ターザン後藤

ターザン後藤
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プロフィール
リングネーム ターザン後藤
ホー・チー・ウィン
後藤 政二
本名 後藤 政二
ニックネーム 鬼神
身長 178cm
体重 150kg
誕生日 (1963-08-16) 1963年8月16日
死亡日 (2022-05-29) 2022年5月29日(58歳没)
出身地 静岡県島田市
所属 スーパーFMW
スポーツ歴 大相撲
トレーナー ジャイアント馬場
ジャンボ鶴田
デビュー 1981年2月19日
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ターザン後藤( - ごとう、本名:後藤 政二(ごとう まさじ)、1963年8月16日 - 2022年5月29日)は、日本プロレスラー、元大相撲力士静岡県島田市出身。入場曲は「汚れた英雄」[1]

経歴[編集]

大相撲[編集]

中学校を卒業すると九重部屋に入門、後藤(ごとう)の四股名で1979年3月場所に15歳で初土俵を踏む。同部屋の同期には、後の横綱である北勝海や小結の孝乃富士(安田忠夫)がいた。同年11月場所限りで廃業、最高位は序二段95枚目。島田市出身者では初めての力士だったらしく、当時後藤の実家にも地元マスコミの取材が来たという。

大相撲を短期間で廃業した理由として、同じく角界出身で後に全日本プロレス入門時に教育係であったグレート小鹿によれば「後藤の足の裏が土俵の土で切れやすく、そこに塩が染みて痛くて相撲に集中できず、体質が合わなかった」と語っている[2]

全日本プロレス[編集]

大相撲廃業後は全日本プロレスに入門し、1981年2月19日に福島県霊山町民体育館(現在の伊達市霊山体育館)の越中詩郎戦でデビューする。後藤も、数年間ジャンボ鶴田の付き人を務めた。1983年にプロレス大賞新人賞を受賞する。トレードマークとなるワンショルダータイツは、デビューからしばらく経ってから身に着け始めた。この頃、リングネームを本名から現在のものに改めたのはさらにしばらく後のことである。

来日していたハーリー・レイスのもとを通してアメリカのプロモーターから日本人レスラーの派遣要請があり、海外への武者修行を熱望していた後藤が選ばれ1985年に海外遠征を行った。現地では、ベトナム人レスラー「ホー・チー・ウィン」のリングネームで活動した。1986年には、テネシー地区で佐藤昭雄と日本人タッグを組んで同地区のインターナショナル・タッグの初代王者となっている。当時、大相撲で昭和38年生まれの力士達(双羽黒・北勝海・寺尾琴ヶ梅ら)が「花のサンパチ組」と呼ばれて活躍していたことを受け、MBSテレビが「中村敦夫の地球発22時」で、昭和38年生まれの元力士達のその後を追った番組を制作した際、番組の目玉の一人として遠征中の近況が紹介されたことがある。現地で全日本女子プロレス参戦歴を有す女子プロレスラーのデスピナ・マンタガスと知り合い結婚している(後に離婚)。しかし全日本プロレスより帰国命令がなく、そのまま現地に定着。帰国命令が無かった理由は、後藤は現地で結婚して引退しアメリカにそのまま定住した、と全日本から思われていたためとの説があり、後藤の師であるジャイアント馬場がトークショーを行った際、ファンから後藤の近況を聞かれた馬場が、「向こう(アメリカ)で結婚して、プロレスをしていない」旨の発言をし、これが週刊プロレスの記事として取り上げられたことがあった。また後藤はプロレスラー以外に調理師として生活していた時期がある。

FMW[編集]

ところが、遠征中の1989年に大仁田厚から誘われ、後藤は全日本プロレスを退団してFMWの旗揚げに参加する。団体を興すにあたり、自分を支えてくれる選手が必要と感じた大仁田が、ひょんなことから連絡先を知り誘ったものであった。最初に大仁田から連絡が来た時に、ジャンボ鶴田から電話がかかってきたと勘違いしている。全日本プロレス退団前にはケジメとして師・馬場にFMWへ移籍する旨を伝え、正式に認められている。当初は、謎のベトナム人レスラー、ボートピープル・ジョーとしてマッチメイクされていたがリングインすると同時にマスクを取り、「後藤だ。帰ってきたぞー!」と叫んだ。同年12月には後楽園ホールで大仁田と組み、松永光弘ジェリー・ブレネマン組を相手に日本初の有刺鉄線デスマッチを戦った。

