ドイツ騎士団総長

ドイツ騎士団
総長
Hochmeister
ドイツ騎士団総長の紋章(Sigillum Magistri Generalis Hospitalis Sancte Marie Theutonicorum Ier(oso)l(o)m(i)tan(i))。この紋章は13世紀以降、1498年にフリードリヒ・フォン・ザクセンが廃止するまで用いられた[1]
現職者
フランク・バヤール

就任日 2018年
上官教皇庁
任期終身
初代1219年

ドイツ騎士団における総長またはホーフマイスター (ドイツ語: Hochmeister; ラテン語: Magister generalis英語: high master) は、ドイツ騎士団の最高位の指導者の役職で、ドイツ騎士団国国家元首である。他の騎士修道会におけるグランドマスター(総長)に相当する。ドイツ語では、一般に騎士団総長にはグロースマイスター(ドイツ語Großmeister 英語: Grand master)の語が当てられるが、ドイツ騎士団についてのみ「ホーフマイスター」という名称が用いられる。

名称[編集]

初期の正式名称は「アレマン人のイェルサレムの聖マリア病院長」(ラテン語Magister Hospitalis Sanctae Mariae Alemannorum Hierosolymitani)であった。1216年以降は、「テュートン人のイェルサレムの祝福された処女マリアの病院長」(ラテン語Magister Hospitalis Domus Sanctae Mariae Teutonicorum Hierosolymitani)を名乗っている。

1525年、ホーフマイスターとドイッチュマイスター(マギステル・ゲルマニアエ)が統合された。ドイッチュマイスターとは、1219年に神聖ローマ帝国内の管轄地域の長として創設された役職で、1381年にはイタリアも管轄に含まれ、1494年以降は神聖ローマ帝国の公爵と同等とみなされた。これを1525年に総長ヴァルター・フォン・クローンベルクが統合して以降は、ホーフ・ウント・ドイッチュマイスター(ドイツ語: Hoch- und Deutschmeister)というものが総長の称号となった[2]

紋章[編集]

総長の紋章(Deutschmeisterwappen)は、金色のクロス・フローリー(端がユリの形をした十字)と松葉杖十字(端がそれぞれT字になっている十字)を組み合わせたものが黒い十字架の上に載り、さらにその手前にインエスカッシャンとして皇帝の鷲が描かれている。金色のクロス・フローリーが黒十字に載る意匠は15世紀以降に広く用いられるようになった。伝説によれば、1250年8月20日、フランス王ルイ9世がドイツ騎士団総長に対し、イェルサレム十字の変型およびフランスの象徴フルール・ド・リスの使用を認めたことが始まりだとされている。この物語は近世の文献(クリストフ・ハルトクノフ、1684年)にまでしか遡ることができないが、この紋章が13世紀半ばから用いられ始めていることはいくつかの文献から示されている[3]

宗教改革以前[編集]

他の中世国家の君主交代と比べ、ドイツ騎士団における総長交代時の権力移行はかなり効率的であった。前の総長が死去すると、副総長が騎士団の指揮官たちによる総会を召集する。この総会で7人の騎士、4人の下士官、1人の司祭からなる12人の選挙人団を選出し、彼らが多数決で総長を決める。ただし、少数派となった総長候補とその支持者は多数派の候補への支持を改めて表明させられ、一応全会一致の形をとる。この継承手続きは、およそ3か月の期間のうちに行われた[4]

総長候補は騎士団の幹部を経験した人物から、主に血統ではなく能力によって選ばれた[5]。ただ、騎士団の勢力が衰えてくると、ヴェッティン家フリードリヒ・フォン・ザクセンホーエンツォレルン家アルブレヒトのように有力家系から選出されることもあった。

