パリ国立オペラ

ガルニエ宮の舞台。9月のシーズン初日には同バレエ団の団員が勢ぞろいするデフィレ(行進、"Defile du Ballet")が行われる。

パリ国立オペラOpéra national de Paris)は、フランスを代表するオペラバレエ団体である。フランス文化省が管轄する『商工業的性格の公共機関』(Établissement public industriel et commercial français)の一つで、過去・現在のオペラとバレエ作品の紹介を使命としている。主にパリガルニエ宮オペラ・バスティーユで公演している。この団体を指してオペラ座、パリ・オペラ座、パリ国立歌劇場と呼ぶこともある。シーズンは9月に始まり翌年7月まで[1]

後進育成の教育施設を持ち、また青少年のための催しを毎シーズン開く。

歴史[編集]

『パリ国立オペラ』とは、パリの『国立オペラバレエ劇団』の、1994年以降の名前である。みなもとは、下記『劇団名の変遷』の項にある『音楽アカデミー』で、それは、作曲家ロベール・カンベール(Robert Cambert)と組んで宮廷用オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン(Pierre Perrin)の請願が、財務総監コルベールの仲立ちで、ルイ14世に認められ、1669年に設立された。

その後、『王立』、『帝国立』を冠したことも、単に『オペラ』と呼んだときもある。その『オペラ座』または『パリ・オペラ座』の呼称がいつごろから広まったかは、明らかにできないが、1875年開場のガルニエ宮の所在地は、『オペラ広場』で、1878年敷設の、ガルニエ宮コメディ・フランセーズとを直に結ぶ街路は、『オペラ大通り』である。日本のある仏和辞典は『opéra:歌劇、歌劇場』、『Opéra:パリのオペラ座』と書いている。

劇団が本拠とする劇場も《世界初演とそのときの劇場》にあるように移り変わった。

1672年イタリア生まれのジャン・バティスト・リュリがペランとカンベールを逐い、多くの自作を公演した。しかし、後継の親族らの経営は低迷し、1733年以降のラモーのオペラは評判を呼んだが、赤字は積もった。

フランス革命の10年ほど前には、ドイツグルックイタリアピッチンニのオペラが、競り合った。革命期には、迎合的な作品も上演された。経営者が次々と代わり、ナポレオン政府の1807年の経済的措置でようやく救われた。

1821年からの11代目の劇場サル・ル・ペルティエでは、まずパリに滞在中のイタリアロッシーニが活躍した。ドイツのマイヤベーア、イタリアのドニゼッティもパリに住んでオペラを書いた。初演ではないが、ワーグナーは、『タンホイザー』のオペラ座公演(1861年3月13日)のため、パリ人が好きなバレエを書き加えた(「パリ版」と呼ばれる)。

1880年3月22日には、ヴェルディが、ガルニエ宮で『アイーダ』の棒を振った。

300余年前の発足時から、この劇団は、内外の多くのオペラとバレエとを舞台にかけ、諸国の指揮者・歌手・演奏家・舞踊家・管弦楽団・歌劇団・バレエ団などを広く招き、世界的な歌劇団としての役割を果たしてきた。

オペラ・ガルニエの外観

座付きのオーケストラと合唱団を持ち、それぞれが演奏会も開いている。また、メトリーズ・デ・オードセーヌ(Maîtrise des Hauts-de-Seine)が公式の児童合唱団として活躍する。オペラ公演では管弦楽は座付きのパリ国立歌劇場管弦楽団が大半を受け持つが、バレエ公演では座付きオーケストラの他にコンセール・コロンヌイル・ド・フランス国立管弦楽団などが受け持つことも多い。

劇団名の変遷[編集]

