バルーチスターン

バルーチスタン(桃色)

バルーチスターン(Baluchistan、バローチー語: بلوچستان‎)は、現パキスタンの西南(バローチスターン州)、イラン東南(スィースターン・バルーチェスターン州)、アフガニスタン南部にまたがる地方。バローチスターン(Balochistan)とも呼ばれる。

名称[編集]

バルーチスターンとは「バローチ人の土地」の意味。

明治時代には漢字で俾路芝[1]、卑路芝[2]と表記された。

地理[編集]

アラビア海に面するマクラーン海岸英語版には、パキスタンにはグワーダルグワーダル港英語版)があり、イラン側にはチャーバハールチャーバハール港英語版)がある。ゲドロシア英語版砂漠を擁する。

歴史[編集]

有史前[編集]

新石器時代紀元前7000年-紀元前2500年)のメヘルガル遺跡が知られている。バルーチスターンはインダス文明を担ったとされるバルーチ人ブラフイ人英語版が住んでいた。

クリ文化紀元前2500年-紀元前2000年)は、ゲドロシア英語版にあり、メヘルガル遺跡とはボーラーン峠英語版の反対側に位置している。クリ文化と同時代には西にジーロフト文化英語版などが知られている。クリ文化やジーロフト文化とインダス文明やエラムとの関係は未解明である。

古代[編集]

紀元前530年頃、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世によってゲドロシア英語版属州(サトラップ)が置かれた。

3世紀頃、マハーバーラタによればインド・スキタイ王国パラタラジャス英語版[3]があった。

イスラーム到来[編集]

7世紀にはウマイヤ朝、8世紀にはアッバース朝アラブ人の支配下に置かれていた。

13世紀にはモンゴル人の治世下になるイルハン国、15世紀にはチムール帝国の版図に入った。1486年、バルーチ人のミール・チャカール・リンド英語版リンド部族英語版の族長となると、ラシャリ部族英語版との30年戦争で勝利した。さらにミール・チャカールはアフガニスタンやパンジャーブ地方へも侵攻し勝利した。

カラート藩王国[編集]

カラート藩王国の国旗

1638年にカラート藩王国英語版1638年 - 1955年)が成立したが、ペルシャアフガニスタンからの影響が大きく、アフシャール朝ナーディル・シャーがカラートの部族連合軍に勝利し、カルホラ英語版の領土を奪われた。その後、半独立の状態が長く続いたが、1758年に再び独立を確保する。

イギリス保護領バルチスタン[編集]

1840年にイギリス軍が侵攻。1854年に条約を結び、イギリス保護領バルーチスターン英語版となった。このあたりはイギリスによるインドの統治が進むにつれて、本国とインドの間の電信線を敷くためには不可欠な地方となり、ガージャール朝ペルシャのナーセロッディーン・シャーロイター男爵が相談して行なわれた「ロイター利権英語版」(: Reuter Concession)の供与と連動して、イギリスはバルーチスターンを4つの藩王国(カラート藩王国英語版ハラーン藩王国英語版ラス・ベラ藩王国英語版マクラーン藩王国英語版)に分割し、バルチスタン首席弁務官領英語版を設置した。

バルーチスターン紛争[編集]

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、イギリスやパキスタンもカラート藩王国の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルーチスターン藩王国連合英語版として独立させ、議会や内閣を設置した。

パキスタンの軍事的圧迫(バルーチスターン紛争英語版)に抗すことができず、藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられた(en:One Unit)。

バルーチスターン併合後[編集]

バルチスタンはパキスタン国土の4割を占めるが人口は5%に過ぎない[4]。しかしバルチスタンは石炭天然ガスクロムなど豊富な資源に恵まれており、バルチスタンのバルーチ人はパキスタンと中国に富を収奪されているという意識を持っている。

1973年にイスラマバードのイラク大使館をパキスタン軍と警察が襲撃して武器が押収される事件が起き、イラクソビエト連邦インドはイランやパキスタンの領内で活動するバルーチスターン解放軍などのバルーチ民族主義英語版運動に援助を行ってるとパキスタン政府から非難された[5][6][7][8][9][10]

1973年、en:1970s Operation in Balochistan(1973年 - 1978年)。

1998年5月28日と5月30日にパキスタンナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣が初の核実験バローチスターン州チャガイ地区英語版Ras Koh丘陵英語版地下核実験施設で成功させた。

9・11テロ以後[編集]

2004年en:Drone attacks in Pakistan

2013年バルーチスターン解放軍によるen:2013 Quaid-e-Azam Residency attack

住民[編集]

イラン語群に属するバローチー語を話すバローチ人が住む。その他、パシュトー語を話すパシュトゥーン人ブラーフーイー語を話すブラーフーイー人英語版が住む。

言語は、第一言語としてパンジャーブ語シンド語が使用されるほか、第二言語としてパキスタンではウルドゥー語、イランとアフガニスタンではペルシア語が使用されるなど、多重言語となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 近八郎右衛門 編『明治改正大日本国名尽・世界国名尽』近八郎右衛門、金沢、1886年。全国書誌番号:40006482https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7621382017年12月20日閲覧 
  2. ^ 鈴木熊次郎 編『新案世界地図 : 教科適用』いろは書房、文陽堂、東京、1900年。全国書誌番号:40010941https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7675702017年12月20日閲覧 
  3. ^ 王朝名については、イラン系のPārthava、ギリシャ系のParthians、インド系のen:Parada Kingdomとの関連が指摘されている。"New Light on the Pāratarājas" p.11
  4. ^ 【巨竜むさぼる 中国式「資源」獲得術】第3部 真珠の首飾り(1)”. 産経新聞 (2010年4月2日). 2010年5月16日閲覧。
  5. ^ In Afghanistan's Shadow: Baluch Nationalism and Soviet Temptation by Selig Harrison
  6. ^ The Friday Times:Caught! (But what?) by Shahid Saeed” (英語). Thefridaytimes.com. 2014年10月14日閲覧。
  7. ^ Baluch, Ahmad K.. Inside Baluchistan, a Political Authorbiography by Mir Ahmad Khan Baluch 
  8. ^ “Obituary: Sher Mohammed Marri” (英語). The Independent. (1993年5月18日). https://www.independent.co.uk/news/people/obituary-sher-mohammed-marri-2323664.html 
  9. ^ “Iraq's shadow on Balochistan” (英語). Asia Times Online. http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/EA25Df01.html 
  10. ^ “Anatomy of Baloch Liberation Army” (英語). dawn.com. (2006年7月15日). https://www.dawn.com/news/201512 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]