もともとドイツ騎士団はウトラメールのアッコを拠点とし、総長は主に教皇や皇帝の宮廷にいた[6]。13世紀にプロイセンを征服して1309年に本部をヴェネツィアからマリエンブルクに移して以降、総長はドイツ騎士団国(オルデンシュタート)の国家元首となり、強大な権力を持った。彼はプロイセンの統治権と軍事権を握っていた。総会はエルブロンクで開かれ、ここで総長はその権力をふるい行政的措置を通すことができた[5]。また総長はマリエンブルク城の城主を兼ね、騎士団の会計も握っていた。さらにはハンザ同盟の一員でもあり、関税収入を手にすることができた[7]

2007年に行われたクフィジン(マリエンヴェルダー)の教会の発掘調査で、中世後期の総長ヴェルナー・フォン・オルセルン (1324–30)、ルドルフ・ケーニッヒ・フォン・ヴァッツァウ (1342–45)、ハインリヒ・フォン・プラウエン (1410–13)の遺骨が見つかった。それまでこの教会はポメサニア司教の埋葬地として知られていたが、ドイツ騎士団総長も葬られていたことは知られていなかった。彼らの遺体は金の装飾が施され絹のローブをまとった木製の棺に収められていた[8]

初期の兄弟団の指導者, 1190年–1198年[編集]

ウトラメールにおけるホスピス兄弟団だったころの指導者たち。

  • 1190年 マイスター・ジブラント
  • 1190年—1192年 コンラート
  • 1192年 ゲルハルト
  • 1193/94年 小修道院長ハインリヒ
  • 1195年–1196年 ウルリッヒ
  • 1196年 ハインリヒ (おそらくハインリヒ・ヴァルポットと同一人物)[9]

騎士団総長, 1198年–1525年[編集]

第4代ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァバロック時代の肖像画
聖ガレン紋章鑑に描かれたドイツ騎士団総長の紋章。1470年、ハインリヒ・ロイス・フォン・プラウエンまでの29人分がおさめられている。
1309年9月14日にマリエンブルクに入城する総長ジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲンと騎士たち。ドイツ騎士団が聖地からプロイセンへと活動の場を移した場面である。1825年の歴史画

聖的な騎士修道会としては、ドイツ騎士団には1198年から1525年までに37人の総長が立った。

15世紀から16世紀の紋章鑑には、ドイツ騎士団総長の紋章を集めた物がある。例えば、ウルリッヒ・リヒェンサルの「クロニカ」[10]、ニュルンベルクにある聖ガレンの紋章鑑[11]、ライプツィヒにある南西ドイツ紋章鑑[12]、ミルテンベルク紋章鑑[13]などが挙げられる。ただ、こうしたリストからは1241年から1252年に存在したはずの3人の総長が除かれていることが多いため、前近代では伝統的に1525年以前の総長を34人とすることが多かったが、近代以降は37人とするようになっている[14]

