ノート:菩薩

大乗の菩薩[編集]

他のどんな菩薩と差別した菩薩を「大乗の菩薩」と言うのでしょうか? 故清水公照氏のように酸いも甘いも噛み分ける方ならいざ知らず、下手に華厳経に影響された仏教学者や僧侶の方の言説に振り回されると、かえってあらぬ差別を招くと思います。--2014年1月4日 (土) 16:44‎ 14.193.80.175

問題点の指摘[編集]

検証[編集]

① 現在、菩薩#概要の節にこのような記述があります。

菩薩の意味の広義化はむしろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれ、波羅蜜行に至らない修行者や、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える教説が現れ、大乗という語の意味も混乱した。これは、仏乗と表現せず如来乗を摂る教説とあいまって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。

② その出典は、こちらの経文だそうです。仏教経典の原文ですので一次資料です。

『妙法蓮華經文句(智顗説)』(T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。

③ この経文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の222頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。

華厳第八に云く、下劣にして沒を厭う者には爲めに聲聞道を示し、根鈍にして因緣を樂ふものには爲めに緣覺の道を説き、根利にして慈悲有るものには爲めに菩薩の道を説き、無上にして大事を樂ふものには無量の佛法を説くと、三十六に又云く、三解脱法は聲聞乘を出し、無諍法は緣覺乘を出し、六度四攝は大乘を出し、知一切法は佛乘を出すと。又第九地には聲聞乘相・支佛乘相・菩薩乘相・如來乘相を説く。

なお、②には(辟)という1字が加わっていますが、②の引用元である大正新脩大蔵経テキストデータベースの表示内容(画像)にはこの字はありませんし、③の国訳一切経にもこの字はありません。①の執筆者が出典なく付け加えたものであろうかと思われます。
この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 05:34 (UTC)[返信]

報告これと同種の問題提起はノート:禅定#検証ノート:四禅#検証ノート:中道#検証でも行われており、それぞれの問題箇所の執筆者はすべて同じ人であると思われます。あわせてご覧になりご意見ください。
報告また、このように仏教経典の原文を二次資料無しで解釈した結果をWikipedia記事に執筆している執筆者本人とみられる人物に対して、このような執筆がWikipediaの方針違反である旨、ノート:中道において指摘されております。併せてご覧ください。--Leonidjp会話2017年5月14日 (日) 05:34 (UTC)[返信]

>>この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?

なっていませんね、下記のとおり。

  • 菩薩の意味の広義化はむしろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれ、波羅蜜行に至らない修行者や、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった」:③には全く出てこない文意です。波羅蜜行、在家信者、衆生皆菩薩という名詞は②③にありませんし、②③は「華厳」第八および三十六というモノのことしか述べていませんので、これのみをもって「経論によって所説が種々不同になった」と言えるわけがありません。
  • 大乗という語の意味も混乱した。これは、仏乗と表現せず如来乗を摂る教説とあいまって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。」:混乱とか「合いまって」とか、何が何の原因になったとかいう文意は③に一切ありません。それらに相当する文言は②にも勿論ありません。

従いまして、この①は、出典としている経文からの引用部分に存在しない文意やフレーズを複数混ぜた文章です。ですから②は①の出典になりませんので、①は無出典ということになります。無出典のものは独自研究の定義に該当しますので独自研究です。--Leonidjp会話2017年5月24日 (水) 03:25 (UTC)[返信]

2017/05/26-1[編集]

5月26日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。

仏教では、仏教成立以前から存在したとされる[[声聞]]や[[縁覚]]とともに、声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられ<ref name="wbk">[http://kobun.weblio.jp/content/%E7%B8%81%E8%A6%9A 縁覚] - 学研全訳古語辞典 (weblio古語辞典)。</ref><ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%93%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%96%E3%83%84 辟支仏] - 日外アソシエーツ 難読語辞典 (weblio辞書)。</ref>、菩薩乗(bodhisattva-yāna)がたてられた<ref>{{独自研究範囲|[[補陀落山]]も菩薩乗の一種である。|date=2017-05-24|title=}}</ref>。しかし、菩薩の意味範疇は次第に多義化し、菩薩乗を経た修行者と菩薩乗を得るべく修行する者との区別が曖昧となり、やがて大乗仏教では[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮と相まって、縁覚乗(Pratyekabuddha-yāna)や声聞乗(Śrāvaka-yāna)の段階も含めて、そこにとどまることを目的としない[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩とした傾向がある<ref>古い経典ほど区別する傾向がある。例)[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%B8%81%E8%A6%9A%E8%8F%A9%E8%96%A9&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 縁覚菩薩 (Pratyekabuddha-Bodhisattva)]. 阿含部 (Āgama) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※「縁覚菩薩」を検索した結果を示しているにすぎないため別の意味が混在している可能性がある。</ref><ref>古い経典ほど区別する傾向がある。例)[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A3%B0%E8%81%9E%E8%8F%A9%E8%96%A9&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 聲聞菩薩 (Śrāvaka-Bodhisattva)]. 阿含部 (Āgama) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※「声聞菩薩」を検索した結果を示しているにすぎないため別の意味が混在している可能性がある。</ref>。
  • 出典とされる脚注2個(大正新脩大藏經データベースへの外部リンク)はいずれも、縁覚菩薩および声聞菩薩という語を大正新脩大蔵経テキストデータベースから検索した結果を表示しているだけである。具体的に経文のどこが、当記事のどの文(あるいは文の一部)の出典として設定されているかについては、執筆者からはまったく説明されていない。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:24 (UTC)[返信]

