ジョン・ヘンリー・ロイド

ジョン・ヘンリー・ロイド
John Henry "Pop" Lloyd
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州パラトゥカ
生年月日 1884年4月25日
没年月日 (1965-03-19) 1965年3月19日(80歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1906年
初出場 1906年
最終出場 1932年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1977年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会選出

ジョン・ヘンリー・”ポップ”・ロイド(John Henry "Pop" Lloyd、1884年4月25日 - 1965年3月19日)は、1900〜1920年代にアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは遊撃手フロリダ州パラトゥカ生まれ。右投左打。

走・攻・守全ての揃った名選手として、ホーナス・ワグナーらと比較されたニグロリーグ初期の内野手

来歴・人物[編集]

1905年ジョージア州メーコンアクメスという球団で捕手として野球を始め、翌1906年にはニグロリーグキューバン・X・ジャイアンツ二塁手として契約した。1907年フィラデルフィア・ジャイアンツに入団した際、正二塁手の座はソル・ホワイトが握っており、ロイドはこのチームで遊撃手として活躍する。

その後1910年ルーブ・フォスターの誘いでシカゴリーランド・ジャイアンツに所属した後、1911年にはニューヨークのリンカーン・ジャイアンツに入団。ここで打率.475の活躍をし、チームはこの年からリーグを3連覇した。その後1914年にシカゴのアメリカン・ジャイアンツ1915年にはニューヨークの2球団を渡り歩くなど、めまぐるしく所属球団を変える。1918年からはブルックリンで選手兼任監督もつとめるようになっていた。

1921年ルーブ・フォスターニグロ・ナショナルリーグを設立した年は、コロンバス・バックアイズで監督をしていたがチーム運営が上手くいかず、翌1922年にはニュージャージー州アトランティックシティに戻り、アトランティックシティ・バカラック・ジャイアンツに所属。1923年イースタンカラードリーグが創設された際、オーナーのエド・ボールデンはロイドをヒルデールの監督として迎え入れる。ヒルデールはこの年32勝17敗でリーグを制覇、ロイド自身も打率.418を記録する。しかしロイドは翌1924年チームを離れアトランティックシティに復帰、既に40歳になっていたにもかかわらず、この年打率.444でリーグの首位打者のタイトルを獲得する。1926年からは再びニューヨークに移ってリンカーン・ジャイアンツの監督兼任選手となり、1928年に打率.564、11本塁打を記録した。

ロイドはまた、1907年シーズンにキューバを訪れて以後、ニグロリーグの試合がない冬場にはキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"に参加してプレーをしていた。キューバリーグでの経歴は1930年までの間で12シーズンにも及び、この間レオネス・デル・ハバナ(1912)とアラクラネス・デル・アルメンダレス(1924/25年,1925/26年)で計3回のリーグ制覇を経験している。ロイドの内野ゴロを捌く姿から、キューバでは"La Cuchara"(ラ・クチャラ:シャベルもしくはスプーンのこと)というニックネームで呼ばれていた。

1931年からアトランティックシティに監督兼任で復帰し、1932年のプレーを最後に現役を引退する。現役生活は26年にも及んだ。その間多くのチームを渡り歩いたが、後日ロイドはその理由を聞かれ、「金のあった所が私のプレーした所だよ」と答えたそうである。現役中の態度は非常に紳士的で口調も柔らかく、また酒も飲まなかったという。ロイドはニグロリーグの選手だけでなくメジャーリーガーからも賞賛を受け、ベーブ・ルースは彼を『人種を問わず最高の野球選手』と評価していた。

1965年にアトランティックシティで死去。1977年ニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。

記録・表彰等[編集]

出典・外部リンク[編集]