1990年初頭に開催された総合格闘技オープントーナメント(総合格闘技と銘打っているが、内容はプロレスである。)では準決勝で大仁田を破る金星を上げたものの、決勝で元新日本プロレス栗栖正伸に敗れ、準優勝の成績を残した。同年8月4日、汐留大会にて大仁田と史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行い、この試合がプロレス大賞年間最高試合賞を受賞している。爆薬を使った視覚的インパクトの強い試合は『週刊プロレス』、『週刊ゴング』等、プロレス誌の表紙をも独占した。

1991年、インディー団体としては破格のビッグマッチでもある川崎球場大会のメインイベントで再び大仁田とノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで戦い、3万人を超えるという大観衆を集めた。後藤もこのあたりから「鬼神」というニックネームも定着し、地味ながら安定した実力を見せる後藤はFMWファンの強い信頼を受けるようになっていく。暮れに行われた世界最強総合格闘技タッグリーグ戦には大仁田と組んで参加し、東京ベイNKホールでの決勝戦で柔道家のグリゴリー・ベリチェフ、コバ・クルタニーゼ組を破って優勝。世界マーシャルアーツタッグ選手権の初代王者となった。

1992年1月、大阪でビッグ・タイトンを破り、世界マーシャルアーツ選手権を奪取。これが後藤の日本での初のタイトルとなったが、3月には元ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのレオン・スピンクスに敗れ、タイトルを失った。

1994年3月、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み天龍源一郎阿修羅・原組と対戦。後藤のアシストもあり、大仁田が天龍にフォール勝ちするという番狂わせを演じた。後藤もこの試合で2度目のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。

FMW参戦以降、主に正規軍としてプエルトリコ軍団やシーク軍団、チーム・カナダと抗争を繰り広げていた。しかしながら、若手選手の不甲斐なさからリッキー・フジ大矢剛功と鬼神組を結成。正規軍、W★ING同盟と抗争を繰り広げ圧倒的な強さを見せた。

謎のFMW離脱[編集]

1995年4月23日、後藤は5月5日の川崎球場で行われる予定の大仁田の引退試合の対戦相手に決まっていたが、その直前になり突然退団を発表した。後藤はミスター雁之助オーニタ・ジュニア(市原昭仁)と共に3人でFMWを離脱。大仁田との引退試合を放棄し、それをメインイベントとしていた大会1週間前に団体を退団するという余りの異常事態によりファンをはじめマスコミ・FMWも大混乱に陥った。この時に開かれた退団する3人による記者会見では、記者からも詳細に事情を説明するよう強く問い糾されたが、後藤らは「大仁田引退試合を放棄し、その数日前という直前に退団を決意するだけの『何か(「裏切り行為」とも)』があった」ことや「FMWが嫌いになった訳ではないので」と語るだけに留まり、この時舞台の裏側で何があったのかは関係者がいずれも口を固く閉ざし、現在でもはっきりした原因は明かされていない。後藤も生前「真相は墓場まで持っていくつもり」とメディアの取材に対して何度も語っており、結果的に後藤自身から最後まで真相が語られることはなかった[3]

ただし当事者の一人である雁之助は、自身のYouTubeチャンネルの中で2021年にその真相を語っている。雁之助の話によると、引退試合二週間前の地方巡業先で後藤の欠席の元で大仁田から「大仁田の引退後、後藤をFMWから排除する」ことを男子プロレスラー全員の前で通達された。当時アングルで敵対はしていたものの元付き人であった雁之助は、食事の席でたまらず後藤に告白した。良くは思わない後藤は後楽園大会の前日、あるホテルに雁之助・新山勝利・市原・事務員を交えて話し合いの場を設けた。まず雁之助が引退(離脱)を表明し、続いて後藤・そして市原が続いた。新山は後楽園ホールへ戻って大仁田と話し合いをする、というものだった[4]。IWAジャパンとは一切前もっての話し合いは無かったと証言している[4]。ハヤブサの著作の中にも後藤より先に雁之助が辞めると言い出しており、後藤は「お前が辞めるなら、俺も辞める!」と言った。その位我慢が出来ないことが俺たちにはあったと述べている[5]

松永光弘も、大仁田の引退シリーズ中に、引退試合後に自身もFMWを退団したいと大仁田に伝えたところ、「ちょっと待ってくれよ。後藤をクビにするから」と言われた、と証言している。また、当時の後藤は現場監督者としてアングル面で専横的な行動をとっていたとも語っている[6]

