ジム・ラフィーバー

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ジム・ラフィーバー
Jim Lefebvre
George W Bush with Jim Lefebvre.jpg
ラフィーバーとブッシュ大統領
(2008年8月11日、北京)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州イングルウッド
生年月日 (1942-01-07) 1942年1月7日(77歳)
身長
体重
173 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 内野手
プロ入り 1962年
初出場 MLB / 1965年4月12日
NPB / 1973年4月14日
最終出場 MLB / 1972年9月19日
NPB / 1976年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ジェームズ・ケネス・ラフィーバーJames Kenneth "Jim" Lefebvre1942年1月7日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州イングルウッド出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

経歴[編集]

現役時代[編集]

モーニングサイド高校卒業後の1962年ロサンゼルス・ドジャースにバットボーイとして契約。1965年にメジャーデビューを果たし、4月12日メッツ戦(シェイ)で初出場。新人ながら二塁の定位置を獲得して157試合に出場し、打率.250・12本塁打・69打点を記録。同年のリーグ優勝に貢献して新人王を獲得し、ツインズとのワールドシリーズでは第1戦・第2戦(10月6日7日メトロポリタン)に6番・セカンドで出場して世界一に力を添えた。2年目の1966年には24本塁打を放ってリーグ2連覇に貢献し、オリオールズとのワールドシリーズでは10月5日の第1戦(ドジャー)でデーブ・マクナリーから本塁打を放つが、4戦全敗で2年連続世界一はならず。同年はオールスターゲームに控え選出選手として初出場を果たし、7番・セカンドで先発メンバーに名を連ねた。その後も1971年までレギュラーの座を守ったが、1972年は70試合出場で打率.201に終わり、シーズン終了後に解雇。1973年太平洋クラブライオンズとの熾烈な交渉合戦の末、ロッテオリオンズへ入団。日本では金田正一監督の下で主に一塁を守り、初年度にチームトップで自己最多の29本塁打を放つ。チームの主力打者として1974年のリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、ワールドシリーズ日本シリーズを制覇した最初の選手となった。阪急とのプレーオフでは10月9日の第3戦(宮城)で山田久志からタイムリーヒットを放ったほか、ウイニングボールをキャッチ。中日との日本シリーズでは全6戦に出場し、10月20日の第4戦(後楽園)では途中起用ながら3打数2安打2打点と活躍。一軍コーチ兼任となった1975年5月30日の太平洋戦(川崎)で東尾修安木祥二からパ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を達成したが、同年シーズン途中で外国人枠の関係と「体力の限界」を理由に現役を引退。コーチ専任となるが、金田に「現役復帰に色気を出した」と怒られて二軍コーチに降格。左肩の故障で苦しんでいたドラフト1位ルーキーの菊村徳用のためにアメリカから薬を取り寄せるなどして、面倒を見ていた。自身の後継と目されていた新外国人のラファエル・バチスタビル・マクナルティが期待外れに終わったことから、1976年に現役復帰。同年引退。

引退後[編集]

その後はロッテの一軍打撃コーチ兼スカウト(1977年)を務め、レロン・リーを自身の仲介で入団させる功績を残したほか、二軍戦にコーチ登録で出場。結果は2試合9打数2安打であった。1978年に帰国し、古巣・ドジャース傘下のルーキーリーグ監督に就任。シーズン終盤に急逝したジム・ギリアムの後任としてドジャースの打撃コーチとなり、1979年まで在籍。退団後はジャイアンツ1980年 - 1982年)→アスレチックス1987年 - 1988年, 1994年 - 1995年)→マリナーズ1989年 - 1991年)→カブス1992年 - 1993年)→ブルワーズ1998年 - 1999年)→シンシナティ・レッズ2002年)→中国代表(2002年 - 2008年)→パドレス2009年)で監督・コーチを歴任。1985年には3Aの監督としてチームを優勝に導き、マリナーズ監督時代には弱小チームの建て直しを図ることに成功。1991年には球団史上初のシーズン勝ち越しを決めたが、球団フロントとの軋轢により退団。その手腕を認められてカブスの監督に転身すると、ホワイトソックスからサミー・ソーサを獲得。1993年にソーサは球団の打者で初の30-30(33本塁打、36盗塁)を達成。1999年はシーズン途中からブルワーズで監督を務めた。2002年に中国代表監督に就任し、アジアシリーズ2005年 - 2007年)、WBC2006年)、北京オリンピック(2008年)でも指揮を執った。北京五輪では予選リーグで台湾を破る歴史的な1勝を挙げたが、8ヶ国中最下位に終わり、オリンピック後に退任。2008年オフにパドレスの打撃コーチに就任したが、2009年シーズン途中で解雇された[1]

息子のライアン・ラフィーバーも元プロ野球選手(外野手)。1993年にクリーブランド・インディアンスからドラフト27巡目で指名されマイナーリーグでプレー。現在はスポーツキャスターとして活動している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1965 LAD 157 631 544 57 136 21 4 12 201 69 3 5 10 4 71 2 7 92 8 .250 .342 .369 .711
1966 152 610 544 69 149 23 3 24 250 74 1 1 10 5 48 3 6 72 10 .274 .337 .460 .796
1967 136 553 494 51 129 18 5 8 181 50 1 5 7 5 44 3 11 64 10 .261 .332 .366 .699
1968 84 317 286 23 69 12 1 5 98 31 0 0 1 3 26 1 4 55 3 .241 .310 .343 .653
1969 95 330 275 29 65 15 2 4 96 44 2 1 3 3 48 1 10 37 8 .236 .366 .349 .715
1970 109 351 314 33 79 15 1 4 108 44 1 1 4 3 29 1 2 42 7 .252 .316 .344 .660
1971 119 437 388 40 95 14 2 12 149 68 0 2 4 4 39 2 6 55 15 .245 .320 .384 .704
1972 70 188 169 11 34 8 0 5 57 24 0 0 0 2 17 0 6 30 3 .201 .294 .337 .631
1973 ロッテ 111 442 400 50 106 12 2 29 209 63 1 2 8 2 27 0 5 60 5 .265 .319 .523 .842
1974 82 310 279 37 79 12 2 14 137 52 1 4 3 0 25 3 3 32 3 .283 .349 .491 .840
1975 47 168 151 13 39 5 0 9 71 24 1 0 3 1 10 3 3 19 2 .258 .317 .470 .787
1976 90 297 268 22 65 8 0 8 97 37 2 2 1 3 23 2 2 36 7 .243 .307 .362 .669
MLB:8年 922 3417 3014 313 756 126 18 74 1140 404 8 15 39 29 322 13 52 447 64 .251 .331 .378 .709
NPB:4年 330 1217 1098 122 289 37 4 60 514 176 5 8 15 6 85 8 13 147 17 .263 .324 .468 .792

表彰 [編集]

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 5 (1965年 - 1972年, 1976年, 1980年 - 1982年, 1987年 - 1993年)
  • 1 (1973年 - 1975年途中)
  • 88 (1975年途中 - 同年終了)
  • 85 (1977年)
  • 45 (1978年 - 1979年)
  • 6 (1994年)
  • 11 (1995年)
  • 29 (1998年 - 1999年)
  • 4 (2002年)

脚注[編集]

  1. ^ 後任は同じく日本のロッテでプレーしたランディ・レディ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]



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