ジョン・リギンズ (宣教師)

ジョン・リギンズ
生誕 1829年5月11日
イギリスの旗 イギリス ヌニートン
死没 1912年1月7日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニュージャージー州 オーシャンシティ
出身校 バージニア神大学
職業 宣教師教育者
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ジョン・リギンズ(John Liggins、1829年5月11日 - 1912年1月7日)は、米国聖公会から派遣されたプロテスタント宣教師チャニング・ウィリアムズとともに日本における最初のプロテスタント宣教師とされている[1][2]。漢名、林約翰[3]
長崎で初代米国総領事タウンゼント・ハリスと長崎米国領事ジョン・G・ウォルシュの支援のもと、幕府長崎奉行岡部長常の要請から聖公会の私塾を創設した[4]。日本滞在は約10ヵ月間であったが、英学教育において、後に日本の外交の嚆矢で活躍する若者たちに指導するとともに、漢訳の科学書や歴史書、医学書、聖書等を多く頒布するなど積極的に活動し、日本の近代化に貢献した[5][4]。また、リギンズが出版した英和対象語集は日本の英語教育に大きな影響を与えた[6][7]

人物[編集]

ジョン・リギンズはバージニア神学校の同級生でもある、チャニング・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)[8]と共に中国で宣教を行っていたが、1859年2月に米国聖公会が日本ミッションの開設を決定し、リギンズとウィリアムズが任命された。リギンズはこの人選と同時に、医療宣教師の同行を要望した[9]。(リギンズが離日した後の1860年8月に宣教医ハインリッヒ・シュミットが来日[4]。)1859年5月2日、リギンズはアメリカ船のメリーランド号で長崎に到着した。日米修好通商条約の第3条による長崎の開港前(条約による開港日は1859年7月4日)ではあったが、後述の長崎米国領事ジョン・G・ウォルシュの斡旋で上陸が許可された[10][7]。リギンズは中国でマラリアに感染したり、暴徒によって怪我をしたこともあり、その静養を兼ねての来日でもあった[4]。ウィリアムズは、同じく遣清宣教師であったエドワード・サイルの家族の病気ため、サイルは短い旅行を楽しむ必要があり、彼が不在で出発できず、リギンズより遅れて1859年6月25日に米国軍艦ジャーマンタウン号で長崎に来日した[4][11]

リギンズが来日する数日前の1859年4月下旬には、初代米国総領事タウンゼント・ハリスが長崎を訪問し、5月初めにハリスは、アメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュ(ウォルシュ兄弟の2番目の弟)を長崎の米国領事に選任。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。こうして、リギンズとウィリアムズの来日に際して、聖公会の信徒で日本への米国聖公会の学校設立の勧告とサポートを行ってきたハリスも同時に長崎を訪れ、長崎でもアメリカの活動拠点の構築と整備を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった[12]

長崎に到着したリギンズは幕府長崎奉行岡部長常の要請で、早速、英語教師として8人の幕府公式通訳(長崎通詞)を指導する[4][3]。長崎領事のジョン・G・ウォルシュがリギンズの希望を長崎奉行に懇切丁寧に訴えてくれ、住居を得ることに成功する。マクゴーワン(Daniel Jerome Macgowan、瑪高温、マゴオン)博士が教えていた英語クラスの生徒の一部で、英語を学ぶことを強く望んでいた幕府の公式通訳たちも、長崎奉行がリギンズの要求を許可するよう祈ってくれた。当時、日米修好通商条約が発効するまで家を手に入れる望みがないと諦めて上海に戻った者もいたほどだった[4]。長崎奉行の対応や配慮には、前年に長崎で一時滞在したサイルの準備工作も効いていた[13]。長崎奉行からは美しい場所に建つ、3部屋ある状態の良い家(崇福寺広徳院)を提供され、長崎通詞の教師として家塾を開設し授業クラスを設け、ウィリアムズとともに通ってくる生徒たちに、6ヶ月に亘り英語を教えた[14][4][5]。最初の8人の生徒の中には、唐通詞の英語教育の率先者で吉田松陰も学んだ鄭幹輔昌平坂学問所東京大学の源流》教授)を始め、岩倉使節団の一員で大阪洋学校(現・京都大学、、岡山大学医学部)創設者の何礼之助や、幕府済美館学頭を務めた平井義十郎(外交官、太政官大書記官)など、後に日本の外交の嚆矢で活躍する名士たちがいた[5][15]。リギンズとウィリアムズは、私邸や長崎大浦の妙行寺に置かれた英国領事館を使って外国人のための礼拝を開始し、1859年9月に来日した聖公会信徒のトーマス・グラバーも礼拝に参加した[16]。キリスト教の禁教化であったが、英学教育や医療活動に加えて、ハリスが日米修好通商条約に加えた第8条によって、本国人の宗教の自由と居留地内での教会設置が認められ、外国人向けの礼拝は行うことができた[17]。ウィリアムズは何礼之や平井義十郎(希昌)らに英語を教え、外国人向けの礼拝を行う一方、いつの日かキリスト教が解禁される時のために熱心に日本語を勉強し、聖書や聖歌、祈祷書を翻訳していた[5]

