ジョージ4世と競馬

王太子時代のジョージ4世(1809年頃)
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王太子時代のジョージ4世(1809年頃)

本項ではジョージ4世と競馬について述べる。

概要[編集]

イギリス国王ジョージ4世(在位:1820年-1830年、1762年生まれ、1830年没)は、王太子の頃から競馬に熱中した。国から与えられる歳費をほとんど競馬に費やし、それだけでは足りずに借金を重ね、その返済のためにまた国費を引き出した。

1788年には王族として初めてイギリスダービーに優勝、1791年には当時のイギリスで最大のレースであるオートランズステークスに優勝した。「競馬の庇護者」として各地の競馬場の運営に関わり、とりわけアスコット競馬場の走路拡張や観戦席の建設をさかんに行い、ロイヤルアスコット開催を創設した。また、アイルランドでは今も行われているロイヤルウィップステークスを創始した。

馬主としてはダービー優勝(1788年サートーマス号)のほか、オートランズステークス(1791年バロネット号)、ドンカスター金杯(1789年トット号)とグッドウッド金杯(1829年フルールドリス号)などの大レースに勝ったが、アスコット金杯には勝てなかった(最高は2着)。このほか持ち馬のセリム号はイギリスの種牡馬チャンピオンになり、リバイアサン号もアメリカで種牡馬チャンピオンになった。

1791年にはエスケープ事件という不祥事に関わった。この事件では、不正を疑われた王太子に対してイギリスのジョッキークラブが断固とした態度をとったことで、ジョッキークラブの権威が大きく高まり、後の競馬のルール制定につながった。

王太子時代[編集]

ジョージと競馬の馴れ初め[編集]

1785年の肖像。
叔父のカンバーランド公(1765年頃)
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叔父のカンバーランド公(1765年頃)
1784年のレーシングカレンダー。巻頭の会員名簿の筆頭に「王太子殿下(HRH Prince of Wales)」の名がある。2番めはカンバーランド公。

王太子時代のジョージに酒と女と賭け事遊びを教えたのは叔父のカンバーランド公(1745-1790)だったと伝えられている[1][注 1]

カンバーランド公はジョージ3世からみると弟にあたる。しかし、カンバーランド公はアン・ホートンとの不適切な結婚など身持ちが悪く、王族の面汚しとみなされていた[1]。カンバーランド公は競馬にうちこみ、1780年にダービーが創設されると、たびたび持ち馬を出走させた。カンバーランド公は子供時代のジョージを連れ出して競馬に連れていき、いろいろな遊びを教えた。質実な態度から「農夫ジョージ」と呼ばれた父ジョージ3世と反対に、ジョージは遊び呆けるようになった[4]

ジョージは、1783年にジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、すぐに会員となって競馬を始めた[4]。ジョッキークラブ会長の第6代準男爵サー・チャールズ・バンベリー[注 2]は自ら、若いジョージに競馬の手ほどきをしたという[6]。ジョージは欲しい馬がいれば金に糸目はつけずにいくらでも注ぎ込んだ[7]。そんなジョージをせっせと歓待し、しきりに馬の購入を勧めたのは馬商リチャード・タタソールだった[8][9]。ジョージの所有馬はすぐに20頭を超え、経費は年に3万ポンドを要したと伝えられている[7]

1786年にはジョージが競馬に登録した馬は24頭を数え[10][11]、2頭をダービーに出場させるまでになった[1]。このときのジョージの馬の成績は、Braganza号が4着、Little Henry号が着外だった[12]

こうした浪費によってジョージはこの年に早くも破綻に直面した[7]。ジョージは持ち馬をあらかた手放す羽目になり、ニューマーケットの厩舎も解散せざるをえないところまで追い詰められた[4][注 3]。一時期は手元には1頭の馬しかいなくなったという[11]

まもなく1787年に議会から与えられた16万1000ポンドの資金で、ジョージは競馬を再開することができた。議会の承認を得られたのは、当時の首相小ピットが「ガチガチの馬キチ(decidedly horsey[5])」だったからだという。ジョージはすぐに再び競走馬を買い集め、持ち馬は39頭に達した[14]。この数は、当時を代表する大馬主である初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナーの32頭、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル英語版の30頭を上回る数だった[11]

ジョージはそのための厩舎の拡張に追われた[7]。1791年の『タイムズ』紙は「王太子は王国で一番の厩舎を持っている。そのくせ全然レースに勝っていない」と記事にした[14]。実際にはジョージは既に、1788年にサートーマス号をダービーに出走させて勝っており、王族として初めてダービー優勝を果たしている[7]。しかしその頃のダービーの賞金はまだそれほど高くなく、ジョージが勝った年の優勝賞金は971ポンド15シリングに過ぎなかった[15]。これに対し、サートーマス号を購入した際にジョージが支払った額は2000ギニー(2100ポンド)だった[7]

アスコットでの栄光[編集]

1792年の肖像。
1790年のオートランズステークス。奥側のエスケープ号が僅差で2着となる。(ジョン・ノット・ザルトリウス(1755-1828)の作品)

ジョージが名実ともにイギリスで一番の馬主となったのは1791年のことである。

その前年、1790年6月にアスコット競馬場でイギリス最大の競馬レースが創設された[注 4]。これはオートランズステークス(Oatlands Stakes)といい、競馬史上初の、3頭以上によるハンデ戦だった。どの馬にも均等に勝つチャンスが有るという企画は画期的で[注 5]、馬主以外の第三者が賭けに参加することの魅力が広まり、競馬が広く人気のある娯楽へと変遷する契機になった[16]。優勝賞金の原資となる登録料は1頭あたり100ギニー(105ポンド)も必要だったが、イギリス中から出走希望馬が集まり、賞金は膨れ上がった[16][14][8]

