シャスポー銃

Chassepot
シャスポー銃と銃剣
Chassepot
種類 歩兵銃
製造国 フランスの旗 フランス帝国
設計・製造 アントワーヌ・アルフォンス・シャスポーサン=テティエンヌ造兵廠など加筆
仕様
種別 ボルトアクション小銃
口径 .433口径 (11mm)
銃身長 795mm
使用弾薬 紙薬莢鉛弾25g(386グレイン)、黒色火薬5.6g
装弾数 1発
作動方式 ボルトアクション
全長 1.31m(銃剣無)、1.88m(銃剣付)
重量 4,635g
銃口初速 410 m/s
最大射程 1200 - 1700m ※長銃身型
歴史 
設計年 1866年
製造期間 1867年 - 1874年
配備期間 1867年 - 1874年
配備先 フランス軍
関連戦争・紛争 普仏戦争
製造数 1,000,000丁以上
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シャスポー銃(シャスポーじゅう、Chassepot、正式にはFusil modèle 1866)は、1870-1871年の普仏戦争で使用されたフランス軍のボルトアクション後装式歩兵銃である。

概要[編集]

軍用ライフルの歴史において大きな進歩を残した先発のドライゼ銃を参考に、第二帝政を象徴する先進的な技術を用いて製造され、前装式ミニエー銃を旧式化させて取って替わったが、紙製薬莢を使用する技術的な限界のために金属薬莢の登場で旧式化し、金属薬莢を使用するグラース銃 (Fusil Gras mle 1874) へ改造された。

幕末の日本においても、シャスポー銃が(旧日本軍の記録には“シヤスポー”と記されている)ナポレオン3世から徳川幕府に贈呈され、当時最新鋭の銃器とされた経緯や、金属薬莢式へ改造されたシャスポー/グラース銃を国産化する計画が進められた結果、日本初の国産小銃となった13年式村田銃が誕生した事などから、倒幕派の主力だったエンフィールド銃スナイドル銃と並んで、日本とも縁の深い銃である。

製造はサン=テティエンヌシャテルロー英語版及びチュール英語版の各造兵廠で行われた。また、ライセンス生産でイギリスバーミンガム)、ベルギーリエージュ)、イタリア(プラセンティア及びブレシア)でも多数が製造された。1870年の時点でフランス陸軍が調達可能だった数はおよそ120万丁にのぼった。生産は普仏戦争の4年後、1875年の2月に終了した。

歴史[編集]

シャスポー銃を持ったフランス兵: 普仏戦争当時

銃の名は発明者であるアントワーヌ・アルフォンス・シャスポー (1833 - 1905) に由来する。シャスポーは1857年からさまざまな後装式銃の試作を行っていたが、シャスポー銃の最初の試作銃が完成したのは1866年の8月頃で、1866年普墺戦争で後装式のドライゼ銃を使用したプロイセン側が大勝した事に危機感を覚えたフランス陸軍によって、急遽制式ライフルとして採用された。初めて姿を現したのは翌1867年11月3日のメンターナの戦いにおいて、プロイセンと同盟していたガリバルディの兵の前であった。戦果はすぐさまフランス議会に報告された。それは"Les Chassepots ont fait merveille!"、すなわち「シャスポー銃は見事にやってくれました!」というものであった。

普仏戦争 (1870 - 1871) においては、ガスの閉鎖性に優れるシャスポー銃は同じ後装式であるプロイセン軍のドライゼ銃に対して倍の射程を誇ったが、フランスより巧みに新技術(鉄道電信)と組織(参謀本部・諜報部)を活用し、周到な戦争準備を進めていたプロイセン軍の前にフランス軍は大敗を喫し、第二帝政自体も崩壊した。

皮肉にも、シャスポー銃が最も活躍したのは、普仏戦争直後のパリ・コミューン鎮圧に際して、仏軍外人部隊を中心とするヴェルサイユ軍によって使用され、3万人にも上るフランス人が殺戮・処刑された局面において、という不名誉な歴史を残す結果となった。

