ノート:字体

リダイレクト[編集]

ノート:繁体字にもありますが、簡体字繁体字旧字体新字体…といった項目をここにリダイレクトして統合するのがよいでしょうか?それとも個別の項目を残しておくのがいいでしょうか?みなさんの意見をお聞かせください。218.43.229.102 2005年9月30日 (金) 02:07 (UTC)[返信]

簡体字・繁体字については、それぞれのページと内容がほぼ重複していますので、その部分を削除(重複していない部分は当該ページに移動)しました。--Kumatora 2005年11月18日 (金) 02:50 (UTC)[返信]

字体と字形[編集]

字体についてはいいと思いますが、字形についての考え方が特殊と思われるので、定義部分を差し戻しました。以下の記事中でも字形を字体に変えた部分を字形に戻した方がいいものもあると思います。

『常用漢字表』付録「字体についての解説」および『表外漢字字体表』前文「字体・書体・字形にかかわる問題とその基本的な考え方」に従うのがいいと思いますが、『表外漢字字体表』の前文を引用すると、

1)字体・書体・字形について
字体については,常用漢字表に示されている「字体は文字の骨組みである」という考え方を踏襲する。文字の骨組みとは,ある文字をある文字たらしめている点画の抽象的な構成の在り方のことで,他の文字との弁別にかかわるものである。字体は抽象的な形態上の観念であるから,これを可視的に示そうとすれば,一定のスタイルを持つ具体的な文字として出現させる必要がある。
この字体の具体化に際し,視覚的な特徴となって現れる一定のスタイルの体系が書体である。例えば,書体の一つである明朝体の場合は,縦画を太く横画を細くして横画の終筆部にウロコという三角形の装飾を付けたスタイルで統一されている。すなわち,現実の文字は,例外なく,骨組みとしての字体を具体的に出現させた書体として存在しているものである。書体には,印刷文字で言えば,明朝体,ゴシック体,正楷書体,教科書体等がある。
また,字体,書体のほかに字形という語があるが,これは印刷文字,手書き文字を問わず,目に見える文字の形そのものを総称して言う場合に用いる。総称してというのは,様々なレベルでの文字の形の相違を包括して称するということである。したがって,「諭」と「論」などの文字の違いや「談(明朝体)」 と「談(ゴシック体)」などの書体の違いを字形の相違と言うことも可能であるし,同一字体・同一書体であっても生じ得るような微細な違いを字形の相違と言うことも可能である。」

とされており、ここで字形は観念でもありませんし、字形の違いは線の太さや書き癖に限定されたものでもありません。字体が違えば、字形は異なりますが、字形が異なるからといって字体が違うとはかぎりません。

異体字に関する判断も人により違うかもしれませんが、図2と図3は『表外漢字表』の参考「表外漢字における字体の違いとデザインの違い」にある特定の字種において漢字使用の実態への配慮から字体の差ではないと判断されるもの(個別デザイン差)に相当するので、異体字にしないほうがよいと思います。--Radical8 2006年11月16日 (木) 12:26 (UTC)[返信]