ジョージは全英が注目するこの空前の大レースに参戦するため、当時の一流馬エスケープ(Escape)号を入手した。実は、エスケープ号はもともとジョージ自身が1785年に生産した馬だったのだが、1786年の資金難のときに手放してしまっていた。それが活躍したので1500ギニー(1575ポンド)も出して買い戻したのである[13][注 6]。エスケープ号は第1回オートランズステークスで2.0倍[注 7]の大本命となった。しかしエスケープ号は惜しくもアタマ差で2着に敗れた[14][17]。勝ったのは父ジョージ3世が毛嫌いしていたホイッグ党党首チャールズ・ジェームズ・フォックスのシーガル号だった[14][17]。(ジョージ自身はフォックスとは酒、女、ギャンブルを楽しむ遊び仲間で「悪友」だった[18]。)

ジョージは翌1791年の第2回オートランズステークスに優勝することに情熱を傾けた。6月に開催されるレースの半年前に、各登録馬に与えられるハンデキャップが発表されることになっており、それが公表されるとジョージはめぼしい登録馬を買い集めた。そしてそれらの馬を集め、オートランズステークスと同じ距離、同じ斤量で競わせ、出走させる馬を厳選していった。直前まで候補に残ったのは、エスケープ号、バロネット号、ペガサス号、スモーカー号の4頭である。アスコット開催の5日前、ジョージはエプソム競馬場で4頭による最後の試走を行い、エスケープ号とバロネット号の出走を決めた[14][注 8]

1791年のオートランズステークス。奥側のバロネット号が半馬身差で優勝。(ジョン・ノット・ザルトリウス(1755-1828)の作品)
先頭のバロネット号の拡大図。チフニー騎手が王室の勝負服を着用している。
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先頭のバロネット号の拡大図。チフニー騎手が王室の勝負服を着用している。

第2回オートランズステークスの優勝賞金は2950ギニー(約3100ポンド)と、ダービーの3倍にのぼった。当時としてはかなり多頭数となる19頭が出走し、この年のダービー2着馬が本命になった[注 9][19]。このレースは第1回以上に話題を集め、アスコット競馬場の歴史でも空前となる4万人の観衆が押し寄せ、賭けの総額は10万ポンドを超えた。なかには第7代バリーモア伯爵リチャード・バリー英語版のように、一人で2万ポンドも賭けている者さえいた[注 10]

ジョージはエスケープ号での優勝を信じており、エスケープ号にたっぷり賭けていた。ジョージはお抱え騎手のサム・チフニー(Samuel Chifney)にエスケープ号に乗るように指示していた。ところがチフニー騎手はレースの寸前の馬の様子をみて、エスケープ号が調子を落としていると考えた。そこでチフニー騎手は慌てて2ヶ所の賭け場へ走り、それぞれバロネット号に30ポンドと27ポンド賭けた。これが当たれば1000ポンドになるはずだった[14]

このあたりのジョージとチフニー騎手、調教師のウォリック・レイクらの間で行われたやり取りについては、内容の異なる様々な伝聞がある。ある説では、4頭の候補馬がアスコット競馬場に到着したのを見た途端、チフニー騎手はエスケープ号では勝てないと踏み、バロネット号への騎乗を申し出たという。一方レイク調教師はエスケープ号の調子は悪くないと反対した。ジョージはどうするか決めかねて、レース当日になってから自分に相談すること無くチフニー騎手自身で決めて良い、と伝えたとされている。また別の伝聞では、エスケープ号とバロネット号を出走させると告げてきたジョージに対し、チフニー騎手は直談判をしてその場でバロネット号騎乗の許可を得たという。このときレイク調教師はエスケープ号の調子は万全だと言った。ジョージがチフニー騎手にバロネット号にそんなに自信があるのかと尋ねると、チフニー騎手は、ほかにも強力な出走馬がいるから勝利の確約はできないが、勝機はかなりあるはずだ、と答えたという[14]

チフニー騎手にとっての心配の種が一つだけあった。ジョージはエスケープ号に相当賭けているはずだから、もしもバロネット号がエスケープ号を負かしてしまうようなことになると、ジョージが損をするのではないかということだった。そこで思い切ってそのことをジョージに尋ねてみた。するとジョージは、これは他言無用の内緒の話だがと断った上で、実は保険としてこっそりバロネット号にも賭けているから、バロネット号が勝った場合でも17000ポンドの儲けになると答えた[14][注 11]

レースが始まると、エクスプレス号という馬が先頭に立ち、4馬身後ろでバロネット号がこれに続き、さらに2馬身離れた3番手にジョージの本命エスケープ号がつけた。ゴールまであと半マイル(約804メートル)というあたりで、チフニー騎手は後ろを走るエスケープ号の行き振りが思わしくないのをみると、これを見捨ててエクスプレス号との勝負に出ることにした。両馬は全く並んでゴールまで激しく争い、最後の最後にバロネット号がわずかに前に出て優勝した。当時の『タイムズ』紙によれば、両馬はほぼ並んでいたが、ゴール寸前でバロネット号は半馬身の差をつけたという。この勝利により、ジョージはイギリスで一番の大レースの優勝馬主となった[14][8][注 12]

普段はジョージが競馬に散財することを諌めていた父ジョージ3世も、この時ばかりはジョージを褒めたという。ジョージ3世は「おまえのバロネット号はよく稼ぐ。儂は先週14人に準男爵位(バロネット)を授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない。[21][22]」と言ったと伝えられている。バロネット号はこのあとイギリス各地で勝利をおさめ、アメリカへ種牡馬として売られていった[14]

絵画界への影響[編集]

ジョージ・スタッブス(1724-1806)、「1791年、バロネット号とサミュエル・チフニー騎手」。4本すべての脚が空中に描かれている。

この勝利のあと、ジョージは自身がパトロンであった王立美術学校からジョージ・スタッブスを招聘し、バロネット号の肖像画を描かせた。スタッブスは6月のアスコット競馬場でのオートランズステークスを見に行ってはおらず、この作品は10月のニューマーケット競馬場で国王賞(キングスプレート)というレースを勝ったときのもので、背景にもニューマーケットの建物が描かれている[23][24]。ジョージはこの作品を住まいであったカールトン・ハウスに飾った[23]