↑下線部を追記。なお、上述のとおり、大正新脩大藏經データベースへの外部リンク2個は単なるキーワードの検索結果を表示するものにすぎませんから、これでは出典を提示したことになっていません。今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

7日以上経ちましたが、この件は対応がなされませんでした。上述の引用文中の「しかし、菩薩の〜」「古い経典ほど区別する傾向がある」という文以降は、適切な出典がありませんので、記事から削除します。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 02:35 (UTC)[返信]
↑取り消し線と下線で訂正。「〜すべて菩薩とした傾向がある」の直後には現在は、これとは別の出典が付けられており、その出典付加からまだ7日経っていないため、そちらは残置しておく。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 02:46 (UTC)[返信]

上述のとおり削除しました。なお残存する問題点については#2017/06/11-1を参照ください。--Leonidjp会話2017年6月18日 (日) 02:52 (UTC)[返信]

2017/05/26-2[編集]

5月26日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。

菩薩の意味の広義化はむしろ[[大乗仏教]]で盛んであり、時代が下るにつれて[[成仏]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>、逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu"/>、菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。
  • 成仏、波羅蜜行、在家、衆生皆菩薩という名詞は、出典とされる妙法蓮華経文句からの引用部分に無い。また、「意味の広義化」、「時代が下がるにつれて云々」、「逆に」、「経論によって所説が種々不同になった」、「本来は○○とすべきものを××に置き換えた」、「分かりづらさの原因になった」という文意も、同引用部分に無い。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:24 (UTC)[返信]

今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月10日 (土) 04:57 (UTC)[返信]

編集した。--118.83.141.75 2017年6月10日 (土) 16:54 (UTC)[返信]
ほとんど解決してません。出典の無効ぶりが深刻すぎます。下記の#2017/06/11にも転記済み。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]

2017/06/11[編集]

菩薩の本文で指摘した問題(参照)をここにも転記しておきます。灰色部分は問題箇所を菩薩から引用したものです。

7日以内に対応がなければ記事から削除する用意があることを告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]

2017/06/11-1[編集]

しかし、菩薩の意味範疇は次第に多義化し、菩薩乗を経た修行者と菩薩乗を得るべく修行する者との区別が曖昧となり、やがて大乗仏教では[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮と相まって、縁覚乗(Pratyekabuddha-yāna)や声聞乗(Śrāvaka-yāna)の段階も含めて、そこにとどまることを目的としない[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩とした傾向がある<ref name="juchi"/>

※なお、ref name="juchi"は、荒牧典俊訳の『大乗仏典 八巻』 中央公論社、1974年、7頁。

>#2017/06/11-1
誰かが是認するかたちで編集してしまっています。利用者:Leonidjp でしょう。
↑この署名のないコメントは、#2017/06/11-3にIP利用者118.83.135.128が記入したもの(差分)を私がココへ複写したものです。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
>>:誰かが是認するかたちで編集してしまっています。利用者:Leonidjpでしょう。
コメント あなたは、どれが何を「是認」していると言いたいのか不明瞭ですが、そもそもこの箇所に上述の脚注(ref name="juchi")を記入したのはIP利用者であってLeonidjpではありません(差分)。また、後にこの箇所に付けられた独自研究範囲テンプレートを除去したのはIP利用者でした(差分)。
私はここで、このref name="juchi"が出典たりえないことを指摘しており、そういう問題の存在を示すのが、IP利用者が除去してしまった独自研究範囲テンプレート(差分)であったわけです。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
報告 上述のとおり、この荒牧典俊氏の『大乗仏典 八』 の7ページは、この段落の出典たりえません。この段落の内容は、同書同ページに載っていないことばかりです。これは本当にひどい虚偽情報の記載がなされた例です。出典無効を指摘してからすでに2週間以上経ちましたが、新たな出典提示はなく、出典に合わせて記事側が書き変えられることもありませんでした。出典無効ですので、この段落は除去します。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 04:14 (UTC)[返信]

2017/06/11-2[編集]

菩薩の意味の広義化はむしろ[[大乗仏教]]で盛んであり、独自研究範囲|時代が下るにつれて[[成仏]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>
>#2017/06/11-2
(辟)を取りました。
↑この署名のないコメントは、#2017/06/11-3にIP利用者118.83.135.128が記入したもの(差分)を私がココへ複写したものです。
上述の脚注内に無いはずの「成仏」が、記事本文にはなお残っている。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
取り消し線で訂正。「成仏」も、記述としてはすでに本文から除かれていたため。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 03:21 (UTC)[返信]

2017/06/11-3[編集]

逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_614/_pdf 法華経「声聞授記」の意図] 印度學佛激學研究第四十六巻第二号(平成十年三月) 614頁。</ref>、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu"/>