ご批判については率直に承りました。やや舌足らずな部分もあったかと思い、再度修正を施したところです。しかしながらご批判の幾分かは、誤読によるものではないかと思量します.いみじくも引用いただいている『表外漢字字体表』の前文じたいも、おおむね同じことを言っているのです.以下、それについてご説明いたします.
>「字体は文字の骨組みである」という考え方を踏襲する。文字の骨組みとは,ある文字をある文字たらしめている点画の抽象的な構成の在り方
というのは、まさに「字体」=「抽象的な概念」としてのラングであると言っているのですし、
>字形という語があるが,これは印刷文字,手書き文字を問わず,目に見える文字の形そのものを総称して言う場合に用いる。
「目に見える文字の形そのもの」というのは、まさに「字形」=字体の「具体的な実現形」としての文字のかたち(すなわちパロール)であると言っているわけです.
こうしたラングとパロルの関係、それと字体―字形、音韻―音声との対応関係が成立するというごく基本については、ご理解いただけていない様子なのが残念です.
「字形の違いは線の太さや書き癖に限定されたものでもありません。」とおっしゃっていますが、そのような意図は当方にもなく(線の太さや書き癖は字形の違いの一例、それも小異の一例に過ぎない)、字形という言葉を線の太さや書き癖のような小異に限定したものと取られたのは、拙文のつたなさもさることながら、上記の関係を把握されないまま、文章を誤読されたためと推察します.
例えば音でいえば、/ア/という抽象的な「音韻」そのものは誰にも発音することはできません.そして、声色、声量や呼吸などによって、実際に発音される「音声」は一つとして同一でありません.それでもあなたの発音する「ア」とわたしの発音する「ア」は同じ/ア/であると認識されます.個別具体の音声の小異を捨象して同一であると認識する概念、これが音韻です。といって、ここからが重要なのですが、音声の違いと言った場合、個別具体の「ア」同士の違いに限定されるわけではありません。「ア」と「イ」の違いも勿論音声の違いなのです。音声が音韻の実現形である以上、自明のことといえます.
字体と字形の関係もこれと全く同じなのです.その意味で、「字体が違えば、字形は異なりますが、字形が異なるからといって字体が違うとはかぎりません。」というあなたのご意見は全く正しい.かつ、あなたが差し戻された版の記述とも矛盾はないのです.字形が具体的な実現形であるところのパロールに他ならないからこそ、『表外漢字字体表』の前文が言うように「様々なレベルでの文字の形の相違を包括」し得るわけです.また、「字形の違いにもかかわらず、小異を捨象してそれが同一の字であると認識する概念こそが字体なのである。」と書きましたが、これは逆に言えば字形の差が≪小異にとどまらなかった場合≫は、字体の違いになるということに他なりません。全般に舌足らずだったのかもしれませんが、特にここの部分については、説明を深めることといたしました.
一方、図2と図3の問題は確かに微妙な問題です.何を以て示差的な特徴ととらえるかによって、単なる(小異にとどまる)字形の違いなのか、字体(としてとらえるべき字形)の違いとしてとらえるべきものなのかは議論がありうると思います.これについては野村・小池(1992)が具体的にあげている基準(字体上の示差的特徴 例:線の交わりの数(例―ス/ヌ))も一つの参考になるでしょう.拙稿もそれに拠ったことを申し添えます.いったんは差し戻しますが、この箇所は大いにご検討をいただいた方がよいかもしれませんね.梅桃桜 2006年11月17日 (金) 19:20 (UTC)[返信]

字体と字形の関係を他の分野の対立用語と比定するのには反対です。音韻と音声の関係との比較はまだいいとしても、ラングとパロールとの関係とはかなり違うと思います。もちろんラングとは何か、パロールとは何かについても人によって解釈が違うかもしれません。しかし、ラングが「他の文字との弁別にかかわるもの」といった弁別の機能に関わらないことは指摘できると思います。また音韻と音声の関係に比定するなら、弁別や差異という観点から言って、字体と字形ではなく、「字体」と「文字」の関係になると思います。字形が物理的で視覚的な具体性をもったものであるのは確かにそうですが、それは単に字のかたちを指すのであって、字体と対立関係にあるような特殊な概念ではないと思います。こういった比定を認めるか否かは水掛議論になりますので、自分の考えによらず、他のラング-パロール、音韻-音声の関係と同じだと主張している文献をいくつか引用していただきたいと思います。

図2と図3、すなわち「刃」については『表外漢字字体表』で個別デザイン差であって字体の差ではないとされています。挙げられている参考文献は表外漢字字体表よりだいぶ前のものです。いろいろな意見があると思いますが、表外漢字字体表も議論のすえにできた一つの合意と考えられますのでそれに従うのがいいのではないかと思うのですが…。

また梅桃桜さんの編集がそれまでの編集方針を大きく変えてしまうことが問題と思います。それまでの編集では図1と図2で字体が異なることを、図2と図3で字体が同じであることを説明しています。それまでの編集方針に沿いつつ梅桃桜さんの意見を入れるなら、むしろ図を差し替えた方がいいのかもしれません。--Radical8 2006年11月18日 (土) 00:52 (UTC)[返信]