また、リギンズは、要望していた宣教医の日本派遣について、米国聖公会内外伝道協会外国委員会が適当な人が見つかれば任命する意向があることを喜んだ。マクゴーワン博士によれば、日本には既に西洋医学が導入されており、宣教医は人々の間で無償で診療を行うことができるばかりでなく、若い日本人医師を指導することができると、リギンズは外国委員会への手紙に記している[4]

1859年11月7日にはグイド・フルベッキが長崎に来日し、リギンズとウィリアムズの出迎えを受けて、日本についてのアドバイスを受け、住まいが見つかるまで彼らの崇福寺にある住居(広徳院)の一部を貸して貰い同居した。フルベッキは、毎日足を棒にして家を探し回ったという[5]

リギンズは、長崎に約10ヵ月間滞在し、上述の通り授業を行うが、病気で1860年2月24日に帰国することとなる[18]。英学教授の職を終えた際、長崎奉行・岡部長常からリギンズに感謝の言葉と贈物が渡された[15]。リギンズは滞在期間中、中国から持参したり、取り寄せた漢訳の聖書や科学書を日本の知識階級に積極的に販売、頒布する。その数は2 ケ月に150 冊、半年あまりで数千冊に及んだという。それらの過半は歴史書、地理書であったが、ロンドン宣教協会英語版(London Missionary Society)の遣清宣教師ウィリアム・ミュアヘッド英語版(William Muirhead)が上海で著訳した『大英国志』(1856年刊)や『地理全志』(1853-54年刊)などが含まれていた。また、ウエイの『地球図説』、ホプソンの『西医略論』『博物新編』、ウイリアムソンの『植物学』に加えて、アメリカン・ボードの遣清宣教師ブリッジマンの『聯邦志略』もあった[19][20]。さらに、リギンズの当時の書簡によると、シルナーの『英国歴史』、インスリーの『月刊雑誌』や、ミュアヘッドの書籍には『地文学』、ホブソンの書籍にも『物理学』、『外科術』、『医学』があり、これらを多数販売、流通させたことが分かっている[18]。中国語の作品は、教養のある日本人なら誰でも理解できた。また、既に英語を読み、話す日本人も多くいたが、これから英語を学び欧米の知識を得たいという人々は膨大にいたのである[4]
こうして、リギンズは、キリスト宣教が禁止されている幕末当時の日本の中にあって、英語の授業や地理、歴史、化学書などの書籍を流通することで、キリスト教の誤解を解き、後に正式に宣教ができるよう精力的に活動を行った[4][7]。 特に『聯邦志略』には、アメリカ合衆国の独立宣言、歴史、地理、政治、文化、行政、教育等が具体的に書かれており、近世封建社会下にあった当時の多くの日本の志士に影響を与えることとなった[21]新島襄同志社大学創設者)が米国行きを決意し、民主主義的思考の基礎を形成した一冊が『聯邦志略』とされ[22]、ウィリアムズに学んだ前島密もこの書籍から郵便制度を始め、前島の思想全体に大きな影響を与えたと見られている[23][21]。同じくウィリアムズに学んだ副島種臣も後に明治維新の政治大綱である「政体書」を起草する際に『聯邦志略』を参考の一つとしている。
『聯邦志略』は1861年(文久元年)には、ブリッジマンによって上海で増補改題され『大美聯邦志畧』として新装出版され、同年には江戸で、箕作阮甫がこの『大美聯邦志畧』に訓点を施し『聯邦志略』として日本で初版された[22]。リギンズによる流通を始め、幕末に日本に持ち込まれた『聯邦志略』は、佐久間象山吉田松陰横井小楠橋本左内らも競って読み、この書物によって世界の情報、知識を得ていたのである[22]
リギンズが流通させた書籍には、ホブソンの『西医略論』、『外科術』など医学書も多く含まれており、幕末の日本に西洋医学書を多く流通させ、日本の医学の進歩にも寄与した[18]。こうした医学への貢献は、リギンズが当初宣教医の同行を要請した結果、後に来日することとなったハインリッヒ・シュミットによって引き継がれていくこととなった[24]