チフニー騎手は、ジョージの服色である、「紫の胴に緋色の袖、袖と胴に金の飾りつき、黒帽子(purple waistcoat, with scarlet sleeves, trimmed with gold, and black cap)」を着用した姿で描かれている[注 13]。この服色は現在も王室所有馬の服色となっている[23]

バロネット号の4本すべての脚は、前後に伸ばして空中にあるように描かれている。この作品は、全力疾走中の馬を描くにあたってこのような表現が行われた最初の作品である。疾走中の馬の脚をこのようなすがたで描くという発想は、解剖学を修めたスタッブスの師匠で、2年前に死んだ名馬エクリプスを解剖した医師による意見の影響だったと考えられている[24]。競走馬をこのように描く手法は、その後長いあいだ、絵画界の伝統となった[24]

こうした表現は、19世紀の後半にエドワード・マイブリッジが初めて疾走中の馬の高速度撮影に成功し(『動く馬』)、実際にはこのような走り方をしていないことを明らかにするまで続いた[24]

エスケープ号事件[編集]

風刺画家トマス・ローランドソンによる1790年頃のジョッキークラブの会合。この絵の中には重要人物はほとんど描かれていないという見解[2]と、中央の太った男性がジョージ、その右でメモをとっているのがバンベリー准男爵とする見解[11]がある。
ローランドソンによる風刺画。賭け場(Betting Post)に群がる人々を描いている。中央左側で胸に勲章をつけているのがジョージ。中央右側で松葉杖を携えているのがエクリプス号の馬主オケリー氏。
エスケープ号事件を描いた風刺画。中央のエスケープ号のチフニー騎手は鞭を口で咥え、手綱を引いてエスケープ号を抑え込んでいる。エスケープ号の脚を縛っているペナントには「HONI SOIT QUI MAL Y PENSE」という文字が記されている。これは王室の最高勲章であるガーター勲章に描かれている金言で、「邪な考えを抱く者には災い来たる」という意味である。ジョージは画面の右におり、指を二本たて、チフニー騎手に恩給(年金)を約束し[5]、鼻に手をやって翌日の儲けの目論見をたたてている[9]

しかしこの直後、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、エスケープ号事件として競馬史に残る悪名高い事件を起こした。オートランズステークス優勝のあと、ジョージは秋のニューマーケット競馬場にエスケープ号を出走させた。騎手はチフニー騎手である。木曜日のレースで、当時イギリスを代表する名馬の1頭だったエスケープ号は4頭中1番人気となり、賭けの倍率も2対1(3倍[注 14])にまで下がったのだが、不可解な大敗をした。翌日、人気の落ちたエスケープ号が再び出走し、前日と同じ相手に楽勝した。前日の敗戦で、賭けの倍率は4対1(5倍)から5対1(6倍)にまで高くなっていた。ジョージもチフニー騎手もこれで大儲けをしたという[11][5][14][13][9][注 15]

すぐに、ジョージらが2日目の馬券で儲けるため、チフニー騎手がいんちきをして初日にエスケープ号が負けるようわざと手綱を抑えたのだ、と非難の声が上がった。ジョッキークラブの会長で審判長をしていたサー・チャールズ・バンベリーほか3名の審判団はチフニー騎手を呼び出し、詰問した[注 16]。チフニー騎手は、1日目の敗戦はエスケープ号の調子が悪かったと弁解したが、2日目のレースでエスケープ号に20ギニー賭けていたことを白状した[5]。審判団はチフニー騎手の言い訳を信用せず、過去のチフニー騎手の賭けの記録を調べ上げた。これまでほかにも同様の行為が行われていたようだった。さらにチフニー騎手はある人物に対して300ポンドの借金があり、初日のレースのあと借金を帳消しにしてもらったことも突き止めた。その人物がチフニーにわざと負けるよう唆したものとみなされた[5]

バンベリー準男爵は、ジョージに対し、次にチフニー騎手を乗せたら、金輪際ジョージの馬と一緒にレースに出る者は一人もいなくなるぞ、と警告した。ジョージはいんちきを認めず、チフニー騎手を擁護したが、ジョッキークラブはジョージの言い分を認めなかった[9][14][13][26][注 17]。この一件のあと、ジョージはニューマーケットに足を踏み入れなくなった[9][11]

ジョージの側は、ジョッキークラブと決別してやったと息巻いていたが、競馬界の人々はみなジョッキークラブを賞賛した。たとえ相手が次期国王であろうとも、公正さを貫き通して追放処分を決めたことでジョッキークラブの権威は大いに高まった[5]。もともと当時のジョッキークラブは、何ら法的拘束力を持たない同好会にすぎない存在だったが、これ以後はイギリス中の競馬人がニューマーケットのジョッキークラブのさまざまな決定を遵守するようになった。現代ではニューマーケットのジョッキークラブは「世界の競馬の中心」「世界の競馬の決定機関」などと称されており、これはエスケープ号事件の結果である[14][13][28] [注 18]。エスケープ事件の核心は、王太子ジョージがいんちきをしたことではなく、いんちきをした王太子にジョッキークラブが毅然とした態度を示したことにある[注 19][注 20]

当時は、こうしたいんちき行為はよくあることだった[25]。(そもそもこうしたことを禁じる規則はなかったので、いんちきではあっても「ルール違反」ではなかった。)しかし当時のジョッキークラブの会長バンバリー準男爵はかねてより、競馬界からこうしたいんちきを一掃したいと考えていた。そのために大々的に宣伝に使える事例を求めているうちに、ジョージとエスケープ号の一件が起きたものである。Running Racing; The Jockey club years since 1750(『レースを走らす:1750年以降のジョッキークラブ』、1997年)の著者John Tyrrelによれば、バンバリー準男爵は「大魚を探し求めているうちに、王太子という大きくて見せしめにうってつけの魚がひっかかった」のだという[5]

その後ジョージは競馬を辞めたわけではない[注 21]。ジョージはアスコット競馬場を根城にして競馬に打ち込んだ。デルメ=ラドクリフ(Delmé Radcliffe(1774 - 1832)[注 22])を責任者として王室厩舎を設立し、持ち馬をニューマーケット競馬場のレースに出すときは、もっぱらラドクリフ氏名義で出走させた[注 23]。ジョージは1801年から1807年のあいだだけでも100勝以上をあげた[7]