※なお、ref name="bosatsu"は、これ↓。

<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>
  • 妙法蓮華経文句の原文は「経論によって所説が種々不同になった」と述べていない。何が広義化したとか、何が「本来は菩薩乗と表現すべきだった」などとも述べていないし、何を何に置き換えたとも述べていない。--Leonidjp会話2017年6月11日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
上記に沿うように編集してあるものを差し戻している。再吟味するべき。--118.83.135.128 2017年6月19日 (月) 06:33 (UTC)[返信]
誰のどの編集が、どの出典に沿っていると言いたいのか不明。差分表示くらい自分で提示すべき。--Leonidjp会話2017年6月19日 (月) 07:03 (UTC)[返信]
「菩薩」の版間の差分。最後の編集部分の「六度四攝出大乘」とはそのとおりで、さらに「知一切法出佛乘」となるという出典であるのだから、大乗という語の意味も混乱したのである。--118.83.135.128 2017年6月19日 (月) 07:28 (UTC)[返信]
>>「菩薩」の版間の差分
コメント あなたのその編集は、#2017/06/11-1#2017/06/11-2#2017/06/11-3という3つの節にて既に指摘されている問題点が解決していないにもかかわらず、その問題点の存在を示す独自研究テンプレート4件を削除してしまっている。現時点で#2017/06/11-1#2017/06/11-2#2017/06/11-3には未だに応答が無いではないか。
>>最後の編集部分の「六度四攝出大乘」とはそのとおりで、
コメント 何が、何に対して如何なる意味で「そのとおり」と言いたいのか不明。応答の言葉が簡素にすぎる。
>>さらに「知一切法出佛乘」となるという出典であるのだから、大乗という語の意味も混乱したのである。
コメント 何が【さらに「知一切法出佛乘」となる】のか不明。従って、「大乗という語の意味も混乱した」という結論部分の妥当性が不明。--Leonidjp会話2017年6月19日 (月) 08:02 (UTC)[返信]
個々の問題点の指摘に応答するなら、細かく分けてある各節の中に記入お願いします。ココにまとめて書かないように。--Leonidjp会話2017年6月19日 (月) 08:11 (UTC)[返信]
#2017/06/11-1#2017/06/11-2#2017/06/11-3 と連動するので答えておくと、これは仏教解釈の問題でもリベラルアーツの問題でもなく、大学入試センターの国語の漢文程度の問題ではないだろうか。
問:本文『……三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘』で、攝出菩薩乗ではなく、攝出大乘としたのはなぜか、次の中から、これだけは絶対に間違っているという説明を1つ選べ。
1)菩薩乗は三解脱法のうちに入らないという説だから。
2)「出」ではなく「攝出」としたから。
3)波羅蜜十地をすべて菩薩としているから。
4)菩薩は乗と呼ばないから。
答えはもちろん 4)です。正答率50%の模範的な問題でしょう。当方はいつも出典から言える最低限のことしか記述していないので、独自研究ではありません。--118.83.135.128 2017年6月19日 (月) 12:03 (UTC)[返信]
コメント #2017/06/11-1#2017/06/11-2#2017/06/11-3で指摘されている事柄に対しては、この人は未だに応答してません。その代わりに別の〈問と答え〉を自分で提示しているだけです。他人から尋ねられたことには応えず、自分で問と回答を新たに創作しているだけですから、まだ対話になってません。
#2017/06/11-3の冒頭で提示している指摘を再掲しときます↓。
経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化にともなって、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>
  • 出典たる妙法蓮華経文句の原文は「経論によって所説が種々不同になった」と述べていない。何が広義化したとか、何が「本来は菩薩乗と表現すべきだった」などとも述べていないし、何を何に置き換えたとも述べていない。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 00:07 (UTC)[返信]
菩薩の意味が広義化した、菩薩乗とすべきを「大乗」とした、と本文に書いてありますよ。「経論によって所説が種々不同になった」も除去してありますが。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 02:55 (UTC)[返信]

(インデント戻します)。
>>「経論によって所説が種々不同になった」も除去してありますが。
コメント 了解。
>>菩薩の意味が広義化した、菩薩乗とすべきを「大乗」とした、と本文に書いてありますよ。
コメント その二点の出典がこれであるわけですが↓

<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>

この妙法蓮華経文句のどこが、

  • 菩薩の意味が広義化した
  • 菩薩とすべきものを大乗とした

という貴方の主張(かつ記事本文にも書いてあること)の出典ですか。具体的に説明してください。 その説明はまだされてません。
また、#2017/06/11-2および#2017/06/11-1への返答もまだです。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 03:56 (UTC)[返信]

IP利用者氏へ。あなたが、あなたの書いたこの脚注内の漢文(下記)を日本語としてどのように読んでいるかが不明なので(まだ誰にも開示されてませんので)、この漢文を貴方流に書き下しした文をここに披露してみてもらえますか? 途中で省略したりせず、先頭から最後まで書き下ししてみてください。

<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>

--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 05:43 (UTC)[返信]

