ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワ
Hana Mandlíková
基本情報
国籍 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 プラハ
居住地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フロリダ州ブレイデントン
生年月日 (1962-02-19) 1962年2月19日(62歳)
身長 173cm
体重 60kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1994年
ツアー経歴
デビュー年 1978年
引退年 1990年
ツアー通算 46勝
シングルス 27勝
ダブルス 19勝
生涯通算成績 859勝312敗
シングルス 565勝194敗
ダブルス 294勝118敗
生涯獲得賞金 3,340,959 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1980・87)
全仏 優勝(1981)
全英 準優勝(1981・86)
全米 優勝(1985)
優勝回数 4(豪2・仏1・米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1987・88)
全仏 準優勝(1984)
全英 準優勝(1986)
全米 優勝(1989)
優勝回数 1(米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 準優勝(1986)
国別対抗戦最高成績
BJK杯 優勝(1983・84・85)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 3位
ダブルス 7位
ハナ・マンドリコワ

ハナ・マンドリコワHana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、チェコスロバキアプラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会女子シングルス「4勝」を挙げた名選手である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス7位。WTAツアーでシングルス27勝、ダブルス19勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。

来歴[編集]

父親のウィレム・マンドリク(Vilém Mandlík)は1956年メルボルン五輪1960年ローマ五輪で、オリンピックの100m走競技で決勝進出の経歴を持つ陸上選手だった。父親から恵まれた運動能力を授かったマンドリコワは、故国の偉大な先輩ヤン・コデシュに憧れてテニスを始める。少女時代は、当時チェコスロバキアのナショナル・チーム監督を務めていたベラ・スコバの指導を受け、成長期から同じプラハ市出身のマルチナ・ナブラチロワを目標に掲げてきた。

1978年にプロ入りし、その年にWTAツアーで2勝を挙げる。1980年全豪オープン決勝戦でウェンディ・ターンブルオーストラリア)を 6-0, 7-5 で破り、4大大会初優勝を飾った。翌1981年全仏オープンで初優勝を果たし、シルビア・ハニカ(当時西ドイツ)を 6-2, 6-4 で圧倒したが、ウィンブルドン決勝でクリス・エバート・ロイドに 2-6, 2-6 で完敗した。全米オープンは最初、1980年1982年の2度準優勝で止まり、どちらも決勝でエバート・ロイドに敗れていた。

第7シードで出場した1984年1月のバージニア・スリムズ決勝では、当時前年の全仏オープン4回戦で敗れて以来、54連勝中のマルチナ・ナブラチロワを破った[1]

1985年全米オープンで、マンドリコワは同大会3度目の決勝進出でついに初優勝を果たし、同国の先輩選手であるマルチナ・ナブラチロワを 7-6, 1-6, 7-6 で破った。本人の言葉によれば「私は12歳からマルチナのボールガール(球拾い)をやった」ほどの身近な憧れだったが、1986年ウィンブルドンでは5年ぶり2度目の決勝進出で、そのナブラチロワに 6-7, 3-6 で敗れた。1987年全豪オープン決勝でもナブラチロワと対戦し、マンドリコワが 7-5, 7-6 で勝ち、7年ぶり2度目の全豪優勝で4大大会「4勝目」を飾った。これがマンドリコワの最後の4大大会優勝になる。この年に西ドイツシュテフィ・グラフが世界ランキング1位に躍進し、女子テニス界は新たな世代交代期を迎えた。

1988年にマンドリコワはオーストラリア市民権を取得する。1990年ウィンブルドン2回戦敗退を最後に、28歳で現役を引退した後、チェコの後輩選手であるヤナ・ノボトナのコーチを9年間務めた。1994年国際テニス殿堂入りを果たしている。

4大大会優勝[編集]

  • 全豪オープン 女子シングルス:2勝(1980年・1987年)
  • 全仏オープン 女子シングルス:1勝(1981年)
  • 全米オープン 女子シングルス:1勝(1985年)/女子ダブルス:1勝(1989年) [準優勝2度:1980年・1982年]
ウィンブルドン準優勝2度:1981年・1986年)
大会 対戦相手 試合結果
1980年 全豪オープン オーストラリアの旗 ウェンディ・ターンブル 6-0, 7-5
1981年 全仏オープン 西ドイツの旗 シルビア・ハニカ 6-2, 6-4
1985年 全米オープン アメリカ合衆国の旗 マルチナ・ナブラチロワ 7-6, 1-6, 7-6
1987年 全豪オープン アメリカ合衆国の旗 マルチナ・ナブラチロワ 7-5, 7-6

私生活[編集]

1986年、レストランを営むオーストラリア人のヤン・セドラックとプラハで結婚[2]。2年後、オーストラリアの国籍を得てから間もなくして離婚した。2001年5月に双子を出産し[3]、女性のパートナーとともに子供を育てた。

脚注[編集]

  1. ^ ナブラチロワ55連勝ならず マンドリコワに敗れる 朝日新聞 1984年1月17日朝刊16ページ
  2. ^ John Roberts (2001年8月5日). “Kournikova limits her partners to Hingis”. The Independent. 2018年4月5日閲覧。
  3. ^ Hana Mandlikova happily shifts from Grand Slam champ to tennis mom”. SunSentinel (2015年7月14日). 2018年4月5日閲覧。

外部リンク[編集]