ステーファノ・ヴィスコンティ

ステーファノ・ヴィスコンティ
Stefano Visconti

出生 1287年ごろ
ミラノ
死去 1327年7月4日
ミラノ
配偶者 ヴァレンティーナ・ドーリア
子女 マッテーオ2世
ガレアッツォ2世
ベルナボ
家名 ヴィスコンティ家
父親 マッテーオ1世・ヴィスコンティ
母親 ボナコッサ・ボッリ
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ステーファノ・ヴィスコンティイタリア語:Stefano Visconti, 1287年ごろ - 1327年7月4日)は、14世紀から15世紀までミラノを支配したヴィスコンティ家の成員の一人。

生涯[編集]

家族[編集]

ステーファノはマッテーオ1世・ヴィスコンティの息子である[1]

1318年、ステーファノはベルナボ・ドーリアとエリアナ・フィエスキの娘ヴァレンティーナと結婚した[1]。2人の間には3子が生まれた。

3人の息子は、伯父ルキーノの死後ミラノを共同統治した。

死去[編集]

跪くステーファノ・ヴィスコンティ(墓石の一部)

ステーファノは1327年7月4日の夜、イタリア王として戴冠したばかりのルートヴィヒ4世・フォン・バイエルンとの晩餐会の後に死去した。

同時代の人々は、ステーファノの兄ガレアッツォ1世ジョヴァンニルキーノおよび甥アッツォーネモンツァの要塞に投獄されることとなったルートヴィヒ4世の暗殺未遂とステーファノの死に関連があると考えた。この事件は、神聖ローマ帝国とヴィスコンティ家の関係の悪化を意味した。

ステーファノと妻ヴァレンティーナの壮大な墓は、1359年にボニーノ・ダ・カンピオーネにより制作され、ミラノのサンテウストルジョ聖堂に安置されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e Paoletti & Radke 1997, p. 517.

参考文献[編集]

  • Paoletti, John T; Radke, Gary M (1997). “Genealogies (appendix)”. Art in Renaissance Italy. New York: H.N. Abrams. pp. 517. ISBN 9780810919785. OCLC 36482283