ナビー・ムーサー

ナビー・ムーサー廟

ナビー・ムーサーアラビア語では「نبي موسى(=預言者モーゼ)[1]」)は、ジュデア沙漠(صحراء يهودا サフラー・ヤフーダン)の地名である。モーセに関する、有名なパレスチナの民話で知られる。またナビー・ムーサーは、ギリシャ正教の暦で、聖金曜日の前の金曜日から始まる、7日にわたるパレスチナ人ムスリムの宗教的祝祭の名前でもある。[2]この祝祭は「パレスチナで最も重要なムスリムの巡礼[3]であると考えられている。この祝祭の中心は、エルサレムから、ナビー・ムーサーへの集団巡礼である。それはジェリコの近くにあり、モーゼの墓であると考えられている。 またエルサレムからメッカに巡礼[注釈 1]に向かう際の第一参詣所であった。[4]

1931年にイギリス当局より行われたセンサスによると、ナビー・ムーサーの人口は3名(1軒)であった。[5]同名のパレスチナ人の村が近所にある。2007年のパレスチナ中央統計局によると、ナビー・ムーサーの人口は309名である。

歴史[編集]

オスマン朝の旗がナビー・ムーサーに翻っていた最後の時。1917年。

旅行記の中のナビー・ムーサー[編集]

1920年のナビー・ムーサー暴動の前のナビー・ムーサーの祭り。1920年撮影。

モーゼの石[編集]

ネゲブ沙漠(صحراء النقب ナカブ沙漠)のベドウィン瀝青頁岩から油をつくっていた。それはムーサー廟の近隣地域から見つかるものだった。ベドウィンはその岩を「モーゼの石」(احجار موسى イフジャール・ムーサー)と呼んでいた。ベドウィンはナビー・ムーサー地域の聖性を信じるのみならず、がモーゼが葬られたこの地を「火の石」と井戸で祝福したと信じた。タウフィーク・カナーンはその著者『回教の聖人と聖域』(1927年)において、廟の近くの黒い石は火の中に置くと燃え、護符を造るのにも使われると述べた。その場合は、石を方形と三角形に切り、護りの章句を彫るのであった。

モーゼの埋葬地[編集]

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ハッジウムラ

参照元[編集]

  1. ^ For Moses as nabi in Islamic holy scripture see Quran 19:51 (glossed by rasul ‘messenger’).
  2. ^ Samuel Curtiss (2005). Primitive Semitic Religion Today. Kessinger Publishing. pp. 163–4. ISBN 1-4179-7346-3. https://books.google.ca/books?id=qMTRCuk3gD0C&dq=%22nebi+musa%22&lr=&as_brr=3 
  3. ^ Rivka Gonen, Contested Holiness: Jewish, Muslim, and Christian Perspectives on the Temple, KTAV Publishing House 2003 p.138
  4. ^ 『遥かなる聖都エルサレム』編集委員会(2000)(2000) p.79
  5. ^ Mills, 1932, p.45

参考文献[編集]

  • 『遥かなる聖都エルサレム』編集委員会『『遥かなる聖都エルサレム』:ガラス乾板に残された100年前の聖地』柏書房、2000年3月。ISBN 4-7601-1852-7 

外部リンク[編集]