>この妙法蓮華経文句のどこが、
>・菩薩の意味が広義化した
これは出典記述ではなく一般論です。元は釈迦が前世で到達した境涯を菩薩といったのだから自明です。現代では衆生皆菩薩をやや狭義化する説も唱えられ、本文の記述とその出典にあるとおり、妙心寺派教学部長は大乗仏教徒に限るとしており、多義化という点ではますます多義化している。
>・菩薩とすべきものを大乗とした
妙法蓮華経文句は、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗の順とせずに、菩薩乗を除いて大乗としている。まったくもって自明な帰結である。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
>#2017/06/11-2
(辟)を取りました。
>#2017/06/11-1
誰かが是認するかたちで編集してしまっています。利用者:Leonidjp でしょう。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
>この漢文を貴方流に書き下した文をここに披露してみてもらえますか?
この漢文ばかりは読み下す必要はないでしょう。左から右に読んでいけばその通りです。 せいぜい「六度四攝出大乘」の攝を四につけるか、大乗につけるか程度でしょう。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
個々の問題点に応答するなら各節の中に書いてくださいと要望してあるのに、ココへまとめて書いておられますね。#2017/06/11-2#2017/06/11-1に対するあなたの返答は、対応するそれらの各節にも複写しました。それぞれの議論はそれぞれの節で続けてください。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
>>>>この妙法蓮華経文句のどこが、
>>>>・菩薩の意味が広義化した
>>>>という貴方の主張(かつ記事本文にも書いてあること)の出典ですか。
>>これは出典記述ではなく一般論です。元は釈迦が前世で到達した境涯を菩薩といったのだから自明です。現代では衆生皆菩薩をやや狭義化する説も唱えられ、本文の記述とその出典にあるとおり、妙心寺派教学部長は大乗仏教徒に限るとしており、多義化という点ではますます多義化している。
コメント つまり、「菩薩の意味が広義化した」の出典は妙法蓮華経文句ではなかった、ということが執筆者から示されたわけです。妙心寺派教学部長のpdfが出典というなら、そのpdfの何ページ目のどのへんに書いてあるか明示してもらえますか?--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
>>>>この妙法蓮華経文句のどこが、
>>>>・菩薩とすべきものを大乗とした
>>>>という貴方の主張(かつ記事本文にも書いてあること)の出典ですか。
>>妙法蓮華経文句は、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗の順とせずに、菩薩乗を除いて大乗としている。まったくもって自明な帰結である。
コメント それでは答えになってません。「菩薩とすべきもの」というのは、この妙法蓮華経文句からの引用文中のどの語句であって、ソレが「大乗とされた(した)」という文意は妙法蓮華経文句のどの語句がどのように担っているのですか。あなたが脚注の中に書いている妙法蓮華経文句の原文から明示してください。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
>>>>この漢文を貴方流に書き下した文をここに披露してみてもらえますか?
>>この漢文ばかりは読み下す必要はないでしょう。左から右に読んでいけばその通りです。
コメント 書き下しをする必要が貴方自身にはなくても、他人には貴方の書き下しを読む必要があるのですよ。なぜなら、脚注の中に書いてあるのは数世紀以上前に書かれた漢文であるので、それを根拠として貴方が何事かを語る(=Wikipedia記事に執筆する)以上、その根拠となる内容(つまりそれが脚注内の漢文)を日本語で把握できなければ、Wikipediaに執筆された事柄の「根拠」を把握したことにならないですから。それぞれの漢文が著作された当時の中国語を今使える人は別ですがね。あなたは当時の中国語を今使えるわけですか? もし使えないなら、あなた自身も漢文を頭の中で日本語に変換して読んでいるはずだと思いますが、違うのでしょうか。漢文に書いてある漢字の各所に送り仮名を付け、また、個々の語句を読む順番を変えると、書き下し文となって日本語になるわけで、あなたもそういう作業を頭の中でしているでしょう? その作業の結果として貴方の頭の中に出来た書き下し文をここへ披露してみてくださいと言っているのです。--Leonidjp会話2017年6月20日 (火) 22:36 (UTC)[返信]
>妙心寺派教学部長のpdfが出典というなら、
随分とひっぱりますが、菩薩の広義化が一般論と言っても、世間一般の一般論という曖昧なものではなく、このwikiページの記述とその出典から十分に導き出せる一般論なのであって、妙心寺派教学部長の出典記述はワン・オブ・ゼムに過ぎません。--118.83.135.128 2017年6月21日 (水) 07:52 (UTC)[返信]
>「菩薩乗とすべきもの」というのは、この妙法蓮華経文句からの引用文中のどの語句であって、ソレが「大乗とされた(した)」という文意は妙法蓮華経文句のどの語句がどのように担っているのですか。
これについては答えましたよ。読み下しも困難です。それそのままです。リベラルアーツの知見に基づいて、どうしても「葬式検定」を想定した設問が欲しいようなので開示しておきますから、もうあまりひっぱらないでください。私は妙心寺派教学部長とはむかし鮨をご一緒したことがあるのです。
問: 菩薩乗を除いて、声聞乗、縁覚乗、仏乗の3つを三解脱法門とした説から、今日の日常語となったと思われるもののうち、これだけは絶対に間違っているというものを次の中から1つあげよ。
1)修羅場・ヤマ場・正念場
2)頓死・腹上死・お陀仏
3)鬼籍・冥福・成仏
答えは伏せておきます。--118.83.135.128 2017年6月21日 (水) 07:52 (UTC)[返信]
>>菩薩の広義化が一般論と言っても、世間一般の一般論という曖昧なものではなく、このwikiページの記述とその出典から十分に導き出せる一般論なのであって、妙心寺派教学部長の出典記述はワン・オブ・ゼムに過ぎません。
コメント 「出典」なるものから「十分に導き出せる」というのだから、具体的にどの出典から導き出したのか明示して下さい。それがなされないなら、「具体的な出典は示されなかった」という事実が残るだけです。
また、妙心寺派教学部長さんのpdfが出典のワンオブゼムであるかどうかは尋ねてません。「菩薩の意味が広義化した」というあなたの主張の出典が、そのpdfの何ページ目のどのへんに載っているかを尋ねています。
なお、菩薩の現在の版では、そのpdfは記事全体の第二段落の出典なので、今ここで議論している菩薩#概要節の出典としては採用されてません。概要節側の出典としても利用できると思っているなら、そのpdfを示す脚注は概要節側にも付けなければおかしいのです。自分で付けてください。付けないなら、概要節では出典として利用されていないことが確定したままです。
このpdf、11頁あるらしいですね。出典とするページを特定してください(現在の版でさえ、何ページ目を出典としているのか不明です)。--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 08:24 (UTC)[返信]
>>>>「菩薩乗とすべきもの」というのは、この妙法蓮華経文句からの引用文中のどの語句であって、ソレが「大乗とされた(した)」という文意は妙法蓮華経文句のどの語句がどのように担っているのですか。
>>これについては答えましたよ。
コメント どこで答えたんですか。差分表示か、あるいは書き込みの時刻を正確に示してください。
>>読み下しも困難です。
コメント この脚注内にあなたが引用している妙法蓮華経文句の書き下しをあなた自身が書けない(=能力的に無理)という趣旨のご発言ですか?--Leonidjp会話2017年6月21日 (水) 08:24 (UTC)[返信]
報告 妙心寺派教学部長氏のpdfで出典となっているのは10頁だったらしいです(参照)。--Leonidjp会話2017年6月23日 (金) 06:54 (UTC)[返信]