ドライゼ銃からの改良点[編集]

ミトラィユーズ斉発砲陣地を守備するシャスポー銃を装備した仏軍外人部隊セネガル兵と、ドライゼ銃を持って突撃するプロイセン第13猟兵大隊の兵士: 仏軍の敗北後に外人部隊兵士達の銃口はパリ市民へ向けられた。
普仏戦争を描いた独連邦軍事博物館所蔵絵画

構造[編集]

普仏戦争時のフランス軍部隊: シャスポー銃のボルトハンドルが確認できる: 1870年8月: Metzにて
機関部とカートリッジ
発射前/左と発射後/右のボルト先端部ゴムリングによる密閉の仕組み

ドライゼ銃がガス漏れを抑えるために当時の前装銃よりも弱装の弾薬を使用して、弾道特性と有効射程が犠牲にされていたのに比して、ガス漏れを完全に防いだシャスポー銃は口径を11mm(ドライゼ銃は15.4mm)に絞りつつ、火薬量を増やして410m/sまで初速を速め(ドライゼ銃は300m/s)、低伸な弾道を実現して1,200mもの最大射程[1](ドライゼ銃は600m)を得ており、当時の欧州各国軍が使用した軍用銃の中でも飛び抜けて高性能な銃だった。

シャスポー銃は先発のドライゼ銃を参考としたボルトによって銃身後端の薬室が閉鎖されるボルトアクション閉鎖機構を持ち、その基本構造はドライゼ銃の亜流と言って良い。また、ボルトによる閉鎖・撃発機構やガス漏れ防止のデザインは、先行したドライゼ銃の改良型であるJoseph DorschやKarl August Luckによる改良型に酷似しており、先行した改良型同様にボルト先端が銃身(薬室)後端内部に挿入される形状へ変更されていた。

しかし、ドライゼ銃および先行改良型が発射時のガス漏れを完全には克服できなかったのに対して、シャスポー銃ではボルト先端のガス漏れ防止用ゴムリングをボルト外周まで大型化し、薬室内の火薬の燃焼に直接曝される部分には大型のボルトヘッドを取り付けて焼損防止が図られており、発射ガスの完全な密閉に成功している。

当時のゴムは、加硫法の発明で工業製品への利用が可能となったばかりの貴重かつ高価な新素材だったが、1861年にコーチシナを獲得し、熱帯地域に海外植民地を得たフランスは、プランテーションでゴムを強制栽培させ、軍需品として安定供給できる数少ない国のひとつだった事が、ゴムの使用を前提とするシャスポー銃の配備を可能にしていた。

シャスポー銃のボルトは、先端とボルト本体が分離パーツとなっており、その間に当時の新素材だったゴムのリングが挟まれた構造となっている。

参照: 分解されたシャスポー銃のボルト 右端のコマ状の部品がボルト先端とゴムリングである。

参照:シャスポー銃用ゴムリング(生ゴム製)

発射時の圧力でボルト先端が後方に押されると、ゴムのリングが押しつぶされて外径が膨張しながら薬室内壁に密着し、高温・高圧のガスが射手の手や顔に吹き付けて火傷を負わせるのを防ぐ。火薬が燃え尽きてボルト先端にかかる圧力が低下すると、ゴムのリングはもとの外径に戻って密着は解かれるため、射手は困難なくボルトを操作できた。

また、密閉用のゴムリングは発射数を重ねるにつれて、焼損して徐々に密閉が不十分になるが、ガス漏れに気付いた兵士自身の手によって戦場で容易に交換できた。

ガス漏れ防止機構以外での構造上の違いは、ドライゼ銃がボルトを引いて薬室を開放した後にボルトを戻して閉鎖する際に撃針のスプリングにテンションが掛かる(コックオン・クロージング方式)のに対して、シャスポー銃はボルト後端に撃鉄を兼ねたコッキングピースが露出しており、薬室開放に当たっては親指でコッキングピースを引いて撃針のスプリングにテンションを掛けてからボルトを操作して開放する必要があった。コッキングピースを直接引いてコッキングする手法は、その後の多くのボルトアクションにも引き継がれた機能であるが、ボルト開放とコッキングの操作が別である事は速射時の操作性に難があったようで、後の改良型であるグラース銃ではボルトの引き起こしとコッキングが連動して動作する方式(コックオン・オープニング方式)に改められた。