では、前掲、野村・小池(1992)より引用します。
音声 フェルディナン・ド・ソシュールは(1857~1913)は、一回的、具体的、個人的側面をパロルと名付け、繰り返し的、抽象的、社会的側面をラングと名付けている。音声には、パロル的音声、具体的音声と、ラング的音声、抽象的音声とがある。前者のみを「音声」とし、後者を「音韻」として別に扱うのが今日の言語学の大勢である。(P.21)
言語[ラングとパロル] ところで、実現化された音声や文字をつぶさに観察すれば確かに異なるのであるが、それぞれの人々が表現しようとしたものは同一であることも間違いない。言語には、このようにあい異なる二つの側面が共存する。言語を、物理的・具体的・個人的・結果的側面から把握したものをパロルといい、心理的・抽象的・社会的・意図的側面から把握したものをラングという。(P.62)
字形 文字が実際に書かれたり印刷されたりしたときに実現する幾何学的な図形。具体的な形として視覚的に確かめることができる点で、抽象的な概念である字体と区別される。(P.104)
文字 文字は一定の形を持つ。実際にわれわれが見ることができる文字の形を字形という。字形は抽象的な観念としての字体が実現したものである。(P.215~216)
字形は文字のかたちなのですから、字形の代わりに「文字」を持ってきて、字体と文字を対比させるのは論外だと思います。
図2と図3は確かに異体字と言い切ったのは勇み足であったかもしれません。より適切な表現や例への修正を私としても考えたいと思います。梅桃桜 2006年11月18日 (土) 01:41 (UTC)[返信]

引用されたものを見ても、音声がパロール的音声で、音韻がラング的音声ということが分かるだけで、字形-字体が音声-音韻、パロール-ラングという対応関係にあるとは書かれていません。「言語[ラングとパロル]」を見ると、むしろ音声は「文字」と並列されています。音声言語・文字言語とはいっても音声言語・字形言語とは言わないはずです。また私は字形と音声が対応するとは考えていないので、「代わり」というのは当てはまりません。音声と音韻の関係に比定するなら、音声に対応するのが文字、音韻に対応するのが字体であると言っているのです。そもそも言語学の術語と漢字学の術語を対応させるのも問題であって、言語学では字体の代わりに文字素、字体素、字素などと言ったりします。字形のレベルに相当するものは音声の側では、音長や音量、音質、視覚的に表せばフォルマントなどであって、これらの異なりを捨象して得られる音声観念が音韻であり、字形の異なりを捨象してできる文字観念が字体です。--Radical8 2006年11月18日 (土) 13:16 (UTC)[返信]