インデント戻します。
報告 約25日余り前に#2017/06/11-3にて取り上げた段落は、現在の版では下記のようになっています。#2017/06/11-3にて指摘してきた問題点のうち、なお残存する問題点と、新規に指摘する問題点を挙げておきます。

菩薩の意味の広義化は[[大乗仏教]]で盛んであり、時代が下るにつれて[[成仏|仏乗]]を出だした者<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>、逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説などが唱えられた<ref>[[苅谷定彦]] 「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_614/_pdf 法華経「声聞授記」の意図]}}」 印度學佛激學研究第四十六巻第二号(平成十年三月) 614頁。</ref><ref name="myoshinji" />。これに本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため<ref name="bosatsu" />、菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。
  • 菩薩の意味の広義化は大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれて仏乗を出だした者」という記述について。
    • その出典たる脚注内にある妙法蓮華經文句の原文には、何かが「広義化」したとは書かれていない。
    • (新規)「時代が下るにつれて」に相当する文言も脚注内には無い。
    • (新規)脚注にある「出佛乘」を「仏乗を出だした者」と読んでいることが明らかだが、その読み方を支持する信頼できる二次資料は挙げられていないため、この読み方は独自研究に該当する。「者」の字も当該箇所には無い。
  • これに本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため」という記述について。
    • 脚注内には「本来は菩薩乗とすべき表現」という文言もないし、何かを何かに「置き換え」たとも書かれていない。
  • 逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説などが唱えられた」という記述について。
    • (新規) その出典たるpdfの614ページには「波羅蜜に至らない修行者」という文言は無い。波羅蜜の語もない。
    • (新規) また、「逆に」という文脈設定も出典には無い。或るものが、別の或るものに対して「逆」の位置にあるという趣旨のこの記述は、出典によって支持されているわけではない。
  • (新規) この段落を先頭から「唱えられた」まで読み進めると、【「仏乗を出だした者も衆生皆菩薩とする説」が唱えられた】という文意、あるいは【「仏乗を出だした者も菩薩とする説」が唱えられた】という文意が存在している。ところが、その出典たるpdfの614ページには「仏乗を出だした者」という語は無く、仏乗という語も無い。
  • 菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった」という末尾の記述は、長らく無出典。独自研究

このように、妙法蓮華経文句を出典とした記述は、信頼できる二次資料において未発表の説であるので独自研究に該当しています。苅谷氏のpdfは二次資料ですが、同pdfを出典とした部分についても、そのpdfの当該ページに書かれていないことが菩薩の記事に記入されていることが上述のとおり明らかです。今日から7日以内に対応がなされなければ、この段落は記事から削除します。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 05:38 (UTC)[返信]
下線部を追記。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 07:58 (UTC)[返信]