弾薬[編集]

紙製薬莢の内部構造
左 : ドライゼ
右 : シャスポー
紫色の部分が銅製のキャップに詰められた雷汞
雷管の開口部が現代薬莢とは逆向きである点に注意
(左から)22LR弾、シャスポー用紙製薬莢、グラース銃用11mmx59.5R弾
シャスポー銃用紙製薬莢の寸法図: 1876年
インドシナのフランス海兵隊員: 1888年
トンキン地方の黒旗軍兵士: 1885年

シャスポー銃の弾薬は発射時に燃え尽きてしまう紙製薬莢であり、ドライゼ銃の弾薬と基本構造は同じである。11mm径の円筒形丸頭鉛弾を使用し、その形状はドライゼ銃の紙製薬莢より細く長い。

ドライゼ銃の弾薬では、弾丸の後ろに雷管が装着されているため、着火させる際に紙製薬莢の後端を突き破る長い釘状の撃針(ドライゼ針)が、火薬の燃焼に直接曝され焼損して折れ易くなる欠点があったが、シャスポー銃の弾薬では雷管の位置を紙製薬莢の後端に変更して、撃針(シャスポー針)が高熱に曝される部分を短くする事で焼損を回避していた。

撃発時には、撃針(シャスポー針)が紙製薬莢の後端にある厚紙を突き破り、アンビル(発火金・はっかがね)の役割を果たす銅製キャップと撃針に挟まれた雷汞が着火し、周囲の黒色火薬を燃焼させる構成となっていた。

ドライゼ銃の弾薬では弾丸の後ろという比較的しっかりした場所に雷管が固定されていたのに対して、シャスポー銃の弾薬では雷管を厚紙に糊で貼るだけという、極めて脆弱な固定方法が採られていたため、不発が増える原因となった。

参照:紙製薬莢の後端部: 厚紙に貼り付けられた雷管(復元品)

このような脆弱な固定方法が必要になった理由は、シャスポー銃の弾薬は、ドライゼ銃の弾薬やボクサー式・ベルダン式などの現代薬莢とは異なり、雷管の開口部が黒色火薬とは反対側に向いていたため、雷管からの発火を黒色火薬に伝達する効率が悪いという問題があり、撃針(シャスポー針)で雷管を黒色火薬の中に無理やり押し込みながら着火させないと、うまく黒色火薬に二次着火させられなかったためである。

雷管の固定が脆弱であったため、撃針に突かれても着火しなかった雷管は、厚紙から脱落してしまって二度と着火させられなくなった。また、乾燥したフランス本国ではさして問題にならなかった湿気の影響で、糊がポロポロと剥がれて雷管への着火そのものが難しくなったり、雷管が着火しても黒色火薬に着火しないなど、シャスポー銃の弾薬にはアイデア倒れとも言うべき構造的欠陥があった(フランス製品の湿気への無頓着さは、現代でもブランド品バッグ内部に発生する“べたつき”や“カビの繁殖”などの現象からも端的に見る事ができる)。

特に、高温多湿のインドシナでは湿気と雨にまつわるトラブルが多発した。1873年にはトンキン(ベトナム北部)で紅河上流への遡上ルートを調査中だったフランス海兵隊が、劉永福率いる黒旗軍と遭遇して攻撃を受けた際に、弾薬が湿気ったシャスポー銃が使用できずに銃剣のみで戦う羽目となり、旧式の火縄式や雷管式の前装銃を装備して、湿気の影響をさして受けずに着実に射撃が出来た黒旗軍によって、一方的に壊滅させられるという悲劇まで発生した。