なお大仁田の引退試合の相手は後藤に代わり、一旦は名乗りを上げた東京プロレス石川敬士に変更されたが、その後、調印式で対戦を直訴したハヤブサへ変更された。

FMW離脱後の後藤らは「真FMW軍」を名乗り、IWA・JAPANの後楽園大会に乱入。FMWで自らデビュー戦の相手を務めた中牧昭二らとの抗争に突入する。同年8月、川崎球場においてダン・スバーンNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、後藤もスバーンと好勝負を展開するも敗れた。また、大日本プロレスでは全日本時代の先輩であった社長のグレート小鹿との抗争を展開し、さらに東京プロレスにも参戦している。

この頃、アルティメット・ファイティング(UFC)で日本人格闘家が敗退し続けていたため、自分がUFCに出ると宣言するが、UFCから「デスマッチ等の流血を伴う危険な試合が多い」という理由で拒否されてしまう[7]

1996年、第一回メモリアル力道山興行に登場した際には、メジャー団体の象徴とも言える長州力がインディー団体を批判した一方で、後藤に対しては評価する発言を行った。長州は後藤らインディー勢力との抗争を計画していたが、後藤は反応せず、この対立アングルは不発に終わった。同年、東京プロレスを発展解消させて乱立していたインディ団体を統一すべく「日本プロレスリング共同機構」を名乗ったFFF冬木軍折原昌夫らと共に参加するも同団体は旗揚げ戦前に倒産し、後藤は真FMWをベースに別団体への参戦へ活路を見い出すことになった。

1997年にはWARマットを中心に暴れ回り、同団体の武井正智社長がプロレスデビューした6月の後楽園ホール大会でも対戦相手を務めた。7月の両国国技館大会で後藤は、天龍のデビュー20周年試合としてメインイベントで一騎討ちを行った。多くのファンは両者の真っ向からの激突に期待したものの、後藤も天龍のリングシューズを脱がしにかかるなど反則攻撃に終始した。さらには経緯的にWARと対抗関係にあったSPWFにも参戦。タッグ戦ながら谷津嘉章と電流爆破デスマッチと戦うなど、後藤はインディー団体の多方面に渡って参戦している。

ターザン後藤一派[編集]

この数年間に渡って後藤が自ら座長を務める真FMWもR2W、革真浪士団、ターザン後藤一派と衣替えを繰り返した。たびたび自主興行も行っており、一時期菊澤光信が真FMW軍に加わったり、FMWを退団した新山勝利も参戦するなど出入りも多く、また女子部という形で元GAEA JAPANの市来貴代子と中野知陽呂も行動を共にしている。

この頃、冬木弘道の発案でFMWへの出場が計画されたが所属選手達の猛反対と後藤もこれを拒否し、後藤のFMW再登場は幻となっている。(ただし、雁之助と市原は1997年1月以降FMWに復帰している。)

2001年には、全日本プロレスに約16年ぶりに参戦した。2002年、埼玉県春日部市に道場兼プロレス会場の春日部インディーズアリーナを設立。同年10月の全日本プロレス日本武道館大会では本間朋晃とタッグを結成し、テリー・ファンクアブドーラ・ザ・ブッチャーと戦った。

2005年には、四冠王者(当時)の小島聡までもがターザン後藤一派の清水大会に参戦し、後藤とタッグマッチで対戦。2006年には春日部からの移転で東京・浅草に浅草インディーズアリーナを再興させる。この会場は「浅草ファイト倶楽部」という店としても営業し、プロレスを見ながら飲んだり食べたりできる店としてインディーファンを楽しませ、特にちゃんこ鍋を注文すると自ら調理をするという念の入れ様であったが、現在は浅草のインディーズアリーナ及びファイト倶楽部は閉鎖されている。

自らの団体での活動と並行して全日本プロレスから分派した新団体キングスロードの旗揚げ戦に参戦するも、後楽園ホールでの旗揚げ戦では後藤も怪我のためか影武者に試合をさせ、自らは場外乱闘に終始した。

2009年9月26日の大仁田興業に突然登場しリング上で握手した後[8]、12月には大仁田とタッグを組んだり対戦したりしたが、翌2010年5月のタッグを結成したのを最後に再び袂を分かつことになる[9][10]

スーパーFMW[編集]

2009年11月6日、12月24日自らのデビュー30周年興行をFMW再旗揚げ興行としFMWの活動再開を表明した[11]。2010年からターザン後藤一派を母体とした「スーパーFMW」として団体化。なお、東京都墨田区で団体名と同じスナックを経営している[12]