リギンズは日本語学習のため、長崎の漢方医、笠戸順節とも深く交際している[6][25]。 さらに、長崎滞在中、『Familiar Phrases in English and Romanized Japanese,Nagasaki,1860』などを執筆した[6]。1860年(万延元年)に英和対象語集である『英和千字文』として上海で出版したが、これはリギンズの日本伝道の置き土産というべきもので、明治になって改題のうえ、再版、三版され、日本の英語教育に有効な影響を与えた[6][7]。1867年(慶応3年)には、ウィリアムズやジェームズ・ヘボンやフルベッキに頼まれて、ニューヨークで再版して長崎や横浜に送られ、1873年(明治6年)には大阪で第三版が作られている[7]。この第三版は、『英和対訳通弁書』の書名で大阪の竜章堂から米国リグジン氏著として出版され[26]、現存する書籍が早稲田大学図書館と九州大学附属図書館筑紫文庫に所蔵されている[27][3]。英文に対して日本文は俗語と普通の口語の2通りのローマ字で記されているが、こうした江戸時代末期の口語と長崎方言が記録されている点は、幕末の口語、方言資料として特徴的である[3]。1922年(大正11年)にも郁文堂から『英和対訳通弁書』として出版されている[28]
加えて、ヘボンが1867年(慶應3年)に上海で印刷刊行した『和英語林集成』と、その7年前の1860年(万延元年)にリギンズが上海で『英和千字文』として刊行した初版は、ローマ字綴法が全く同一であり、日本の英語教育史上、英語で書かれた日本語事典(和英辞書)として画期的な成果であった。リギンズはその初版の序文で、日本語を写すローマ字法を、サミュエル・ウィリアムズ博士(米国聖公会へ日本伝道を勧告した東洋言語学者、ペリー艦隊通訳)が推薦した方式に拠ったとも述べつつも、リギンズの生徒であり、同時に日本語の先生でもある日本人が発音するところを聴いて本書を完成させたと述べている。中でも、日本は"Ni-tsu-Pon"と綴るところを、2番目の母音の"u"は省かれて"ts"を"p"として、"Nippon"と綴るなど現在利用されるローマ字綴りを編み出すなどの功績となった[29]

また、1860年当時のアメリカでは、キリスト教禁制の日本に宣教師を送るのは無益であるという意見があったのに対して、リギンズは1861年(文久元年)に米国聖公会機関紙の『スピリット・オブ・ミッション』に反駁文を寄稿し、宣教師派遣の必要性を強調するなど、その後の日本の伝道における有効な働きを行った[7]

リギンズについて英語を学習した石橋助十郎(石橋政方)は、明治にはいって、横浜に移り、そこの英語所で、サミュエル・ロビンス・ブラウンとともに日本人に英語を教え、英日対訳語彙集、「英語箋」を編集、出版している[6]

略歴[編集]

  • 1829年5月11日 イギリス中部のヌニートン出身。
  • 1841年 米国フィラデルフィアへ移住。
  • 1855年 バージニア神学校卒業
  • 1856年7月 上海に赴任し布教にあたる
  • 1859年5月2日 来日
  • 1860年2月24日 病気のため離日[18]
  • 1912年1月7日 ニュージャージー州オーシャンシティで永眠。

記念集会[編集]

1909年にリギンズから数えたプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が開催された。1959年プロテスタント宣教100周年を記念して、エキュメニカル派リベラル派)と福音派聖書信仰派)が、それぞれ別に記念集会をもった[30][31]。福音派側は日本宣教百年記念聖書信仰運動大会を開催。150周年にあたる2009年は、エキュメニカル派、福音派、聖霊派の三派が共同で日本プロテスタント宣教150周年記念大会を開催した[32]

脚注[編集]