編集した。--118.83.143.21 2017年7月8日 (土) 19:28 (UTC)[返信]

インデント戻します。
報告 この箇所はIP利用者の編集によって、下記のように変わりました。文言が若干増えただけです。上述のとおり指摘された問題点は全く解決していませんので、問題点の指摘を再掲しておきます。新規に発生した問題もあります。

華厳[[十地経]]は序章において、「十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行」を十波羅蜜としている<ref name="juchi">『大乗仏典 8巻 十地経』 荒牧典俊訳、中央公論社、1974年11月、7頁。</ref>。菩薩の意味の広義化は[[大乗仏教]]で盛んであり、時代が下るにつれて華厳経にならって[[成仏|仏乗]]を出だすことも十地の菩薩の範疇とされ<ref name="bosatsu">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>、逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説などが唱えられた<ref>[[苅谷定彦]] 「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/2/46_2_614/_pdf 法華経「声聞授記」の意図]}}」 印度學佛激學研究第四十六巻第二号(平成十年三月) 614頁。</ref><ref name="myoshinji" />。これに並行して、菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論が出現したため<ref name="bosatsu" />、{{独自研究範囲|菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった。|date=2017年5月26日 (金) 12:23}}
  • (新規)「華厳経にならって」とあるが、その出典たる妙法蓮華経文句の原文(脚注内)には華厳経の語がない。独自研究の披露。
  • (新規)「仏乗を出だすことも十地の菩薩の範疇」とあるが、その出典たる脚注内には、十地の語はないし、「菩薩の範疇」に相当する文言がどれなのか不明。
  • 菩薩の意味の広義化は大乗仏教で盛んであり、時代が下るにつれて仏乗を出だした者」という記述について。
    • その出典たる脚注内にある妙法蓮華經文句の原文には、何かが「広義化」したとは書かれていない。
    • 「時代が下るにつれて」に相当する文言も脚注内には無い。
    • 脚注にある「出佛乘」を「仏乗を出だした者」と読んでいることが明らかだが、その読み方を支持する信頼できる二次資料は挙げられていないため、この読み方は独自研究に該当する。「者」の字も当該箇所には無い。
  • これに本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える経論も出現したため」という記述について。
    • 脚注内には「本来は菩薩乗とすべき表現」という文言もないし、何かを何かに「置き換え」たとも書かれていない。
  • 逆に波羅蜜行に至らない修行者、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説などが唱えられた」という記述について。
    •  その出典たるpdfの614ページには「波羅蜜に至らない修行者」という文言は無い。波羅蜜の語もない。
    •  また、「逆に」という文脈設定も出典には無い。或るものが、別の或るものに対して「逆」の位置にあるという趣旨のこの記述は、出典によって支持されているわけではない。
  •  この段落を先頭から「唱えられた」まで読み進めると、【「仏乗を出だした者も衆生皆菩薩とする説」が唱えられた】という文意、あるいは【「仏乗を出だした者も菩薩とする説」が唱えられた】という文意が存在している。ところが、その出典たるpdfの614ページには「仏乗を出だした者」という語は無く、仏乗という語も無い。
  • 菩薩だけではなく大乗という語の意味も混乱し、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなった」という末尾の記述は、長らく無出典。独自研究

このように、妙法蓮華経文句を出典とした記述は、信頼できる二次資料において未発表の説であるので独自研究に該当しています。苅谷氏のpdfは二次資料ですが、同pdfを出典とした部分についても、そのpdfの当該ページに書かれていないことが菩薩の記事に記入されていることが上述のとおり明らかです。--Leonidjp会話2017年7月9日 (日) 00:54 (UTC)[返信]

報告 上記2017/7/9 00:54(UTC)に指摘した問題点には対応がなされないまま2週間経ちました。信頼できる二次資料において未発表の説として当該部分を削除しました。ただし第一文だけは出典のとおりなので残置(差分)。--Leonidjp会話2017年7月23日 (日) 05:43 (UTC)[返信]

2017/06/26[編集]

菩薩の導入部の段落の出典とされている山本文匡氏のPDFファイルは内容面で出典としては不十分であることをお知らせしておきます(参照)。IP利用者がこの箇所の要出典テンプレートを削除しましたが、問題は解決していません。--Leonidjp会話2017年6月26日 (月) 09:19 (UTC)[返信]

報告 この件はこの状態で一旦落ち着いたようです。--Leonidjp会話2017年7月8日 (土) 03:56 (UTC)[返信]

2017/07/09[編集]

IP利用者の編集によって、下記の記述が菩薩に加わりました。問題点の指摘を書いておきます。

初期大乗経典とされる[[般若経]]の中には、精進波羅蜜を離れることなく得証し終えるものが菩薩であると具体的に解説する記述も出現した<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説佛母寶徳藏般若波羅蜜經(法賢譯)』 (T0229_.08.0683c07: ~): 菩薩愛樂爲衆生 修治佛刹清淨行 恒行精進波羅蜜 無如微塵心退倦 大智菩薩倶胝劫 久修苦行爲菩提 不離精進波羅蜜 無懈怠心終得證。</ref>。一方で、[[華厳経]]は[[波羅蜜]]の修行者をすべて菩薩として記述した<ref name="juchi"/>。大乗仏教は[[声聞]]・[[縁覚]]を忌む風潮があるため、華厳経の方の用法が広く受入れられるようになったとみられる。