1. 1198年–1208年以前: ハインイヒ・ヴァルポット・フォン・バッセンハイム[9]
2. 1208年の文献に記載: オットー・フォン・ケルペン[9]
3. 1208年–1209年: ハインリヒ・フォン・トゥンナ
4. 1209年–1239年: ヘルマン・フォン・ザルツァ (神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の友人・側近として影響力を持ち、教皇ホノリウス3世から、ドイツ騎士団をホスピタル騎士団およびテンプル騎士団と同等とみなされることに成功した。また1237年にはリヴォニア帯剣騎士団を吸収した。)
5. 1239年–1240年 コンラート・フォン・テューリンゲン
  (6.) 1240年–1244年 ゲルハルト・フォン・マルベルク
  (7.) 1244年–1249年 ハインリヒ・フォン・ホーエンローエ
  (8.) 1249年–1252年 グンター・フォン・ヴュラースレーベン
6. (9.) 1252年–1256年 ポッポ・フォン・オステルナ (1253年から1256年にかけ、対立総長ヴィルヘルム・フォン・ウレンバッハが擁立されていた。)[15]
7. (10.) 1256年–1273年 アンノ・フォン・ザンガーハウゼン
8. (11.) 1273年–1282年 ハルトマン・フォン・ヘルトルンゲン
9. (12.) 1282年/1283年 –1290年 ブルハルト・フォン・シュヴァンデン[16]
10. (13.) 1290年–1297年 コンラート・ヴォン・フォイヒトヴァンゲン (アッコの陥落後、本部をヴェネツィアに移転した。)
11. (14.) 1297年–1303年 ゴットフリート・フォン・ホーエンローエ
12. (15.) 1303年–1311年 ジークフリート・フォン・フォイヒトヴァンゲン (1309年に本部をプロイセンへ移転)
13. (16.) 1311年–1324年 カール・フォン・トリーア
14. (17.) 1324年–1330年 ヴェルナー・フォン・オルセルン
15. (18.) 1331年–1335年 ロタール・フォン・ブラウンシュヴァイク
16. (19.) 1335年–1341年 ディートリヒ・フォン・アルテンブルク
17. (20.) 1342年–1345年 ルドルフ・ケーニッヒ・フォン・ヴァッツァウ
18. (21.) 1345年–1351年 ハインリヒ・デューゼマー・フォン・アルフベルクHeinrich Dusemerドイツ語版[17]
19. (22.) 1351年–1382年 ヴィンリッヒ・フォン・クニプローデ
20. (23.) 1382年–1390年 コンラート・ツェルナー・フォン・ローテンシュタイン
21. (24.) 1391年–1393年 コンラート・フォン・ヴァーレンローデ
22. (25.) 1393年–1407年 コンラート・フォン・ユンギンゲン
23. (26.) 1407年–1410年 ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン
24. (27.) 1410年–1413年 ハインリヒ・フォン・プラウエン
25. (28.) 1414年–1422年 ミヒャエル・キュヒマイスター・フォン・シュテルンベルク
26. (29.) 1422年–1441年 パウル・フォン・ルスドルフ
27. (30.) 1441年–1449年 コンラート・フォン・エリックスハウゼン
28. (31.) 1449/1450年–1467年 ルートヴィヒ・フォン・エルリックスハウゼン[18]
29. (32.) 1467年–1470年 ハインリヒ・ロイス・フォン・プラウエン
30. (33.) 1470年–1477年 ハインリヒ・レフレ・フォン・リヒテンベルク
31. (34.) 1477年–1489年 マルティン・トゥルフゼス・フォン・ヴェッツハウゼン
32. (35.) 1489年–1497年 ヨハン・フォン・ティーフェン
33. (36.) 1497年–1510年 フリードリヒ・フォン・ザクセン
34. (37.) 1510年–1525年 アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ

宗教改革後[編集]

最後のホーフマイスターであるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハはルター派に改宗し、1525年にドイツ騎士団国を廃止して俗界諸侯のプロイセン公国を創設した。1561年には傘下のリヴォニア騎士団が有していたコマンドリーであったテッラ・マリアナを喪失した。ただ騎士修道会としてのドイツ騎士団は存続しており、神聖ローマ帝国内(ドイツ王国イタリア王国)の管轄地域は保持していた。ただし、これは1219年以降ホーフマイスターではなくドイッチュマイスターが治めている領域だった。

これによる制限や混乱を解消するために、現職のドイッチュマイスターであったヴァルター・フォン・クローンベルクが1527年に皇帝カール5世によってホーフマイスターにも任じられ、二つの役職が統合された。本部もフランケンメルゲントハイムに移った。新たな統合役職ホーフ・ウント・ドイッチュマイスターは神聖ローマ帝国のと同等とされた。1806年、新設されたヴュルテンベルク王国がメルゲントハイムを併合したため、騎士団の本部はウィーンのドイッチュオルデンスハウス(Deutschordenshaus)に移転した。1923年にオイゲン・フォン・エスターライヒが総長を辞任して以降、ホーフ・ウント・ドイッチュマイスターという二重称号は廃止された。

1696年、総長フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツのもとで神聖ローマ帝国軍の中にトイッチュマイスター(Teutschmeister)連隊が設立された。これは1769年に第4歩兵連隊としてウィーンに配属され、1814年からはニーダーエスターライヒのホーフ・ウント・ドイッチュマイスター連隊として知られるようになった。歴史ある軍事集団の伝統は1938年のアンシュルスの際に一旦ナチス・ドイツドイツ国防軍第44歩兵師団が継承し、現在ではオーストリア陸軍の第1猟兵大隊に受け継がれている。