競馬の庇護者ジョージ4世[編集]

「王太子殿下、“麗しき婦人”(Lady of Quality)とアスコット競馬へ」
1821年のレーシングカレンダー。巻頭の会員名簿の筆頭に「国王陛下(HIS MAJESTY)」の名がある。
キャロライン妃は英国史上初めてエプソム競馬場のダービーに臨席した王妃となった。

エスケープ号事件から15年ほどたったあるとき[注 24]、ジョッキークラブのバンベリー準男爵と第3代ダーリントン伯爵ウィリアム・ヴェインは連名でジョージに書簡を送っている。その中で彼らは「かつてニューマーケットで起きた不幸な出来事を、殿下が忘却のふちに埋められますよう、謹んで懇願いたす次第であります[31](we humbly request that Your Royal Highness will bury in oblivion any past unfortunate Occurences at Newmarket[32])」とし、和解を申し入れた。しかしジョージはこれを受け容れず、その後もアスコット競馬に傾注した[31]

アスコット競馬場の開催中、ジョージは、愛人のカニンガム侯爵夫人英語版が「飽きてしまった」と言わない限り、毎日通った[31]。この様子は「王太子殿下、“麗しき婦人”(Lady of Quality)とアスコット競馬へ」の風刺画に描かれ、ロマンス小説『Lady of Quality』の題材にもなった[33]

1820年1月に父ジョージ3世が崩御し、ジョージはイギリス国王ジョージ4世として即位した。このあと、喪が明けた1821年7月に行われる予定の戴冠式をめぐり、ジョージ4世と、その妻キャロラインとの間で争いが起きた。もともと両者は1795年に気の進まない結婚をして[注 25]、翌1796年からは別居し、キャロラインはイギリスを出て大陸で愛人と暮らしていた。ジョージも様々な愛人を囲っていた。ところがジョージが国王戴冠式を行うとなれば、妃も同席し、その場で正式な王后として冠を受けることになる。ジョージはこれをなんとか阻止しようと、法的手段によって正式な離婚を成立させようとしてキャロラインとの間で争議となった。一連の諍いをめぐる醜聞はイギリスの大衆を賑わすことになった。キャロラインは大衆を自分の味方につけようと、7月の戴冠式の直前に行われるダービーの会場に姿を現した。これはイギリス史上初めて、王妃によるエプソム競馬場訪問となった。史上初の王妃のダービー臨席を伝えた『タイムズ』紙は、王妃のことに紙面を割きすぎて、ダービー優勝騎手の名前を掲載するのを忘れたという[1]。(しかし結局、キャロラインは戴冠式から腕づくで締め出された。キャロラインはその3週間後に死んだ。)

キャロラインの死後間もなく、アイルランドの競馬会からジョージ4世あてに秋競馬の案内が送られてきた。ジョージ4世は招待を受けてアイルランドへ競馬観戦に行った。これは国王による正式なアイルランド訪問としては400年ぶり(リチャード2世以来)のこととなった。

その後もジョージはアスコット競馬の充実に腐心した。お抱え建築家ジョン・ナッシュに競馬場の施設を拡充させ、競馬主催者として王室を挙げて開催に臨席した。枢密院での議事中も、書記官のチャールズ・グレヴィル(Charles Greville)と競馬のひそひそ話をしていたと伝えられている[31]

1828年、晩年のジョージ4世は、ついにジョッキークラブの重鎮をセント・ジェームズ宮殿へ招待し、和解を果たした[31][注 26]。その席上、ジョージ4世は「自分ほど競馬に関心を持っている人間はいない」と宣言し、2度に渡って競馬のために乾杯をあげた[31]

翌1829年6月、アスコット競馬の開催を前に、競馬の晩餐会を主催した。そこでジョッキークラブから「競馬の庇護者」の称号を贈られ、これを快く受け入れた[31]。国王はこう言った。「余はジョッキークラブから離れたときも、クラブの会員に不親切にしようとか、競馬への関心を捨てようとか思ったことはなかった[31]」。

夏のリゾート、ブライトン競馬場とルイス競馬場[編集]

ジョージがブライトン競馬場近くに建築した離宮ロイヤル・パビリオン

アスコット競馬場のほか、サセックス州のルイス競馬場やブライトン競馬場もジョージのお気に入りだったと伝えられている。どちらもドーバー海峡に面する夏のリゾート地にあり、特にブライトンはイギリスのリゾート地として有名である。ここでは7月末から8月初旬にかけて競馬開催があり、貴族たちはビーチでのヨット遊びと競馬を楽しむ[注 27]。ジョージはここに瀟洒な離宮を造営した。(この建設費によって借金が膨れ上がり、父ジョージ3世の精神病を悪化させた原因になったとも伝えられている[34][注 28]。)ブライトンのビーチから海を挟んで対岸にはフランスがあり、多くのフランス貴族たちもここへやってきて、イギリスの貴族たちと交流した。ブライトンでのジョージはいつもフランス人の取り巻きをしたがえていたという[31][34]

ブライトン競馬場はカンバーランド公によって1783年に設置された競馬場で、ジョージは翌1784年からブライトン競馬場を訪れるようになった[36]。現地の伝承では、ジョージは仲間の貴族たちと競馬場のまわりを馬に乗って走りまわり、ヒツジの牧柵を飛び越えて回った。これがハードル競馬(障害競走[注 29])の起源になったという[36]

ブライトン競馬場は19世紀の初め頃に不振に陥り、しばしば開催できなくなった。摂政時代のジョージは競馬場に100ギニー相当の金杯を下賜し、これを賞品とするレース(ブライトン金杯)を企画して競馬場を再興した[37]

