トマス・アースキン (第6代ケリー伯爵)

トマス・アースキン
Thomas Erskine
6代ケリー伯(ロバート・ヒューム英語版の肖像画をロバート・ブライスがエングレービングしたもの。ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)
基本情報
生誕 1732年9月1日
出身地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
死没 (1781-10-09) 1781年10月9日(49歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国オーストリア領ネーデルラント ブリュッセル
ジャンル マンハイム楽派
職業 作曲家、ヴァイオリニスト

第6代ケリー伯爵トマス・アレグザンダー・アースキン(Thomas Alexander Erskine, 6th Earl of Kellie, 1732年9月1日 - 1781年10月9日)は、イギリスの音楽家、作曲家。1756年まではFentoun子爵、ピッテンウィーム卿と呼ばれる。彼の特筆に値する才能は、彼に国際的名声を、派手な習癖は悪名をもたらしたが、現在となっては、彼を知る人はほとんどいない。ようやく最近になって、現存していた彼の曲の録音がなされ、18世紀イギリスの重要な作曲家の1人、とくに初期スコットランド音楽の代表的人物として、再評価されつつある。

母親のジャネット・ピトケアンは、高名な医者で詩人の娘。父親の第5代ケリー伯爵アレグザンダー・アースキンは、1745年ジャコバイト蜂起ジャコバイトを支持したかどでエディンバラ城に投獄された。エディンバラロイヤル・ハイスクールに通っていたトマス・アースキンは、1752年、ヨハン・シュターミッツの下で音楽を学ぶため、ドイツマンハイムに留学した。1756年にスコットランドに帰国。ヴィルトゥオーソ・ヴァイオリニスト兼作曲家として、「fiddler Tam」というニックネームがついた。彼は当時流行の最先端だったマンハイム楽派を普及させ、その第一人者としてイギリス中に広く知られるようになった。1761年、3楽章からなる序曲(交響曲)集(全6曲)をエディンバラで出版。ジェイムズ・ボズウェル1762年10月20日、アースキンから5ギニー借り、1763年5月26日、彼をロンドンのエグリントン卿のところに連れて行った。ロンドン滞在中、アースキンが流行歌をつぎはぎして作った曲「The Maid of the Mill」は大変な人気を博した(1765年コヴェント・ガーデンにて初演)。1767年、スコットランドに戻り、エディンバラ音楽協会の代表を務めた。有能なヴァイオリニストとしても、エディンバラのNiddry's Wyndにある聖セシリアホールでコンサートを催した。

熱心なフリーメイソン会員でもあり、1760年にはロンドンで、エイシャント・グランドロッジの第4代グランドマスターに選任され、6年間、その職を務めた。1763年から1765年にかけて、スコットランドのグランドロッジでも第24代グランドマスターを務めた。

アースキンの自堕落なライフ・スタイルは、会員が全員男性の飲酒クラブを設立するに及んだ。伝えられるところでは、遊び友達のサミュエル・フットはアースキンに、「君のキュウリを熟成させるため、君の赤鼻を君の温室に入れたまえ!」とアドバイスしたそうだ。彼には、あっという間に曲を書くが、推敲をまったくせずに人に渡す傾向があったのだった。彼は健康を損い、ベルギーのスパに行った。すぐに帰国するはずが麻痺を起こし、ブリュッセルで2、3日の足止めを食った後、「悪臭を伴う熱」に襲われ、51歳で死去した。

1970年代まで、アースキンの作品で残っている曲はわずかしかないと思われていたが、1989年にKilravock城で、室内楽曲を含む2つの原稿が発見され、現存する彼の曲の数は2倍になった。9曲のトリオ・ソナタと、9曲の弦楽四重奏曲である。近年、ジョン・パーサーによって、アースキンに対する関心は復活し、彼の作品を収めたCDも作られた。

Bibliography: David Johnson,Music and Society in Eighteenth-Century Scotland (2nd edition, Edinburgh, 2003)

外部リンク[編集]

スコットランドの爵位
先代
アレグザンダー・アースキン
ケリー伯爵
1756年 - 1781年
次代
アーチボルド・アースキン