ドライゼ銃とシャスポー銃に共通した問題として、紙製薬莢と黒色火薬を使うため、連射の後には燃え滓とススが薬室やボルト先端にこびりつき、燃え残った雷管の銅製キャップがボルトの隙間にひっかかって、スムーズにボルトを操作できなくなるという問題もあった。これらの問題が完全に解決されるのは、金属薬莢と無煙火薬を使用する弾薬が主流となる19世紀末まで待たなければならなかった。

参照: 発射後にボルト先端部とゴムリングにこびりついた黒色火薬のスス

また、発射時に燃え尽きてしまう紙製薬莢を使う前提から、いったん装填してしまった紙製薬莢を不発時などに強制的に引き出す排莢機構(抽筒子・エキストラクター)が存在せず、金属薬莢を使用し排莢機構を有するスナイドル銃のような銃に比べて、不発時の信頼性で劣るという欠点もあった。

なお、無薬莢式銃器の強制排莢は、決定的な解決策は今もって存在していない「古くて新しい」問題である。

金属薬莢式への改造[編集]

フランス最大のライバルだったイギリスは、シャスポー銃が採用される以前から金属薬莢の利用を進めており、普仏戦争に勝利したドイツ帝国も国内で供給できる金属材料だけで製造できる金属薬莢を使用するモーゼル1871ライフルを採用すると、敗戦国のフランスもこれに追随してシャスポー銃を金属薬莢式に改造するための11mmx59.5R (11mm French Gras) 弾を採用し、グラース銃 (fusil Modèle 1866/74) として採用した。グラース銃には弾倉を追加して連発式としたタイプ[1]も少数製造された事が確認されている。

紙製薬莢を使用する最後の軍用銃としては8年余の短命に終わったシャスポー銃だったが、グラース銃に改造されて以降は1874年から1945年までの70年間に渡ってフランス本国と植民地で使用され続け、シャスポー銃の基本構造がいかに先進的で優れていたかを証明している。

なおシャスポー銃に限らず、当時のフランス製銃器には白みがき(鋼を酸化皮膜(=いわゆる黒錆)で保護しない)という共通した表面処理が行われていた。これは見た目の優美さや威容はともかく、戦場ではキラキラと輝きすぎて敵軍に発見されやすいうえ、強力な腐食力を持つ黒色火薬や苛酷な自然環境ですぐに発生してしまう赤錆による劣化との闘いをフランス軍の兵士たちは強いられ続けた。

日本におけるシャスポー銃[編集]

慶応2年(1866年)12月、ナポレオン3世は2個連隊分(1800丁とも2000丁とも)のシャスポー銃を江戸幕府に無償提供している。また、幕府もこの銃を10000丁ほど注文している[2]。当時最新鋭のこの武器を大名旗本に売り込むためであった。

同時期にイギリスで採用されたスナイドル銃戊辰戦争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、ライバルになった。戊辰戦争期にはスナイドル銃の数は少なかったが[3]、スナイドル銃は簡単な加工で前装銃を後装式に改造できたため、既に多数輸入されていたエンフィールド銃を元に日本国内でも改造する事が可能(事実、当時の鉄砲鍛冶は旧々式化していた数百年前の種子島式火縄銃までも後装銃に改造している)であり、完成度の高いボクサーパトロンは防水・防湿性に優れた密閉構造だったため、多湿・多雨な日本や当時のイギリス植民地であった南・東南アジアでも問題なく着火する信頼性を有していた。

これに対してシャスポー銃は、フランス語通詞が少なかったために教範(取扱・運用説明書)の日本語訳すら完了していなかった。さらに遠く離れたフランス本国で製造されていた専用弾薬の供給も困難であり、薬莢の構造と日本の気候の相性が悪く不発が多かったこともあって全く有効に運用されず、一説には江戸城開城の際に手付かずの状態で蔵に残されていたとも言われている[4]