2014年に超戦闘プロレスFMWの名称で新イベントが興され、大仁田により参戦を呼びかけられるが2016年までの時点で応じていなかった。

そのスーパーFMWの興行自体も2014年10月26日シアター1010大会を最後に一時休眠状態となっていた。

その後[編集]

2017年7月16日、ABCの『新婚さんいらっしゃい!』にて再婚相手の妻と共に出演した。後藤もその際、以前は客として来店していた妻の経営するラーメン屋で修業をしていることが明らかにされた[13]。後藤は、この頃から再婚により妻の連れ子であった2人の娘の父となっている。2022年1月の時点で妻が営むラーメン屋は主に夜の営業で、後藤はそこで従事した後に団体事務所を兼ねていたスナックで未明まで接客していた[3]

2022年5月29日18時50分、後藤は肝臓ガンのため死去した[14]。58歳没。後藤の訃報は翌30日、雁之助のTwitter投稿で公表された[15][16]

5月30日、大仁田はTwitterで後藤の訃報に際し、「うまく行くかすぐつぶれるか分からないFMWを立ち上げてすぐ電話したらアメリカから帰国してくれた そんな後藤を迎えに成田まで行ったことが昨日のようでショックだ。 なんて言ったらいいかわからない」と投稿した[17]。5月31日、後楽園ホールで行われた「ジャンボ鶴田23回忌追善興行」の第2試合後、後藤を追悼するテンカウントゴングが捧げられた[18]

得意技[編集]

パートナーである大仁田とは全く別で、後藤のプロレスは得意技のゴーストバスター、フェイスバスターをはじめパワフルなデスマッチファイトが持ち味。この他にも、凶器攻撃をごくまれに扱うこともあった。

ゴーストバスター
垂直落下式ブレーンバスターと同型で、後藤の代名詞。
フェイスバスター
ゴーストバスター同様、後藤の代表技。
パイルドライバーの要領で持ち上げて、自身の身体を浴びせるように前方に倒れ込んで相手の顔面と胸部をマットに叩きつける。
バックスピンキック
左腕を捻り上げたまま相手のサイドに回り込み、後ろ蹴りを決める蹴り技。元々は佐藤昭雄の得意技だが、後藤は佐藤からコーチを受けた際にこの技を伝授されている。
ラリアット
FMW以降、多用していた。「大仁田!!」「タイガー!!」など、相手の名前を叫びながら打つのがルーティンになっている。
フライングボディプレス
トップロープから。FMW以降多用。フィニッシュホールドとして用いられた。
各種凶器攻撃
後藤の場合は状況に応じ、凶器を用いて相手を攻撃することがある。

タイトル歴[編集]

コーチとしての実績[編集]

後藤は全日本プロレス在籍時から後輩のコーチを請負うようになり、若手時代の小川良成が後藤から教えを受けている。さらにFMWに移ると大仁田から選手育成を任され、新弟子指導を一手に引き受けるようになる。ハヤブサ・雁之助・田中将斗らが後藤から基礎を叩き込まれた。

そしてFMWが男女混合団体だったことから女子選手の指導も行い、教えを受けたシャーク土屋らが他団体に進出した結果、それまで全女流の作法が殆どだった女子プロレスのリングに、後藤の作法・さらに言うなら後藤の師匠である馬場の作法がもたらされることにもなった。長与千種がこの件に触れて「腕のとり方一つ取っても違うので面白い」と語っている。

生涯に渡り選手育成に熱心で、自前の若手選手を送り出し続けていた。

2008年12月25日のニューハーフプロレス団体「ダイナマイトバンプ」旗揚げにも一役買っていた。

エピソード[編集]

FMW在籍時から入場曲で『汚れた英雄』を使用しているが、正確には映画『天と地と』(1990年、角川映画)内の小室哲哉作曲のサントラ曲をイントロにし、同じく角川制作の映画『汚れた英雄』の主題歌(ローズマリー・バトラー歌唱)がミックスされたものである。後藤のFMW離脱半年前の九州巡業の際に、FMWの全選手の入場音楽が1人1本ずつ録音されていたカセットテープアタッシュケースごと盗まれる事件が発生。長崎県佐世保市体育文化館大会の試合前、慌てたスタッフが佐世保市内のレコード店を駆け回り、各選手の入場音楽を探し回ったが、後藤の『汚れた英雄』は入手不可能であった。当時のリングアナウンサーである山田敏広が後藤に事情を打ち明け、代替曲の希望を聞かれた後藤は海援隊の『二流の人』(アルバム『倭人傳』に収録)をリクエストしたが、これも入手が困難であったため最終的にアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のオープニングテーマ(宮川泰作曲)を希望し、スタッフによりなんとか入手できたため、この日の試合の入場テーマ曲として使用している[19]