ジョージはルイス競馬場に自分専用の厩舎を構えていた。サセックス州での夏競馬は、ブライトン競馬場のあとルイス競馬場へ移動する。特に1806年のルイス競馬場では、ジョージが大勝負をしたことでよく知られている。当時、代表的な名馬サンチョ(Sancho)号という競走馬がいた。1804年にセントレジャーステークスに勝ち、1805年にはブライトン競馬場で第3代エグレモント伯爵ジョージ・ウィンダム英語版と1000ギニーを賭けた一騎打ちに勝ち、さらにルイス競馬場でダーリントン伯爵と3000ギニーを賭けた勝負にも勝った[38]。翌年、ジョージはこのサンチョ号に1000ギニーを賭けた勝負を挑んだ。どちらも同じハンデで、勝負は4マイル(約6.4キロメートル)で行われ、ジョージの馬が勝った[39]

アイルランド競馬とジョージ4世[編集]

アイルランドの競馬会 [注 30]は、1821年に戴冠したジョージ4世に対し、秋競馬への臨席を乞う招待状を送付した[41]。ジョージはこれに応えてアイルランドへ巡幸を決めた。現役のイングランド国王が公式にアイルランド本島へ渡るのは、1399年にリチャード2世がアイルランド征服のために自ら出陣して以来、およそ420年ぶりのこととなった。

アイルランドのカラ競馬場では、国王を迎えるための貴賓席と宴会のための広間の建設を行った。ところが、アイルランドへ向けて出航する前日になって、ジョージ4世がものすごい下痢をしているという報せがアイルランドに届いた。第3代リンスター公爵オーガスタス・フィッツジェラルドアイルランド貴族筆頭)の指揮の下で、早馬を出してダブリンから急遽専門家を招聘し、国王のために特別室を突貫工事で作らせた。ジョージ4世は1レースからその特別室に「駆け込まざるをえなくなった[41]」。(ジョージ4世にとっては「便座がちょっと小さい」ものではあったという[41]。)

アイルランド競馬会のこうした対応に大満足したジョージ4世は、イングランド国内でもニューマーケット競馬場だけにしか許されてなかった、特別な賞品を下賜した。これは名馬エクリプスの尻尾の毛を編み込み、金で飾られた鞭である。これ以来、アイルランドの競馬は盛んになった。毎年、カラ競馬場ではこの鞭を賞品とするレースを開催し、ジョージ4世は賞金を提供した。この競走はいまでもロイヤルウィップステークス(Royal Whip Stakes、G3)として行われている[42][41]

ロイヤルアスコット開催の創始[編集]

ロイヤルアスコット開催名物の王室パレードはジョージが創始したもの。

ジョージはアスコット競馬場の整備に力を尽くし、新走路の造営、650人収容の大観客席の建設、王室用の観覧席、貴賓席などの造営を行った[注 31]。ジョージはアスコット競馬場の競馬開催でもたくさんの浪費をした。なかでも、アスコット開催の前日に開いたパーティーで大盤振る舞いをして、バリーモア伯爵のためにわずか一度の食事で1700ギニー(1785ポンド)を使った、と広く噂された[32]

それまでアスコット競馬場の目玉レースだったオートランズステークスに加えて、1807年にアスコット金杯が始まった。金杯レースと言うのはその頃各地の競馬場で行われていたものだが[注 32]、アスコット競馬場でもゴールドカップを開催しようというアイデアは、ジョージの母、シャーロット王妃の発案だったと伝えられている[32]。1807年の時点では、アスコット競馬場の走路では本格的なカップ競走に相応しい距離をとることができず、競馬場を2周して2マイルの距離を確保した。そのあとジョージの命で走路の拡張が行われ、1808年からは2マイル半で開催できるようになった。最初の頃、ジョージは母や姉妹を最終コーナー付近に座らせ、自分はゴール前の審判席で観戦したという[32]

やがて、王立競馬場であるアスコット競馬場の金杯レース(アスコット金杯)はイギリスを代表する大レースとなっていった[注 33]。アスコット金杯を中心とする6月のアスコット競馬は、王室の外交の場にもなっていった[注 34]

1825年6月、ジョージ4世はアスコット競馬の開幕日にパレードを挙行した[43]。これ以来、王家のパレードはロイヤルアスコット開催の伝統行事となった。王室一家、王族、侍従(Lord-in-Waiting)からなる一行は、4頭立ての無蓋馬車に分乗し、ウィンザーパーク門から入場、1マイルある直線の本馬場を進み、貴賓席(ロイヤルエンクロージャー)へむかう習わしである[44][45]。アスコット競馬場には無数の貴族や貴婦人たちが馬車で駆けつけ、彼らはみな精一杯におしゃれをして臨んだという[注 35]。これが今のロイヤルアスコット開催の起源となった[43][44]

アスコット金杯制覇の夢[編集]

アスコット競馬場でのジョージ4世。(ジョン・ドイル(1797-1868)の作品。)
ジョージ4世がアスコット金杯制覇の夢を託して4000ギニーを費やして購入したザカーネル号。ジョージ4世の服色(王室の服色)で描かれている。(Richard Gilson Reeve (1803-1889)の作品。)

ジョージ4世はアスコット金杯優勝に執念を燃やした。王族としては、ジョージ4世の戴冠式の直前に行われた1821年のアスコット金杯で弟のウィリアムが優勝していた。1827年にはジョージ4世の馬(ラドクリフ氏名義)Mortgageが2着になっている。翌1828年にジョッキークラブと正式に和解し、1829年にはアスコット開催に先立つ饗宴で「競馬の庇護者」の称号を送られた[32]

その1829年のアスコット金杯に優勝するため、ジョージ4世は7頭の馬を総額1万1300ギニーで購買した[31]。前年のセントレジャーステークス優勝馬ザカーネル号(The Colonel[注 36])を4000ギニー[44]、1826年に不敗の活躍をしたリバイアサン号(Leviathan)を2000ギニー[46]ドンカスターカップ優勝馬のフルールドリス号(Fleur-de-Lis)を1500ギニー[44]などである[32]。このうちリバイアサン号は、厩舎に到着してみると調教できないぐらいに疲弊しており[注 37]、使いものにならなかった[注 38]。王室厩舎を預かるデルメ・ラドクリフは、国王手許金会計長官(内廷費の管理官)あての書簡のなかで、「取引のなかには確かに巨額のものもございました。が、国王陛下は私めにとにかく買えとお申しつけになったので、とにかくそれに従うよりありませんでした。」と弁解した[44]

