』、94頁
  30. ^ 小杉『イスラーム帝国のジハード』、139-140頁

参考文献[編集]

  • 小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(興亡の世界史, 講談社, 2006年11月)
  • 後藤明「フダイビヤの和議」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』(世界の歴史, 中央公論社, 1997年9月)
  • 佐藤次高編『イスラームの歴史』1(宗教の世界史, 山川出版社, 2010年6月)
  • 高野太輔「フダイビーヤ」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 森伸生、柏原良英『正統四カリフ伝』下巻(日本サウディアラビア協会, 1996年12月)
  • 前嶋信次『イスラムの時代』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)
  • イブン・イスハーク『預言者ムハンマド伝』3(イブン・ヒシャーム編註, 後藤明、医王秀行、高田康一、高野太輔訳, イスラーム原典叢書, 岩波書店, 2011年7月)
  • アンヌ=マリ・デルカンブル『ムハンマドの生涯』(改訂新版, 後藤明監修, 小林修、高橋宏訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2003年9月)

関連項目[編集]