ホーフ・ウント・ドイッチュマイスター, 1527年–1929年[編集]

1929年以降[編集]

1929年、ドイツ騎士団はローマ・カトリック修道会に回帰した。

脚注[編集]

  1. ^ Friedrich August Vossberg, Geschichte der preussischen Münzen und Siegel von frühester Zeit bis zum Ende der Herrschaft des Deutschen Ordens, 1843, p. 191.
  2. ^ Bernhard Peter (2011)
  3. ^ Helmut Nickel, "Über das Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens im Heiligen Lande", Der Herold 4/1990, 97–108 (mgh-bibliothek.de). Marie-Luise Heckmann, "Überlegungen zu einem heraldischen Repertorium an Hand der Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens" in: Matthias Thumser, Janusz Tandecki, Dieter Heckmann (eds.) Edition deutschsprachiger Quellen aus dem Ostseeraum (14.-16. Jahrhundert), Publikationen des Deutsch-Polnischen Gesprächskreises für Quellenedition. Publikacje Niemiecko-Polskiej Grupy Dyskusyjnej do Spraw Edycij Zrodel 1, 2001, 315–346 (online edition). "Die zeitgenössische Überlieferung verdeutlicht für dieses Wappen hingegen einen anderen Werdegang. Der Modelstein eines Schildmachers, der unter Hermann von Salza zwischen 1229 und 1266 auf der Starkenburg (Montfort) im Heiligen Land tätig war, und ein rekonstruiertes Deckengemälde in der Burgkapelle derselben Festung erlaubten der Forschung den Schluss, dass sich die Hochmeister schon im 13. Jahrhundert eines eigenen Wappens bedient hätten. Es zeigte ein auf das schwarze Ordenskreuz aufgelegtes goldenes Lilienkreuz mit dem bekannten Adlerschildchen. Die Wappensiegel des Elbinger Komturs von 1310 bzw. 1319, ein heute in Innsbruck aufbewahrter Vortrageschild des Hochmeisters Karl von Trier von etwa 1320 und das schlecht erhaltene Sekretsiegel desselben Hochmeisters von 1323 sind ebenfalls jeweils mit aufgelegtem goldenem Lilienkreuz ausgestattet."
  4. ^ Christiansen, 203
  5. ^ a b Christiansen, 204
  6. ^ Christiansen, 78
  7. ^ Christiansen, 205
  8. ^ Bartosz Gondek, Dorota Karaś, "Mistrzowie pochowani w jedwabiach", Gazeta Wyborcza, 2008-12-16. Segnung der Hochmeister-Krypta im Dom zu Kwidzyn/Marienwerder, deutscher-orden.at, 7 August 2010.
  9. ^ a b c Kurt Forstreuter (1969). "Heinrich Walpot". In Fritz Wagner [in ドイツ語] (ed.). Neue Deutsche Biographie. Vol. 8. Berlin: Duncker & Humblot. p. 377 [online edition]. Die Identität H.s mit dem Bruder Heinrich, der 1193 und 1194 als Prior, 1196 als „Preceptor" des Deutschen Hospitals in Akkon genannt wird, ist wahrscheinlich. Er empfängt als solcher Schenkungen für das Hospital und darf, da man über die Amtsbezeichnungen in diesem Hospital in jener Frühzeit sonst fast nichts weiß, wohl als Oberhaupt des Hospitals gelten. Als das Deutsche Hospital in Akkon am 5.3.1198 durch die Führer des deutschen Kreuzzugsheeres, das Heinrich VI. vorausgeeilt war, in einen Ritterorden verwandelt wurde, war es nur natürlich, daß man H. als ersten Hochmeister ausersah. Der Orden wurde 1199 von Papst Innozenz III. bestätigt. [...] Über die Dauer seiner Amtszeit ist nichts Sicheres bekannt. Sein Nachfolger Otto von Kerpen amtierte im September 1208 [...]