このとき、ジョージ4世のもとに売り込みに来た者の中に、あのチフニー騎手の弟と息子がいた。彼らはジンガニー号(Zinganee)という馬を連れてきて、ジョージ4世に買ってもらおうとした。しかし、ジョージ4世は買い取りを拒否した。アスコット金杯の発走2時間前に、書記官のチャールズ・グレヴィルが2500ギニーでこの馬を買い、友人の第6代チェスタフィールド伯爵ジョージ・スタノップ英語版の馬としてアスコット金杯に出走させた[31][47]。これにも異伝がある。The Druid誌の伝えによると、既にジンガニー号の権利を確保していたチェスタフィールド伯爵は、ジョージ4世のアスコット金杯制覇にかける熱情を知り、レース前にウィンザー城を訪れてジョージ4世に拝謁したという。そこでチェスタフィールド伯爵は、もしもご希望されるならジンガニー号をお譲りしますと申し出た。しかしジョージ4世は、この申し出を断った。たとえジンガニー号を買ったとしても、もう1頭の有力馬マムルーク号(Mameluke、1827年のダービー優勝馬)がいる。そしてマムルーク号の馬主は元ボクサーで庶民のジョン・ガリー(John Gully)だった。アスコット金杯の直前に行われた王室のパレードに際し、ガリーが国王ジョージ4世の前でも帽子を脱がない非礼な振る舞いをしたことを、ジョージ4世は根に持っていた。ジョージ4世は、そんな人物に敗れるぐらいならば、チェスタフィールド伯爵に敗れたほうがマシだ、と答えたという[32]

真偽は定かではないが、ザカーネル号については次のような逸話がある。このアスコット金杯の4日前、深夜に酔漢がザカーネル号の厩舎に侵入した。この人物は泥酔したまま勝手にザカーネル号に乗り、朝方まで乗り回した。そしてそのままアスコット競馬場から遠く離れた宿屋に乗りつけ、宿の亭主に酒を要求した。宿の客が、その馬が国王の馬であることに気づいて、慌てて王の厩舎へ連絡した。ザカーネル号は1時間に6、7マイルのペースで数時間走ったようだったという[48]

結局、ジンガニー号はマムルーク号を破って優勝した[31][47]。ザカーネル号は着外だった。チャールズ・グレヴィルが伝えるところに拠ると、その時になってジョージ4世は、事前にジンガニー号を譲るという申し出など無かったと不平を言ったという。そして今更のようにジンガニー号を2500ギニーで買い取った[32]

この年、Windsor and Eton Express紙は次のように報じている。「アスコット競馬が一般大衆にこれほどまでに人気があるのは、競馬そのものによるのではない。この人気は国王陛下のご尽力の賜物である。馬はそこらじゅうでいつでも見られるものだが、王族を見る機会は滅多にないものだ。[32]