字体素は字体の構成要素(だから字体+素)、すなわち漢字の部首などを指すものです。字素というのもほぼ同義で、やはり字体の構成要素のことですね。つまり、これらは字体の代わりに使われている言葉ではありません。たまたま見ていた論文にこういう使用法があります。
「契丹小字はたて書き文字で、Ⅱa型に属するけれども、表音的な文字要素(字素)を左右に二つ並べて組み合わせているから、まず横書きして、ついで、たて書きしていることになる。漢字も同様で、たとえば「語源論」のような合体字を分解してみると、「|| || ||」のように左右に横に書いてついでたて書きしている。」(西田龍雄「文字の種類と機能―文字学序説」月刊言語 1984 Vol.13 No.4 大修館書店)
と明らかに、漢字のへんとつくりのことを「字素」と言っています。これを字体と同義とするのは無理がありますね。
つまり字体と字体素は意味が違うのであって、同じ意味の言葉を、学問分野で用語を変えているということではありません。そのような事実があれば、典拠をぜひ引用の上、編集にも反映させるべきだと思います。(余談ですが、言語学と漢字学はまったく違う分野であるとお考えなのも気になります。言語学の中に、日本語を対象とする日本語学があり、その中で表記(文字論・表記論)や音声(音韻論・音声学)を研究しているわけです。大学や院で日本語学を学ぶ場合、当然言語学概論や表記・音声の講義、ゼミをあわせて受講するわけです。その中で特に言語学と漢字学を隔てて、用語を使い分けるということはありません。共通に使える用語は使うし、相互に関連して研究していくのです。Radical8さんの場合もそうだったのではないですか?)
整理しますと、「字体素」は音で言う「音素」に比定すべきものであって、「字体」や「音韻」の下位に位置する概念であり、ともにラングです。また、「音素」(音韻論の最小単位)に対応する概念としては「単音」(音声学の最小単位)があり、これはパロルです(文字において「単音」に相当するこなれた言葉はあまり聞きませんが、「部分字形」などという言い方はよく使われていました)。
このように表記と音声では対応が取れており、それぞれのレベルにおいて、ラングとパロルがきちんと照応するわけです(というか両者をきちんと弁別する必要性があるから対応する用語があるというのが正しいでしょうね)。今、私の手元にありませんが、野村雅昭「字体素・音素・意義素」なども参考になると思います(持っていたはずなので、見つかったら引用します)。
当初、Radical8さんは(字体と字形の)「音韻と音声の関係との比較はまだいいとしても、」とおっしゃっていて、むしろ音韻と音声-ラングとパロルとの対応関係さえ認めないかのような言い方だったのに、今は「また私は字形と音声が対応するとは考えていないので、」とお考えが変わったのでしょうか? こちらが引用を示すと、反論の方向性や主張を変えられるのはどうかと思います。せめてこちらに求められているのと同等の引用は示して欲しい(例えば字体は漢字学の術語であり、字体素は言語学の術語であるといったことの根拠など)
前回の私の引用を素直に読めば、1.言語において、抽象的な概念がラングであり、具体的な実現形がパロルである。 2.音声の場合は、前者が「音韻」であり、後者が「音声」である。(音声が全体を指す場合と、後者のみを指す場合があるのにご注意ください。おそらくこれがそちらの議論の混乱の原因です) 3.文字のかたちにおいては、字形は具体的な実現形(パロル)であり、抽象的概念は字体(ラング)である。 というのは容易にご理解いただけるはずです。
「音声」をさらに細かい要素にばらして、「字形のレベルに相当するものは音声の側では、音長や音量、音質、視覚的に表せばフォルマントなどであって、これらの異なりを捨象して得られる音声観念が音韻であり、字形の異なりを捨象してできる文字観念が字体です。」などと言ってみたところで、単に上位概念を下位概念ないしは構成要素の列挙に言い換えたに過ぎず、上位概念同士の対応を否定する根拠にはなりません。あなたと同じ言い方をすれば、「音声のレベルに相当するものは文字の側では、点画、はね、とめ、などであって」と言っているだけなので、これでは音声と字形が対応することの否定にはならないでしょう。あげく字体素や字素に新たな独自の定義を作り出して混乱を大きくしているだけのように思えるのは非常に残念なことです。梅桃桜 2006年11月19日 (日) 10:56 (UTC)[返信]

音声学でいう音声は一般用語の音声とは違い、まずは言語音を分類した特殊な用語であって、自然の音や機械音、人間が出すうめき声やため息などは含まれません。音の長さや大きさなどを含めたさまざまな音の特徴を総称する語ではありません。それに対して字形は『表外漢字字体表』の定義では目に見える文字の形そのものを総称して言うときに使われ、さまざまなレベルに使われるとあります。「点画、はね、とめ」といった字画を字形として挙げられていますが、字画の違いも字形ですし、線の太さや長さなどの違いも字形です。ウロコがあるないといった書体の違いも字形です。英語では(letter) shape、中国語では(字的)形体に相当し、特殊な概念ではないというのが私の意見です。

字体素についてはこちらの書き間違いです。伝統の形・音・義に対する字体素・音素・意義素について書いたものの、話が別の方向にいき、また用語の定義も言語学とは異なると思って削除したのですが、それが残ってしまったものです。混乱をもたらした点、お詫び申し上げます。言語学の文献ですが、次のようなものがあります。