※なお、ref name=juchiの脚注は、荒牧典俊『大乗仏典 8 十地経』 中央公論社、1974年、7頁です。この7頁は、仏教経典「十地経」を荒牧氏が現代語訳したものが載っているだけであり、解説的なものは載っていないので、資料の性格としては一次資料です。

  • 「一方で、華厳経波羅蜜の修行者をすべて菩薩として記述した」という記述について。
    • その出典は上述のとおり、荒牧典俊『大乗仏典 8 十地経』 中央公論社、1974年、7頁です。同頁の内容が出典たり得ているかどうか検証してみます。この7頁に書いてあることをそのままココへ引用します↓。
 序章
 「十地を円満に成就した自在王」と名づけられる大乗経典
 オーン、すべてを知る者(一切知者)である諸仏・諸菩薩に礼拝したてまつる。
 すべてを知る知者は、この経典において、衆生のために十種の無上の徳あるもっともすぐれた菩薩行(波羅蜜)を列挙して、十の菩薩の地(くらい)を説法し、そうして、断滅して虚無になることもなく、恒常に有であることもない垢れなき中道を説きたまう。一つ一つの地の根本にある真理にもとづいて、である。私は、その十の菩薩の地の経をうたおう。菩提をねがうひとびとは耳を傾けるがよい。
つぎのように、私は聞いた。あるとき、世尊は他化自在天にお出かけになり、摩尼宝珠を内に
    • この引用を読めば明らかなとおり、この7頁には「華厳経波羅蜜の修行者をすべて菩薩として記述した」という文意はありません。
      • 「波羅蜜の修行者」という文言さえありません。「波羅蜜」は単に「列挙」される対象として挙げられているだけです。
      • 「波羅蜜の修行者がすべて菩薩だ」という記述の「すべて」という文言も、やはりこの7頁にはありません。
    • 従ってこれは、荒牧氏のこの本の7頁に載っていないことを、あたかも載っているかのように見せていたことが明らかです。これが故意であればWP:BP#虚偽情報の記載として投稿ブロックの対象になりうるものです。
      • なお、可変IPユーザーがこの荒牧氏の本の7頁に載っていないことをあたかも載っているかのように見せていたのは今回が2度目です。1度目は#2017/06/11-1に詳述してあります。
  • 般若経の中には、精進波羅蜜を離れることなく得証し終えるものが菩薩であると具体的に解説する記述も出現した」という記述について。
中道や中観を論じることと畜生道を論じることは、観点が違うだけというあなた(利用者:Leonidjp)にとって、序章に「中道」が出てきたことは勿怪の幸い。菩薩初地は餓鬼道もしくは無明、二地と三地は畜生道、四地はエテ公とかなんとか、そんな議論に持ち込む魂胆でしょう。もうやめてください。--118.83.145.55 2017年7月9日 (日) 18:45 (UTC)[返信]

報告 インデント戻します。上記2017/07/09 02:04(UTC)に指摘した問題点には対応がなされないまま2週間経ちました。信頼できる二次資料において未発表の説として当該部分を削除しました(差分)。--Leonidjp会話2017年7月23日 (日) 05:48 (UTC)[返信]

編集の理由説明[編集]

編集理由が編集要約欄に収まらないときは、ここに書いておきます。

2017/08/07[編集]

この編集について。

菩薩ではなく'''菩薩摩訶薩'''と、[[摩訶薩]](偉大な衆生)を付加して菩薩を差別化する経典がみられる。{{efn|菩薩摩訶薩の表現は部派経典である[[阿含]]部や華厳経を含む、全ての経・論・律部に見られる。[[兜率天]]上生・下生の別等、何らかの別を設けて使い分けられていると考えるのが妥当な経典もあるが一定ではなく、単に丁寧語として慣例的に使用されたケースも含めて、今後の研究対象と成り得よう。}}。

