ヒロシマ・サバイバー

ヒロシマ・サバイバー: Hiroshima Survivor)とは、アメリカ合衆国国立樹木園英語版にある、ゴヨウマツ: Japanese White Pine)の盆栽[1]。元々盆栽を所有し育てていた広島の盆栽職人である山木勝[2]から、山木松 (Yamaki pine)[3]、山木盆栽 (Yamaki Bonsai)[1]とも。

概要[編集]

映像外部リンク
400-Year-Old Bonsai Survived Hiroshima Bombing - ボイス・オブ・アメリカ

宮島五葉松の盆栽で、樹高100cm、幹の最大直径30cm[4]。手入れを始めたのが1625年(寛永2年)であることから、遅くとも2025年には樹齢400年に達する[1][2]。アメリカ国立樹木園内、盆栽・盆景博物館の日本館に展示されており、その中で最も高樹齢に当たる[1][3]

もう一つの特徴が、1945年広島市への原子爆弾投下によって被爆した被爆樹木ということである[1][3]。山木家は江戸時代から林業と盆栽を家業にしており[注 1]、この盆栽は当時爆心地から約2.5km離れた山木家の庭にクロマツなどの多数の盆栽とともにあり、原爆の閃光・爆風を直接浴びているが、庭の周りの家屋がある程度遮ったため無事だった[1][4]。また山木家のある己斐は被爆後1時間近く降った黒い雨の降雨地域であるが[6]、この盆栽に目立った症状は現れていない[4]

1976年、アメリカ独立宣言200周年記念(アメリカ・バイセンテニアル英語版)を機に日本盆栽協会からアメリカ盆栽・盆景博物館へ数点寄付をする話となり、協会広島支部長だった山木勝もこれに応え寄付し、現在に至っている[2][3][4]。当初アメリカ側はこの盆栽が被爆していた事実を知っておらず、2001年山木の家族が来園した際に初めて知ることになる[3][4]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この地の盆栽は、元和5年(1619年)浅野長晟広島城入りした時に連れて来た津ノ国屋次郎右衛門が現在の西区己斐に住み、その息子である植木屋次郎右衛門が普及発展させたことから[5]、山木家が盆栽を始めたのは少なくとも浅野氏広島藩以降のことになる。なお勝の息子は広島県議会議員の山木靖雄[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g NBF.
  2. ^ a b c The Yamaki’s White Pine” (英語). Ramble. 2016年5月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e Bonsai Tree Survived Hiroshima, Now in D.C.” (英語). NBCワシントン. 2016年5月25日閲覧。
  4. ^ a b c d e 被爆の盆栽 米で根を張る 広島の職人が40年前に寄贈”. 東京新聞 (2016年5月13日). 2016年5月25日閲覧。
  5. ^ 己斐のなりたちと歴史”. 21世紀の己斐を創る会. 2015年2月14日閲覧。
  6. ^ 今中哲二. “広島原爆‚黒い雨‛にともなう放射性降下物に関する研究の現状” (PDF). 京都大学原子炉実験所. 2016年5月25日閲覧。

参考文献[編集]

  • HIROSHIMA SURVIVOR” (英語). アメリカ国立盆栽&盆景博物館. 2016年5月25日閲覧。

関連項目[編集]

  • 護神 - 同じくアメリカ国立樹木園に展示されている盆栽
  • 被爆アオギリ - 広島市にある著名な被爆樹木