音声-音素の関係にちょうど対応するものとして、文字-文字素があります(文字素は「字素」「字体」ということもあるようですが、ここでは文字素で通すことにします)。文字はエティックで、文字素はイーミックです。「い」「い」と2つの文字を完全に同じように書いても、機械で厳密に測定してみると、線の長さや太さ、濃さが微妙に違っていることでしょう。しかし、イーミックなレベルでは「胃のことを言っているのだ」と分かりさえすれば、そんなエティックな違いは捨て去られて、2つの「い」は同じようなものとして、心の中の1つのスキーマに当てはめられます。そのスキーマが文字素です。(定延利之著『よくわかる言語学』1999年、アルク)

引用について素直に読めとおっしゃいますが、事典の別々の項目にある記事を「具体的」や「実現」といった語が共通するから対応するというのは無理があると思います。直接的に「字形と字体は音声と音韻の関係にある」とか、「字形はパロールで、字体はラングである」といった記述を見せていただければ納得します。--Radical8 2006年11月20日 (月) 12:06 (UTC)[返信]

「「字体」は標準的な字の形の観念であり知的・論理的意味を視覚的にあらわす機能をもつものを指し,これに対して「字形」は具体的に実現された字の形を指す。字体の要素に関する研究は字素論であるが,これは音韻論で言う「弁別音素 phoneme」の研究に相当する。字形の視覚的なデザインの研究は純粋音声学に相当する。」(犬飼隆(2002.9)『文字・表記探求法(シリーズ日本語探求法5)』朝倉書店)
「具体的に筆記具を用いて物の面に書いたり彫ったりした痕跡を字形として区別するならば、音韻と音声との区別における音韻に擬せられるのが字体である。すなわち、字形が現実的・個別的な、その都度多少の差の生ずる現象であるのに対して、字体は、抽象的普遍的で社会的に一定している観念」(国語学会編(1980)『国語学大辞典』東京堂出版) 
これらを見ても、明らかに音韻と音声、字体と字形は対比させられています。かつ、字体と字形の違いがそれぞれ抽象(あるいは社会的)と具体(あるいは個別的)という区別にあることも一貫しており、ラングとパロルであること、疑うべくもありません。さすがにこれでご納得がいただけたかと思います。まあ、そもそもが、字体と字形との対比そのものにご納得がいただけていない様子ですので、以下、駄目を押すばかりですが。
「さて、一般に文字の形を表すことばに、「字体」と「字形」がある。字形は、実際にペンで書かれたり、活字で印刷されたりして目に見える具体的な形を指す。つまり同じ字でも、書かれるごと、印刷されるごとに微妙な違いを有するものである。それに対して字体は、個々人の脳裏にある、字の形を抽象化した骨組みであり、社会的な約束によって成り立っている字画の構成の概念である。これは、今日では基本的には楷書体が元になっていると考えられる。この「字体」が個々の「字形」として実現するわけである」(笹原宏之(2003)『異体字とは(現代日本の異体字 所収)』)
ここで、最初の引用の「言語を、物理的・具体的・個人的・結果的側面から把握したものをパロルといい、心理的・抽象的・社会的・意図的側面から把握したものをラングという。」という下りを思い出してください。「具体的な」字形がパロルであり、「社会的な」字体がラングであることは至極すっきりと腑に落ちるはずです。梅桃桜 2006年11月22日 (水) 21:44 (UTC)[返信]

どうやらどの箇所に反対しているかについての理解が微妙にずれていることが分かってきました。私は梅桃桜さんの考えすべてに異議を唱えているわけでも、字体と字形の対比そのものに納得していないのでもありません。最初に申し上げたように、字体と字形の関係を「他の対立用語に比定する」のに反対しているのであり、もっと詳しくいえば、それぞれの術語が使われる文脈を抜きにしてAはCである、BはDであると単純な図式で「である」とまとめてしまっていることに反対しているのです。