翌1830年6月9日のアスコット金杯のときは、ジョージ4世はウィンザー城で死を迎えつつあり、競馬を見に来ることはできなかった。この年のアスコット金杯の出走馬は4頭で、そのうち2頭、本命馬ジンガニー号とザカーネル号がジョージ4世の持ち馬だった。しかしザカーネル号が2着、ジンガニー号は4着に終わり、ジョージ4世はアスコット金杯を勝てなかった。その後まもなく6月26日にジョージ4世はウィンザー城で崩御した[32]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 伝説的名馬エクリプスの生産者として知られるカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス(1721-1765)とは別人。このカンバーランド公はジョージ2世の子で、ジョージ3世からみて叔父、ジョージ4世から見ると大叔父となる。こっちのカンバーランド公ははっきりと記録に残るものとしては最古のジョッキークラブのメンバーの一人であり、1762年に馬主の勝負服の登録が行われたときに名を連ねた19名のうち、唯一の王族である[2]。イギリス種牡馬チャンピオンマースクの馬主でもある[3]
  2. ^ ジョージの父、ジョージ3世は、若い頃にサラ・レノックス英語版という16歳の少女に恋をして、結婚を考えた。サラは第3代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの娘であり、レノックスの娘達はその美貌で有名だった。その美しさは、リッチモンド公爵の先祖、すなわちチャールズ2世の愛妾だったルイーズ・ケルアイユ譲りだったと伝えられている。ジョージ3世は重臣の反対でサラと結婚することは叶わなかった。そのサラを娶ったのがサー・チャールズ・バンベリーである[5]
  3. ^ この時売り払った馬の中に、後述するエスケープ号がいる[13]
  4. ^ レースの事前登録自体は1788年から始まっている。登録料は100ギニーで、実際のレースの1年前、1789年7月までに辞退したものは25ギニーを支払えばいいが、それ以降は実際にレースに出なくても100ギニーを納める義務がある。
  5. ^ 「どの馬にも勝つチャンスが均等にある」という発想は、従前の「馬主同士がどちらが強いか金を賭けて勝負する」「強いと予想された馬が当たり前のように勝つ」というスタイルからの、革新的な変化になった[16][14]
  6. ^ エスケープ号の父は当時のチャンピオン種牡馬ハイフライヤーである。エスケープが若駒のときに売りに出たとき、その購入者は馬をひどく手荒に扱い、若駒は脚を馬小屋の木戸に挟まれてしまった。しかし怪我することなくうまく脚をはずして小屋から逃れた。この逸話にちなんで「エスケープ号」と命名された[13]
  7. ^ 正確には、このときのエスケープの賭け率は「even」、すなわちリスクに対してリターンが等しい「1対1」(日本風の表現では2.0倍)だった。イギリスでは、馬券の売り上げに連動して倍率が決まるパリミュチュエル方式ではなく、ブックメーカーが自由に倍率を定めるブックメーカー方式である。1対1の倍率は、一般論として、儲けがリスクに見合わない、もはや賭けに値しない倍率とみなされる。
  8. ^ 試走ではエスケープ号が勝ち、2番はクビ差でバロネット号、ペガサス号は大きく遅れ、スモーカー号はさらに100ヤード以上離されたという。ただしチフニー騎手の話ではエスケープ号は余裕を残しており、本気を出せばバロネット号に3馬身以上差をつけることができた、という。チフニー騎手はこの試走のあとすぐに賭け場へ行き、オートランズステークスでのエスケープ号の勝利に50ポンドを賭けた。また、この時のペガサス号の騎手の体重が重く、本来の所定の斤量よりも重かったという伝聞もある[14]
  9. ^ ダービーは3歳の若駒によって争われる。当時は、まだ幼い3歳馬には本格的な長距離戦は無理だと考えられていた。そのためこの馬のハンデはわずか5ストーン3ポンド(33.1kg)だった(なお、ハンデはレースの6ヶ月前、すなわち正月に発表されているので、その後のダービーの結果はハンデに織り込まれていない。)[14]
  10. ^ バリモア伯爵は自分の馬を出走させており、もしもそれが勝つと2万ポンドが10倍になって戻ってくることになる[14]
  11. ^ バロネット号の倍率は20対1(21.0倍)で、いわゆる穴馬だった[14]
  12. ^ バリモア伯爵が2万ポンド賭けていた馬は3着だった[20][19]
  13. ^ ザルトリウスの作品では、勝負服は同じ色だが、帽子の色が異なっている。それ以外は、ザルトリウスの作品は2着以下の各馬も勝負服の色は登録どおりに描かれている。
  14. ^ イギリス式(フラクショナル方式)の賭け率表示の「2対1」は、賭け金1に対して儲けが2見込めることを示している。日本で広く採用されている方式(デシマル式)に換算すると、100円の馬券に対して払戻金が300円(うち100円は元本)ということになり、3.0倍と表示される。
  15. ^ このような「いんちき行為」は、当時としてはありふれたものだった。チフニー騎手の証言によれば、ジョージのお抱え厩務員は何年にもわたり、レース前日の厩舎に潜入して競走馬にアヘンを与えるような連中と行動をともにしていたという。彼らはそうやって馬券で利益を上げていた[25]
  16. ^ バンベリー準男爵はサフォーク州知事(High Sheriff of Suffolk)やアイルランド担当大臣英語版を歴任した人物。ダービーの共同創設者の一人であり、第1回ダービーの優勝馬主でもある[26]。バンベリー准男爵以外の2人はいずれも庶民だった[13]
  17. ^ チフニー騎手は騎手として競馬に出ることはできなくなったが、ジョージは彼に200ポンドの年金を約束した[9]。チフニーはのちにこの年金をもらえる権利を質に入れて1200ポンドあまりを得たが、すぐに使い切って借金が返せなくなり、滞納を理由に投獄されて野垂れ死んだ[27][5]
  18. ^ ジョッキークラブが何ら法的拘束力や根拠を持たないまま世界の競馬に影響力を及ぼす状態はおよそ2世紀にわたって続いた。20世紀になって、ついにエリザベス2世がジョッキークラブを法人として認める勅許を出し、初めてジョッキークラブの後ろ盾ができた。しかし21世紀になると、競馬の公平性をより高いレベルで実現するには馬主の同好会であるジョッキークラブでは不充分であること、変化の激しい現代に素早く対応するには伝統的な組織では難しいことなどを理由として独立性の高い機関の設立が求められるようになった。いくつかの過渡的な組織を経て、2007年には英国競馬統括機構(BHA)が成立し、ジョッキークラブがかつて有していた様々な役割が移管されている[29][30]
  19. ^ ジョッキークラブの決定は「ニューマーケットルール」「ニューマーケット規則」などといい、日本を含め多くの国々で、「競馬はニューマーケット規則にのっとって行う」と定めるようになった。
  20. ^ ジョージが本当にチフニー騎手によるいんちき行為を知っていて、儲けに利用したのかどうかは、不確かとされている[5][31]
  21. ^ その後も引き続きジョッキークラブの会員だった。
  22. ^ 「ラドクリフ氏」とは、Emilius Henry Delmé Radcliffe(1774 - 1832)を指し、当時のヘレフォードシャーの州長官(en:High Sheriff of Hertfordshire)を務めた人物。のちにジョージがジョージ4世として即位すると、王室厩舎の御馬係(en:Gentleman of the Horse)に取り立てられた。ジョージ4世は王室の競走馬を主にラドクリフ氏名義で出走させた。