  1. ^ 中村敏『日本キリスト教宣教史』いのちのことば社
  2. ^ 琉球王国で伝道活動した英国聖公会バーナード・ジャン・ベッテルハイムを最初の宣教師とすることもあるが、琉球王国は1879年になって日本の沖縄県になることから、正式に日本ミッション開設のために米国聖公会から派遣されたジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズを日本における最初のプロテスタント宣教師とする。
  3. ^ a b c d 荒木見悟ほか「九州文化史研究施設開設記念図録」『展観資料』、九州大学文学部附属九州文化史研究施設、1966年5月。 
  4. ^ a b c d e f g h i j k Welch, Ian Hamilton (2013-12-11). “The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. 美國聖公會 With references to Anglican and Protestant Missions”. ANU Research Publications 1. https://hdl.handle.net/1885/11074. 
  5. ^ a b c d e 意志力道場ウォーク 『日本を変えた出会い―英学者・何礼之(が のりゆき)と門弟・前島密、星亨、陸奥宗光―』 丸屋武士 2012年6月1日
  6. ^ a b c d e 杉本つとむ「続・幕末の洋学事情-近代の発信地、長崎と蘭医と近代教育-」『早稲田大学図書館紀要』第42巻、早稲田大学図書館、1995年12月、1-55頁、ISSN 0289-2502NAID 120006349631 
  7. ^ a b c d e f 山口 光朔「日本プロテスタント史序説」『桃山学院大学経済学論集』第1巻第1号、桃山学院大学、1959年1月、ISSN 0286990X 
  8. ^ 日本で初めてとなるプロテスタント教会を作った。
  9. ^ 園田健二「幕末の長崎におけるシュミットの医療活動」『日本医史学雑誌』35(3), pp. 33−48
  10. ^ 長崎年表 『江戸時代(16)』 1859(安政06)
  11. ^ 『立教大学新聞 第88号』 1930年(昭和5年)5月15日
  12. ^ 在日米国大使館と領事館『長崎アメリカ領事館の歴史』2022年4月4日
  13. ^ 立教史データベース 基督教週報第69巻第19号 『◇聖公会 修史夜話◇(其八) 前島生/崇福寺を訪ふ』 1935年1月18日
  14. ^ リギンズは毎週月・水・金の3日間教えていた。
  15. ^ a b 『第一節 長崎通詞への英語教育と大阪の英和学舎』 (PDF) 立教学院百五十年史(第1巻),第二章
  16. ^ Being-Nagasaki お薦め散策コース Bコース 旧グラバー邸
  17. ^ 中島耕二「フルベッキ博士の生涯と日本の近代化」『新長崎学研究センター紀要』第1号、長崎外国語大学、2022年3月、175-193頁。 
  18. ^ a b c d 監督ウイリアムス師傳 第七編 長崎時代(中)『二、同勞者リギンス氏』 元田作之進著
  19. ^ 海老沢 有道,大久保 利謙,森田 優三(他)「立教大学史学会小史(I) : 立教史学の創生 : 建学から昭和11年まで (100号記念特集)」『史苑』第28巻第1号、立教大学史学会、1967年7月、1-54頁、ISSN 03869318 
  20. ^ 劉 建輝「もう一つの「近代」ロード : 19世紀の日欧交流における広東、上海の役割」『「日本研究」再考 : 北欧の実践から』、国際日本文化研究センター、2014年3月、215-228頁。 
  21. ^ a b 井上卓朗 『日本文明の一大恩人』前島密の思想的背景と文明開化 郵政博物館 研究紀要 第11号 2020年3月
  22. ^ a b c 坂本 恵子「『聯邦志略』を読む」『新島研究』第110号、同志社大学同志社社史資料センター、2019年2月、120-143頁、ISSN 02875020 
  23. ^ 前島男爵 談 市島謙吉 編「鴻爪痕」、市島謙吉 デジタル化出版者:国立国会図書館、1922年、doi:10.11501/986504 
  24. ^ 監督ウイリアムス師傳 第七編 長崎時代(中)『三、宣敎醫師シユミツト氏 』 元田作之進著
  25. ^ ウィリアムズ主教の生涯と同師をめぐる人々 6頁
  26. ^ レファレンス協同データベース レファレンス事例詳細 2008年03月26日
  27. ^ 早稲田大学 古典籍総合データベース『英和対訳通弁書 / リグジン 著』
  28. ^ 東洋文庫 大正時代の購入書籍リスト(和書・漢籍)『1059 英和対訳通弁書』
  29. ^ 立教史データベース 『聖公会 修史夜話 (其四)前島生/ヘボン式羅馬字の始 ―リギンズ長老の業績―』 基督教週報第69巻第18号 1935年01月11日
  30. ^ 中村敏『日本における福音派の歴史 : もう一つの日本キリスト教史』いのちのことば社、2000年。ISBN 4264018269NCID BA47067585https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002962914-00 
  31. ^ 尾山令仁『クリスチャンの和解と一致』002号、地引網出版〈地引網新書〉、2007年。ISBN 9784901634144NCID BA81617022https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008603969-00 
  32. ^ 日本プロテスタント宣教150周年記念大会

参考文献[編集]


関連項目[編集]