挙げられた引用ですばらしいと思ったのは最初の『文字・表記探求法(シリーズ日本語探求法5)』です。「字体の要素に関する研究は字素論であるが,これは音韻論で言う「弁別音素 phoneme」の研究に相当する。字形の視覚的なデザインの研究は純粋音声学に相当する」と書かれていますが、ここで「研究」という行為のなかで両者が対応すること、「弁別」ということに関わることも分かりますし、単に字形の研究ではなく、字形の視覚的なデザインの研究とされていて、詳細な説明がなされています。これを単純に音声と音韻の関係は字形と字体の関係であるとまとめるのはどうでしょうか?最初の引用でもそうです。「言語を物理的・具体的・個人的・結果的側面から把握したものをパロルといい、心理的・抽象的・社会的・意図的側面から把握したものをラングという」というようにそれは「言語」をどういう側面から「把握する」かによって分けたものです。それを具体的な実現形がパロール、抽象的概念がラング「である」と単純に言い換えることができるでしょうか?またパロル的音声、ラング的音声、パロールとしての音声、ラングとしての音声というのが、音声はパロールで、音韻はラング「である」というのと同じでしょうか?その作られた図式にも違和感を覚えるのに、さらに字体と字形の関係に演繹することでますます距離が遠くなった印象を受けるのです。

最初に「音韻と音声の関係との比較はまだいいとしても、ラングとパロールとの関係とはかなり違うと思います」と申し上げました。それは音韻と音声の関係も「弁別」という機能の上でその関係が成り立っているからです(ただし、音声と対応するのが字形かについて私に別の意見があるのは上記の通りです)。しかし、ラングとパロールとの関係は果たして同じ文脈で語れる「である」で結べる関係でしょうか?今まで挙げられた引用の文章の主述関係や修飾関係、具体的に何と何をどういった観点で比較しているのかといった細かいところまでよく検討してみてください。--Radical8 2006年11月23日 (木) 02:54 (UTC)[返信]

引用を出す度に、主張と反論の方向性を大きく変えられるのは勘弁してください。これまで字体と字形、音声と音韻、ラングとパロルとの関係性をとにかく否定することに終始され、引用を示せば納得するとおっしゃていたのに、その引用を示した途端、今度は「である」と言い切るのに違和感がある?ですか。次から次に「否定のためにする」新たな観点での反論に、その都度誠実に応じるのは正直言って徒労感が大きいです。
「パロールである。ラングである」というこの場で書いた言い切り的表現がまずければ、現在の本文に実際に書かれている「言語学でいうラングとパロールに相当する。」という文章で何がまずいのか教えてください。また、そのような表現ぶりの訂正であれば、ここで長々と反論する必要はなく、そちらの感覚で、適切に本文を校正していただければ結構だったのではないですか? 腹案をお持ちなのでしょうから、編集なさってください。それを互いに揉んでいけばより適切な表現になるはずでしょうから。
正直申しまして、あまりの揚げ足取りっぷり、食言っぷりに驚き呆れた次第です。残念でした。梅桃桜 2006年11月23日 (木) 04:00 (UTC)[返信]
「字体についてはいいと思いますが、字形についての考え方が特殊と思われるので、」差し戻しますとまで言っていたお考えが、「私は梅桃桜さんの考えすべてに異議を唱えているわけでも、字体と字形の対比そのものに納得していないのでもありません。」に変わられたのもいつの時点だったのかよく分かりませんでしたね。結局、相手の意見に根拠が示されるたびに、特段の表明もなくお考えを少しずつ動かして「全否定してるわけじゃない」などと言われても、テレパシーがあるわけではないからこちらには分かりようがないのです。今後の議論の進め方、―より明快に自分のその時点の考え方を表明する重要性―の参考にしていただければと思います。梅桃桜 2006年11月23日 (木) 04:15 (UTC)[返信]

そんなに攻撃的にならないでください。こちらとしても自分の意図をなかなか理解していただけないので、もどかしいのは同じです。字形についての部分は梅桃桜さんご自身で編集されて分かりやすくなっているので、問題があるとは思っていません。

私の主張が変わっていると受けとめられているは心外でした。最初に「字体と字形の関係を他の分野の対立用語と比定するのには反対です。音韻と音声の関係との比較はまだいいとしても、ラングとパロールとの関係とはかなり違うと思います」という説明をずっと繰り返しています。