  10. ^ Ulrich von Richental, Chronik des Constanzer Concils 1414 bis 1418, ed. Michael Richard Buck (1882, ND 1962), p. 184.
  11. ^ Nürnberg, Germanisches Nationalmuseum, Graphische Sammlung Hz 603b, Kapsel 1384 a [St. Gallen, c. 1470: Wappen der Herren von Erlichshausen]
  12. ^ Leipzig, Universitätsbibliothek, Ms. 03 (formerly 2121), fol. 131v [1473/74, Schild der Herren von Erlichshausen)
  13. ^ L'armorial Miltenberg, un armorial de la fin du XVe siècle, ed. Jean-Claude Loutsch, Schweizer Archiv für Heraldik 103 (1989) S. 95–165 (fol. 44r).
  14. ^ Marie-Luise Heckmann, "Überlegungen zu einem heraldischen Repertorium an Hand der Hochmeisterwappen des Deutschen Ordens" in: Matthias Thumser, Janusz Tandecki, Dieter Heckmann (eds.) Edition deutschsprachiger Quellen aus dem Ostseeraum (14.-16. Jahrhundert), Publikationen des Deutsch-Polnischen Gesprächskreises für Quellenedition. Publikacje Niemiecko-Polskiej Grupy Dyskusyjnej do Spraw Edycij Zrodel 1, 2001, 315–346 (online edition). "Die vorwissenschaftliche Tradition kennt also für die Zeit bis 1525 statt 37 Hochmeistern nur 34 Träger des höchsten Ordensamtes" fn. 68: "Dieselbe Tradition spiegeln folgende Hochmeisterlisten ohne Wappen: Berlin, GStA XX. HA OF 275, fol. 66r-68v, bes. fol. 66r; ebd., OBA 29095, fol. Iv-2r [Hochmeisterliste in Reinschrift], 2v-3r [Landmeisterliste in Reinschrift] 5r-7r [Hochmeisterliste als Konzept], 7v-8r [Landmeisterliste als Konzept], [unpaginiert vor 9]v-14r [Berechnungen der Regierungsjahre der Hochmeister]. Schrift und Inhalt weisen mit einer Ausnahme auf das 16. Jahrhundert als Entstehungszeitraum für diese Stücke, die erst im Nachhinein durch Bleistiftpaginierung zusammengefügt wurden."
  15. ^ Klaus Militzer. Poppo von Osterna (Osternohe) 1252-1256. In: Arnold, Udo (Ed.), Die Hochmeister des Deutschen Ordens 1190-1994 (1998), p. 27.
  16. ^ Burchard von Schwanden's first year in office is given as 1282 on the Teutonic Order's German site and 1283 on the Austrian site.
  17. ^ Andrzej Nowakowski (1994). Arms and armour in the medieval Teutonic Order's state in Prussia. Volume 2 of Studies on the history of ancient and medieval art of warfare. Łódź: Oficyna Naukowa MS.
  18. ^ Ludwig von Erlichshausen's first year in office is given as 1449 on the Teutonic Order's German site and 1450 on the Austrian site.
  19. ^ Neuer Deutschordens-Hochmeister feierte Abtweihe im Stephansdom”. Vatican News (2018年11月17日). 2018年11月26日閲覧。

参考文献[編集]

  • Arnold, Udo (ed.), Die Hochmeister des Deutschen Ordens 1190-1994. Quellen und Studien zur Geschichte des Deutschen Ordens 40 = Veröffentlichungen der Internationalen Historischen Kommission zur Erforschung des Deutschen Ordens 6. Marburg, 1998.
  • Borchert Friedrich, "Die Hochmeister des Deutschen Ordens in Preußen." In: Preußische Allgemeine Zeitung, 6 October 2001.
  • Christiansen, Erik (1997). The Northern Crusades. London: Penguin Books. p. 287. ISBN 0-14-026653-4 
  • Urban, William, The Teutonic Knights: A Military History. Greenhill Books. London, 2003. ISBN 1-85367-535-01-85367-535-0.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]