削除。全体が無出典。脚注部分は独自研究。「差別化」という評価も独自研究信頼できる二次資料において未発表の説であるため。

その他、独自研究である部分を除去。

以上。--Leonidjp会話2017年8月7日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

コメント 菩薩と菩薩摩訶薩(菩薩大士)を区別する経典があるということでしたら、梶山雄一『般若経 - 空の世界』(中公文庫)の154頁あたりで指摘されています。したがってこれは信頼できる情報源にて発表済の説です。註釈部分の {{efn|菩薩摩訶薩の表現は[……]と成り得よう。}} はわたしも独自研究だと思います。--Doomreaper会話2017年8月7日 (月) 18:34 (UTC)[返信]
 そうしますと、このefnテンプレートが始まる直前の「〜みられる。」のところまでは、梶山氏の154頁を出典として復元できるということになりますか?--Leonidjp会話2017年8月7日 (月) 23:16 (UTC)[返信]
コメント 一応は復元可能です。ただし、「菩薩を差別化する」の、何をどう差別化するかの文意が曖昧なので、それをそのまま再録してよいとは考えていません。「菩薩摩訶薩を差別化する」ということならば、菩薩と摩訶薩を連ねた合成語の菩薩摩訶薩を菩薩一般に対して差別化するという意味に了解できます(広辞苑第5版によると差別化とは「他との違いを明確にして、独自性を積極的に示すこと」)。しかし件の文は「菩薩を差別化する」となっています。その場合の菩薩は、菩薩摩訶薩を含めた広義の菩薩なのか、菩薩摩訶薩と対比される狭義の菩薩なのか。前者であれば、広義の菩薩を狭義の菩薩と菩薩摩訶薩に分けて両者を別扱いするということでしょうし、後者であれば、狭義の菩薩を菩薩摩訶薩よりも低くみて差別するという意味に解されましょう。--Doomreaper会話2017年8月8日 (火) 21:39 (UTC)[返信]
ありがとうございます。承知しました。私自身が梶山氏の154頁を確認していないという状態でもありますから、とりあえず、私の手での復元は控えます。--Leonidjp会話2017年8月8日 (火) 23:53 (UTC)[返信]
(Doomreaperさんはご存知ないかもしれませんのでお知らせします)大正新脩大蔵経テキストデータベースを出典に用いていた可変IP利用者は1年間の投稿ブロックとなりました。--Leonidjp会話2017年8月8日 (火) 23:56 (UTC)[返信]
コメント 投稿ブロックの件は承知しています。ソックパペット扱いされた当事者ゆえ、投票に参加せずに静観しておりました。件のIPユーザと2013年に活動していたログインユーザ利用者:Ese na heihati会話 / 投稿記録 / 記録氏との共通点について、コメント依頼のほうに投稿するつもりではいましたが、多忙のため、まとめる時間が取れませんでした。--Doomreaper会話2017年8月14日 (月) 14:13 (UTC)[返信]
コメント Wikipedia:投稿ブロック依頼/桃姫だいしゅきにて投稿ブロック依頼が出されていたログインユーザーとの編集の類似性も個人的に感づいておりました。どうも複数のログインユーザーと同一人物であった可能性があるように思います。--Leonidjp会話2017年8月14日 (月) 14:44 (UTC)[返信]

菩薩という漢訳の由来について[編集]

現在この記事には、『岩波仏教辞典』を出典として「菩薩という漢語は〔略〕と見なされている」という註釈が付されています。じっさい、『岩波仏教辞典』(国立国会図書館の書誌データベースでは『岩波仏教辞典』となっているが、正確には『岩波 仏教辞典 第二版』)の「菩薩」の項を見ますと、同辞典のほぼ転載となっていることがわかります。「〜と見なされている」と表現されていると一般的に受容されている見解であるかのような印象を受けますが、これはおそらく宇井伯寿の説です。この説は、現在入手しやすいと思われる文献では、書肆心水から再刊された『仏教思潮論』の80-81頁で説明されています。しかし、この説に言及している文献はそう多くないように思われます。菩薩(ぼさつ)とは - コトバンクを見ますと、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』に「サンスクリット語 bodhisattvaの転訛形の音写」、『大辞林 第三版』に「梵 bodhisattva の俗語 bot-sat の音写か」とあるのが宇井の説に相当すると思われますが、その他の事典類には記載されていません。三枝充悳は著書の『バウッダ』(小学館ライブラリー)の274頁、『仏教入門』(岩波新書)の137頁、『大乗とは何か』(ちくま学芸文庫)の229頁でこの説に言及しています(『大乗とは何か』では、宇井伯寿の名を出して紹介している)。

以下の文献はすべて、「菩薩」という漢語の呼称は原語のボーディサットヴァに由来しているという点で一致していますが、「菩薩」と翻訳される過程において「短縮された俗語形」(『岩波 仏教辞典 第2版』922頁)があったということには言及されていません。

  • 朝倉書店『仏教の事典』147頁:「「ボーディサットヴァ」〔略〕を省略したのが「菩薩」という呼称」(平岡聡)。
  • 法蔵館『[新版]仏教学辞典』407頁:「ボーディ・サットヴァ bodhi-sattva の音略」。
  • 水野弘元『仏教要語の基礎知識』(新版)27頁:「菩薩とは菩提薩埵 (bodhi-sattva) を簡略したもの」。
  • 植木雅俊『仏教、本当の教え』68頁:「ボーディ・サットヴァが「菩提薩埵」と音写され、さらに省略して「菩薩」となった」。
  • 立川武蔵『ブッダをたずねて 仏教2500年の歴史』94頁:「菩薩とは、ボーディ・サットヴァの音写」。

以上のことから、『岩波仏教辞典』を出典とした上記の註釈は(ほとんど転載になっていることも問題ですが)それが定説であると誤解されないように修正されるべきであると思います。--Doomreaper会話2017年8月14日 (月) 14:13 (UTC)[返信]

コメント Doomreaperさんのご意見に異存ありません。定説と見なせる状況にないという現状であれば、この注釈自体を除去してもかまわないと思います。--Leonidjp会話2017年8月14日 (月) 14:40 (UTC)[返信]