なぜ主張が変わったと受け止められるのか、揚げ足取りと感じられるのか、考えてみましたが、私が字体と音素(音韻)を意味の弁別という観点からの対応と見て、ラングとは別の次元と見ているのに対し、梅桃桜さんが抽象的概念と具体的実現という観点から字体-音韻-ラングと見ているからではないでしょうか。

私は弁別という点から字体と音素の対応は否定していませんが、字形と音声の対応には疑問符でした。ですから「音韻と音声の関係との比較はまだいい」と述べましたし、その後、字形と音声の違いについて述べました。またラングとパロールは抽象と具体に関わりますが、意味の弁別とは別の観点から語られる概念と考えています。このように意味の弁別という点に立っている以上、具体的か抽象的かは二次的なものであって、特に重要な要素と受け止められませんでした。引用された文章は梅桃桜さんにとって具体と抽象があるので、証明することになるのかもしれませんが、私にとっては異なる文章を具体と抽象が同じであるだけで無理に結びつけたと映りましたし、ラングと音素・字体は別次元のものと考えているので、ラング的音声=音韻がラング=音韻とは受け止められません。またこれまで挙げられた引用はほとんどが字体と音韻(音素)についてのもので、私も「まだいい」としたものです。これに対しラングとパロールについて1つだけです。梅桃桜さんにとって字体と音素の関係を認めることが、字体とラングの関係を認めたことになるのかもしれませんが、私にとってはそうではありません。ですから、「直接的」に「字形と字体の関係は音声と音韻の関係である」と「字形はパロールで、字体はラングである」とする文章を見せていただきたいと述べたのです。

勝手に編集してもよいとのことですが、以上のように私が書けるのは字体と音素の対応についてです。ラングとパロールは抽象的観念と具体的に実現されると書けばいいと思っている次第です。--Radical8 2006年11月23日 (木) 08:11 (UTC)[返信]

私も議論に疲れましたので、仰るように適当に編集しました。一応、折衷したつもりですが、ラング・パロールについて入れることには反対の立場ですので、本当に適当です。ラング・パロールについてはもっと多くの文献によることを期待します。--Radical8 2006年11月23日 (木) 10:11 (UTC)[返信]

音韻論や音声学といった他分野との比較、またパロールやラングといった概念への言及を削除したいと考えてます。これらは字体についての説明になっておらず、「『字体』の項目」には不要と思います。何かと何かが似ているとか、互いに相当するものだと言うだけでは、事典の記述として役に立たないんじゃないでしょうか。他の方の意見を待ちつつ、何もなければ2週間くらいで該当する部分を消すつもりです。--どん底 2007年7月14日 (土) 10:44 (UTC)[返信]

くずし字[編集]

くずし字の項目を新規に立てた者です。関連でこちらの「旧字体」の「字例」を書き込みました。しかし「くずし字」も江戸時代の主流をなした「字体」です。どこかに入れていただけないでしょうか。--盛衰栄枯 2007年12月22日 (土) 05:25 (UTC)[返信]

本項目には(1)文字コードの規格などで用いられる「字体」と、(2)広く文字一般についての「字体」という、それぞれ少しずつ異なる説明が同居してます。で、くずし字という概念を加筆するなら、同じ文字であっても書体が変われば字体も変わることに言及する必要があると思うんです。たとえば草書と楷書を比べてみても、両者は形態が全く異なり、小さな字形の違いに留まらない字体の違いがあるとみるのが妥当でしょうから。でも現状の記事本文は(1)に合わせて『字体が違えば別の文字』となってるんですよね。ここに大きな食い違いがあるんで、書き換えるとなると結構オオゴトになってしまいそうです。--どん底 2007年12月22日 (土) 12:37 (UTC)[返信]

旧字体の内部リンクはここになりますので、旧字体の字の例をここに入れたのですが、なぜいけなかったのですか?私のホームページの旧字体ページを、外部リンクの所に置いてもいいでしょうか?(「くずし字」下段の外部リンクのところにあります)私の作成したものは、実際に読む場合に便利な用例を集めたもので、こちらの全体的な編集方針には合わない、というようなことがあるでしょうか。 http://park.geocities.jp/siryouhihann/kyuujitai.html --盛衰栄枯 2007年12月23日 (日) 09:58 (UTC)[返信]

