ドミトリー・ムスチスラヴィチ

ドミトリー・ムスチスラヴィチ
Дмитрий Мстиславич
コゼリスク公
在位 1216/9年 - 1223年

死去 1223年5月31日
配偶者 マメルファ
子女 ミハイル
フョードル
家名 リューリク家
父親 チェルニゴフ公ムスチスラフ
母親 マルファ
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ドミトリー・ムスチスラヴィチロシア語: Дмитрий Мстиславич、? - 1223年5月31日)は、チェルニゴフ公ムスチスラフの子である。母はヤースの公女マルファ[1]コゼリスク公:1216年もしくは1219年 - 1223年。

生涯[編集]

ドミトリーの生年については詳しくは不明である。ルーシの年代記レートピシ)にはその名も記載されておらず、ドミトリーという名は『リューベチ・シノディク』等の過去帳に記されたものである[2][注 1]。また、V.タティーシチエフ(ru)は名をヴァシリコとし[4]。L.ヴォイトヴィチはヴァシリコを本名、ドミトリーを聖名であるとみなしている[5]

年代記における、ドミトリーに関する記述は1箇所のみである。すなわち、父ムスチスラフや他のルーシの諸公らとともにカルカ河畔の戦いに参加した、という記述である。この戦いで多くの公が戦死・刑死し、ドミトリーもまたその中の1人であったと考えられている[1][6]

N.バウムガルテン(ru)は『リューベチ・シノディク』に基づき、ドミトリーはチェルニゴフ公であったとみなしている[7]。しかしこの説は否定的見解を受けており、L.ヴォイトヴィチは、ドミトリーは父がチェルニゴフ公となった後に、コゼリスク公国分領公国として受領したのみとみなしている[5]

妻子[編集]

『リューベチ・シノディク』によれば妻の名はマメルファ[2]。子には以下の人物がいる。

  • ミハイル
  • フョードル

2人の子の名は年代記には記載なく、『リューベチ・シノディク』によるものである。また、『リューベチ・シノディク』においては2名ともチェルニゴフ大公(ヴェリーキー・クニャージ)とされている[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「過去帳」はロシア語: синодикからの直訳による[3]。詳しくはru:Синодикを参照されたし。

出典[編集]

  1. ^ a b Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время. — С. 69-70.
  2. ^ a b c Зотов Р. В. О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время. — С. 89-90.
  3. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。p996
  4. ^ Татищев В. Н. История Российская. — Т. 3. — С. 218.
  5. ^ a b Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
  6. ^ Карамзин, 1816—1829 — Т. III — Глава VIII
  7. ^ Baumgarten N. Généalogies et mariages… — P. 89.

参考文献[編集]