ハヤブサが全日本プロレスに参戦した際に全日本の道場で受け身の練習をしていた最中、道場に来た後藤の全日本時代の師匠・ジャイアント馬場がハヤブサを見て首をかしげていたので「どうしましたか?」と聞くと、馬場からは「お前、受け身誰に教わった?」と尋ねられ「(ターザン)後藤さんです」と答えたところ、「そうか、後藤か…。いや、左右逆だなと思ってな」と言われた。後藤が全日本時代に受け身を左右逆に覚えて、それをFMWの選手に教えていた、というエピソードを自著に書いている。

参考文献[編集]

  • ハヤブサ『そして不死鳥はよみがえる』(徳間書店、2002年)

脚注[編集]

  1. ^ ターザン後藤さんへ追悼10カウント、大仁田厚感極まり涙 ジャンボ鶴田さん追善興行”. 日刊スポーツ (2022年5月31日). 2022年6月1日閲覧。
  2. ^ グレート小鹿、ターザン後藤さん急死に「1人1人後輩が亡くなっていくのは、寂しい限り」 - 日刊スポーツ 2022年5月31日
  3. ^ a b 流血デスマッチレスラーだったターザン後藤さん 53歳で再婚→妻の実家のラーメン店で修業中 - 日刊ゲンダイDIGITAL 2022年1月24日
  4. ^ a b 1995年、FMW電撃離脱した真相を話します#4 - YouTube
  5. ^ ハヤブサ「そして不死鳥はよみがえる」、p.158
  6. ^ 堀江ガンツ (2024年2月16日). “「墓場まで持っていく」平成プロレス最大の謎・ターザン後藤のFMW電撃退団はなぜ起きたか?「予兆は全く…」付き人らの証言で浮かんだ真実”. NumberWeb. https://number.bunshun.jp/articles/-/860645 2024年2月16日閲覧。 
  7. ^ しかし、実際の拒否理由は不明である。
  8. ^ 9/26 大仁田興行秋の陣!邪道ファミリー大集合”. 週刊プロレス. 2024年1月27日閲覧。
  9. ^ 新FMW“邪道”大仁田厚引退興行”. 週刊プロレス. 2024年1月27日閲覧。
  10. ^ 大仁田、ターザン後藤の参戦を熱望=8.24・大仁田厚40周年記念興行”. スポーツナビ (2015年7月25日). 2024年1月27日閲覧。
  11. ^ 大仁田「FMW復活に条件」 リアルスポーツ 2009年11月6日
  12. ^ 「電流マッチ」ターザン後藤 下町スナック「FMW」で活動中 日刊ゲンダイ 2014年3月10日
  13. ^ ターザン後藤「新婚さんいらっしゃい!」に出演 妻はラーメン店営む好江さん - デイリースポーツ online 2017年7月16日
  14. ^ 【訃報】“鬼神”ターザン後藤さん死去、肝臓がんのため(22/05/30 21:26) - 週刊プロレス 2022年5月30日
  15. ^ ミスター雁之助(本田雅史) [@MrGannosukeFMW] (2022年5月30日). "ターザン後藤さんが29日18時50分に亡くなられたとの知らせが入りました". X(旧Twitter)より2022年5月30日閲覧
  16. ^ ターザン後藤さん急死 58歳 大仁田厚とFMW伝説の電流爆破マッチで激突した「鬼神」」『東スポWeb』、2022年5月30日。2022年5月30日閲覧。
  17. ^ 大仁田厚、FMWで名勝負のターザン後藤さん死去にツイート「ショックだ なんて言ったらいいかわからない」 - スポーツ報知 2022年5月31日
  18. ^ ターザン後藤さんへ追悼10カウント、大仁田厚感極まり涙 ジャンボ鶴田さん追善興行 - 日刊スポーツ 2022年5月31日
  19. ^ 《追悼》ターザン後藤58歳で逝く「童顔の健康優良児」を変貌させた長髪&ヒゲ、そして電流撃破デスマッチ…盟友・大仁田厚と決裂の真相は?(3/3) - Number Web 2022年6月1日