「芸→藝」と書かれてましたが、記事本文にあるとおり、新字体と旧字体は必ずしも一対一に対応するわけではないですよね。常用漢字表にしたがえば「藝」を「芸」と表記しますけど、「芸」はもともと「ウン」と読む、薬草のヘンルーダを意味する別の文字だったわけです。「台→臺」なんかも本来は別の字で、天台宗は昔からずっと「天台宗」で、「天臺宗」ではないわけです。
「学会→學會」のように熟語が入り混じっているのにも違和感があります。字体について説明するのに、どうして熟語で用例を示す必要があるでしょうか。便利な用例といっても、結果的には「盛衰栄枯さんの便利」に留まってしまっているように思うのです。--どん底 2007年12月23日 (日) 20:52 (UTC)[返信]


私は、用例はある本を、また新旧対照は角川「漢和中辞典」の当用漢字音訓表から引用しています。この辞典では、一字につき一字を対応させた書き方になっています。「芸」は、香草の「ウン」と「藝」の略字と、二種がある、という説明になっています。「台」も、元は二字だったが、早くから「臺」の俗字として使われた、とあります。矢印は逆向きの方が間違いがないでしょう。

江戸時代の「楷書の本の実物」を読む必要があることは、あまりないと思います。たいてい漢籍か仏典だと思いますので。(数学書もありました。漢文だったのでしょうか)だから「旧字体」といえば、明治から終戦までの、約80年間くらいの本だと思うのです。それ以前は、新字体という概念が届かない時代のような気がします。

どん底さんのおっしゃることももっともですが、「旧字体」を調べて「旧字体」の文字が出てこないのは、不便だと思います。他のサイトも見てみましたが、機械的に並べた形だと、読むときにどの文字を押さえればいいのか、ポイントがわかりませんでした。

私の字例が良いとは申しませんが、「旧字体」を見ようと思って、「くずし字」で見るなんて、不便だと思います。できれば、私の字の例くらいに、形が激変したものを選択してのせていただければ、ありがたいと思います。--盛衰栄枯 2007年12月24日 (月) 07:07 (UTC)[返信]

お書きのとおり、一般的に旧字体は新字体以前の活字字体(特に明朝体)のことを言うと思います。そこで、記事本文には当用漢字常用漢字新字体へのリンクがありますから、そちらの項目で具体的な字体を確認するほうがいいのじゃないでしょうか。この項目は「字体」を広く扱うものなので、部分的な実例をむりに挙げなくてもよいと思うのです。
また、字形の違いをどこまで新旧の字体差と見なすかは、人によってマチマチです。たとえば、筆押さえのある字形を旧字体とすることがあります。一方で、筆押さえは明朝体の特徴のひとつに過ぎないとし、字体の差と見ない立場もあります。そのような解釈の違いをどう扱うかという問題も出てくるんじゃないでしょうか。--どん底 2007年12月24日 (月) 09:44 (UTC)[返信]

項目の名前ではないのに、どうして「旧字体」の内部リンクはここなのですか?「ふりがな」の項目でも、旧字体そのものの説明が必要だと感じました。日本特有の問題を振り返る時、独立した旧字体の項目があった方が便利だと思います。--盛衰栄枯 2007年12月25日 (火) 02:04 (UTC)[返信]

このようなものは字体?字型?[編集]

漢字だけではなく、万国普遍に思えるアラビア数字にもこのような http://ja.wikipedia.org/wiki/7#mediaviewer/File:Seven111.jpg 違いがありますが、これは本記事で扱う内容でしょうか? 他にもタイやミャンマーなど文字の角や先端を丸める文化圏ではアラビア数字の「2」が筆記体の「L」のように書かれるなど、文化圏によって字型(字体?)が大きく変わることを思い知らされますが(、こういったことはどこに記述すべきでしょうか? --Tonbi_ko会話2014年12月13日 (土) 20:44 (UTC)[返信]