劇団名のフランス史の節目ごとの変遷を列記する。

  • ブルボン朝時代
    • 1669:音楽アカデミー(Académie de musique)
    • 1672:王立音楽アカデミー(Académie royale de musique)
  • フランス革命
    • 1791:オペラ(Opéra)→ 音楽アカデミー → 王立音楽アカデミー
    • 1792:音楽アカデミー
    • 1793:国立オペラ(Opéra national)
  • ナポレオンの帝政・失脚・百日天下・失脚
    • 1804:帝室音楽アカデミー(Académie impériale de musique)
    • 1814:音楽アカデミー → 王立音楽アカデミー
    • 1815:帝室音楽アカデミー → 王立音楽アカデミー
  • ルイ・フィリップの退位、第二共和制の成立
    • 1848:国立劇場(Théâtre de la nation)
    • 1849:国立オペラ劇場(Opéra-théâtre de la nation)
    • 1850:国立音楽アカデミー(Académie nationale de musique)
  • ナポレオン3世即位、第二帝政
    • 1852:帝室音楽アカデミー
    • 1854:帝室オペラ劇場(Théâtre impérial de l'opéra)
  • ナポレオン3世退位、第三共和制
    • 1871:国立オペラ劇場(Théâtre national de l'opéra)
  • 第二次世界大戦
    • 1939:国立オペラ劇場連合(Réunion des Théâtres lyriques nationaux)
  • オペラ・バスティーユ開場
    • 1989:パリ・オペラ劇場協会(Association des Théâtres de l'Opéra de Paris)
    • 1994:パリ国立オペラ(Opéra national de Paris)

世界初演とそのときの劇場[編集]

以下、[1][2][3]……と、常打小屋を年代順に列記し、その劇場で初演された作品を、年代順に並べる。

☆印はバレエ作品で、作曲家名の次に隅付き括弧でくくったのは振付け師の名である。

[1] サル・ド・ラ・ブテイユ(1671年 - 1672年)、現在の6区、マザラン街。座主交代で放棄。

[2] サル・ド・ベル・エール(1672年 - 1673年)、リュクサンブール公園の北隣り。老朽化で移転。

  • リュリ:カドミュスとエルミオーヌ(1673年2月1日)

[3] 第1次サル・デュ・パレ・ロワイヤル(1673年 - 1763年)、現在のルーヴル美術館北隣り。1763年に火災。

[4] サル・デ・マシーヌ(1764年 - 1770年)、現在のテュイルリー公園の東端。仮住まい。

  • モンシニー:アリーヌ、ゴルゴンドの王妃(1766年4月15日)

[5] 第2次サル・デュ・パレ・ロワイヤル(1770年 - 1781年)、ルーヴル美術館の北隣り。1781年に炎上。

[6] サル・ド・ムニュ・プレジール(1781年)、現在のガルニエ宮の東1km。仮住まい。

[7] サル・ド・ラ・ポルト・サン=マルタン(1781年 - 1794年)、10区のサン=マルタン門付近。強度不足で移転。

[8] テアトル・デ・ザール(1794年 - 1820年)、2区の国立図書館の西、現在は『ラモー公園』。テロ事件で取り壊し。

[9] サル・ファヴァール(1820年 - 1821年)、現在のガルニエ宮の東400m。仮住まい。

[10] サル・ルヴォア(1821年)、2区の国立図書館の道路越し西正面。仮住まい。

[11] サル・ル・ペルティエ(1821年 - 1873年)、現ガルニエ宮の東400m。1858年にテロ事件、1873年に焼失。

[12] サル・ヴァンタドゥール(1874年)、現在のガルニエ宮の南南東500m。仮住まい。

[13] ガルニエ宮(1875年 - )

[14] オペラ・バスティーユ(1989年 - )

総支配人・音楽監督・舞踊監督[編集]

フランス語版ウィキペディアに記載されている。

2004年から2009年までは、ジェラール・モルティエが総支配人を務めていた。 現在の総支配人はステファヌ・リスネルフランス語版

職員の待遇[編集]

職員は基本的に公務員である。休日も勤務を余儀なくされることから重労働者とみなされており、他の公務員と異なり55歳以前から年金受給が可能[2]ダンサーに限れば42歳で退職することが可能な特例年金制度がある。この制度は、1698年ルイ14世が導入したものでフランス最古の年金制度の一つとなっている[3]

2019年、フランス政府は年金の優遇制度を事実上廃止する姿勢を示したことから、オペラ座の職員も12月5日から始まったストライキに参加。劇場の公演が中止される状況が続いた[4]

出典[編集]

  1. ^ 映画「新世紀パリオペラ座」プログラム16ページ
  2. ^ 大統領の社会改革案に猛反発、スト相次ぐ”. 独立行政法人労働政策研究・研修機構 (2007年11月). 2019年12月5日閲覧。
  3. ^ 仏政府、スト支持のオペラ座ダンサーらに譲歩案”. AFP (2019年12月29日). 2019年12月29日閲覧。
  4. ^ 仏ゼネスト4日目、クリスマスシーズンの経済に打撃”. AFP (2019年12月9日). 2019年12月15日閲覧。

参考文献[編集]

いろいろなウェブ情報のほか、

関連項目[編集]

外部リンク[編集]