  23. ^ 例を挙げると、オーヴィル(Orville)は1806年に春と秋のニューマーケット競馬場ではラドクリフ氏名義で、ブライトン競馬場とルイス競馬場では王太子名義で出走している。(オーヴィルは3歳(1802年)にセントレジャーを勝った頃は第4代フィッツウィリアム伯爵の持ち馬だったが、のちにジョージが買い取り、1805年からは王室名義で出走している。)
  24. ^ 1805年という説[31]と、チフニー騎手が死んだ1807年だったという説[11][5]がある。
  25. ^ ジョージは1785年に21歳の若さにして、年上の未亡人マリア・フィッツハーバート英語版と結婚式を挙げている。ところが彼女は平民で、そのうえイギリス国教ではなくカトリック信者だった。このため二人の結婚は無効だとされた。そして父ジョージ3世は、ジョージが競馬で作った借金返済のための補助金を引き受ける代わりに、ドイツからキャロライン・オブ・ブランズウィックを王妃として迎えて結婚するよう強制した。ジョージはやむなくこれに従い1795年に結婚したが、翌年長女が生まれた後は別居した。
  26. ^ エスケープ号事件当時のジョッキークラブ会長バンベリー準男爵は、既に1821年に没している。
  27. ^ 19世紀の半ばには、近接するブライトン競馬場、ルイス競馬場、グッドウッド競馬場の3競馬場で「夏のサセックスフォートナイト(2週間)シリーズ」と銘打って開催していた。20世紀の半ばには経済上の理由でルイス競馬場は閉鎖、ブライトン競馬場も下火になり、いまはグッドウッド競馬場の「グロリアス・グッドウッド開催」がイギリスの夏競馬の中心地の一つになっている。
  28. ^ ジョージが初めてブライトンを訪れたのは1783年だという。離宮の建設は1787年に始まり、1801年に食堂を増築、さらに1815年から全面改装を行った。議会の見積もりでは改装費は6万ポンドを要するとされた。厨房の改装だけで6000ポンドがかかり、お雇いのコックの年俸だけで2000ポンドになった。当時はナポレオン戦争のためイギリスは膨大な対外債務を抱え、国内は不況で失業者が溢れている時代だった。[35]
  29. ^ イギリスでは、競馬は平地競走(フラットレース)と障害競走(ジャンプレース)に大別され、障害競走にはハント(ナショナルハント競走。狩猟の馬(猟騎馬、ハンター)で行う。専門の騎手ではなく、基本的には一般人が騎手として出走する。)、チェイス(スティープルチェイス。比較的障害が大きい。)、ハードル(比較的障害が小さい)という種類がある。日本では一般に全てまとめて障害競走と呼ばれる。このほかには馬車を引く繋駕競走などがある。
  30. ^ アイルランドでは、イングランドよりも競馬の組織化・体系化は遅れて始まり、1790年にアイルランドで最高位の貴族である第2代リンスター公爵ウィリアム・フィッツジェラルドを長としてターフクラブ(競馬会)が組織化された。これはイングランド・ニューマーケットのジョッキークラブを模倣したものだった。アイルランドでは平地競走よりも障害競走の人気が高く、イングランドを上回る規模で行われていた。平地競走については、ジョージ4世がアイルランドを訪れた頃は黎明期といえる時期だった[40]
  31. ^ アスコット競馬場そのものの歴史は、アン女王による1711年の創設に遡る。しかし数年後にアン女王が崩御するとアスコット競馬王は打ち棄てられてしまい、顧みられなくなっていた。18世紀の半ばになって、カンバーランド公がこれに目をつけて自身の競馬の基地として使うようになった。本格的な王立競馬場として再興されたのはジョージ3世の時代になってからで、実際にそれを主導したのは王太子ジョージだった。
  32. ^ 競馬のレースの原初的な基本形態は、2人の馬主が賭け金を出し合って自分の持ち馬の勝負を行い、勝ったほうが賭け金を総取りするというマッチレースだった。やがて3人以上による「勝者総取り戦(ステークス競走)」が行われるようになった。ほかに、王室が提供する賞品を争うレースもあり、これはプレート競走などと呼ばれた。カップレースは、競馬の主催者(地元の有志)が費用を負担して高額な賞品(金杯)を提供して行われるもので、たいていの競馬場で「ゴールドカップ」の名前で行われる。よく知られたものとしてはドンカスター金杯(1766年創設)がある。カップレースがあることは、その競馬場が経済的に余裕があることの現れであり、ゴールドカップはその競馬場を代表する目玉競走の一つになった。また、「カップコース」といって2マイルや4マイルの距離が設定されていた。たとえば1806年のレーシングカレンダーでは57箇所の競馬場のレースが記録されており、そのうち19競馬場で「ゴールドカップ」が行われている。賞品の金杯はたいてい100ギニーのねうちとされており、距離は4マイルが多く、それも4割ほどの競馬場では一本勝負ではなくヒート方式で争われていた。ブライトン競馬場のゴールドカップレースは、ジョージ自ら賞品を提供していた。
  33. ^ 当時すでにダービーやセントレジャーといった、3歳馬のクラシック競走が始まっていた。しかし当時の価値観では、3歳馬というのはまだ若くて未熟で非力な馬であり、ダービーを行う1マイル半(2400メートル)は競走馬の真価を問うには短すぎる距離だった。(だからこそ、どれが勝つかわからない、ギャンブルとしての醍醐味があった。)これに対し、じゅうぶんに成長した競走馬の実力を計るには2マイルや4マイル以上の長距離が必要だと考えられており、アスコット金杯は真の実力をもってイギリスナンバーワンを決める競走とみなされるようになっていった。
  34. ^ アスコット金杯観戦に訪れた他国の元首として最も有名なのは、19世紀半ばのロシア皇帝ニコライ1世である。皇帝はアスコット金杯のために特注の優勝杯を下賜するようになり、一時アスコット金杯は「大ロシア皇帝陛下プレート(The Emperor's of Russia Plate)」というレース名で呼ばれていた。当時の金杯は、今では美術品として1億円以上の価値がある。日本の明仁上皇は、皇太子時代に夫婦で訪英した際、エリザベス2世の招待で2日間アスコット競馬場に滞在し、アスコット金杯も含めて競馬を観戦している。
  35. ^ アメリカの馬産家で競馬史研究家のPatricia Erigeroは、『マイ・フェア・レディ』で描かれるロイヤルアスコット開催の場面を引き合いに出し、これがジョージ4世が始めたものだとしている[44]。『英国競馬事典』ではこの日アスコット競馬場でみられる「まことに突飛な帽子や襟ぐりの深いドレスから覗く胸の深い谷間(それとおそらくは傘)は、きわめて英国的な光景[45]」としている。(なお、肩の露出やミニスカートはドレスコードに抵触する。女性のパンツスーツも1970年代に解禁されるまで禁じられており、ジーンズは今も禁止である[45]。)
  36. ^ ザカーネル号は、ダービーで1位同着になっている。しかしその後行われた優勝決定戦で敗れた。
  37. ^ 原文は「too lame」。直訳すると「跛行している」「コズミがひどい」というような意味。
  38. ^ リバイアサン号は1年間放牧に出されたが、復帰後も優れず引退した。そのあと売りに出されてアメリカへ輸出された。アメリカでさらに数年間競走馬としてレースに出た後に種牡馬になり、5回(1837-1839, 1843, 1848年)アメリカの種牡馬チャンピオンになった。

出典[編集]

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参考文献[編集]

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関連項目[編集]