大鳥圭介率いる幕府陸軍の精鋭部隊、伝習隊がシャスポー銃を使用していたという記述が散見されるが、これを真っ向から否定する研究者もいる[5]。もっとも、雨が多く湿度の高い日本で紙製薬莢の扱いに苦労したり、不足した専用弾薬を大鳥が日本で作らせたがうまくいかなかった等の記録が残っていることから、伝習隊がシャスポー銃・ドライゼ銃といった紙製薬莢を使う後装式銃を一時期であれ使用していたことは確かなようである。

また、幕府とフランスの関係以外に、先述のファーブル・ブランド商社を経由して、独自にシャスポー銃を1,600丁の購入を計画していた藩も存在していた[6]

明治新政府が日本陸軍を創建した後、紙製薬莢の問題とゴム部品の調達難から信頼性に欠けたシャスポー銃は主力小銃としては使用されなかったが、明治5年に紙製薬莢の製造が行われていた記録[7]があり、1874年(明治7年)頃からシャスポー銃のボルトに嵌めるゴム部品の品質や購入についての記録[8][9][10]が散見されるようになる。この時期は原産国のフランスでシャスポー銃から金属薬莢式のグラース銃への改造が行われており、一旦は将来の統一装備として位置付け[11]られ、日本陸軍がゴムの焼損に手を焼きながらもシャスポー銃を使用していた状況[12]が記録されている。

また、明治10年(1877年西南戦争で激戦が繰り広げられていた時期には、村田経芳少佐がドイツの企業に依頼してシャスポー銃を金属薬莢式に改造する計画を進めていた事[13]も記録されている。

国産小銃となった村田銃を試作する過程では、シャスポー銃が金属薬莢用に改造されたグラース銃が参考とされて13年式村田銃が完成しており、村田銃はシャスポー銃から多くの構造を継承[2]しており、村田銃採用前後の時期には、村田銃の製造と並行してシャスポー銃も金属薬莢使用へ改造[14]され、これは“シヤスポー改造村田銃”[15]と呼ばれていた事も記録されており、十三年式村田銃はシャスポー/グラース銃の国産化計画の延長で製造された事が理解できる。

脚注・出典[編集]

  1. ^ 最大照尺距離=1200 - 1550m。金属薬莢使用に改造した物は1550m。 兵器廠保管参考兵器沿革書 佐山二郎 日露戦争の兵器に所収
  2. ^ 石井孝 増訂 明治維新の国際的環境 711-713頁
  3. ^ 幕末軍事史研究会編『武器と防具 幕末編』新紀元社、2008年。26頁。
  4. ^ 明治9年2月の段階で陸軍砲兵本廠で所蔵するシャスポー銃で修理手入を要する物だけで7743挺とある。 兵器廠保管参考兵器沿革書
  5. ^ 日本でのシャスポー銃-西南戦争と指導団 竹内力雄 西南戦争之記録第3号所収
  6. ^ 陸軍省大日記 「大日記 壬申11月 諸省府県之部 庚」
    陸軍省 明治5年11月
    「壬申十一月三日 大蔵省 陸軍省 第一千〇六十五号 @高@藩分瑞西「フハーブル」@致注文@然「シヤスホール」銃@引渡之義ニ付御回答之趣委細致承志然右@此段〜「シヤスホール」銃千六百挺其外胴乱並付属品〜」
    注: “瑞西「フハーブル」”とは、横浜のファーブルブランド商社と思われる。
  7. ^ 陸軍省大日記 明治5年 「大日記 壬申3月 省中の部 辛」
    陸軍省 明治5年3月
    「沼津出張 間宮兵学大助教 右之者御用有之候間早々上京有様可分相成候也壬申三月二十八日 山県陸軍大輔 兵学寮 第八百七十九号 記 一金百両也 小銃弾函弐百個 但シ壱函ニ付金弐歩 寸法 堅壱尺五寸壱歩 横六七分 深サ四寸六分 木厚七分 但シ鉄釘打ニ付中函亜鉛板入子外函角ニ里ペッキ塗リ 右ハシャスポー実包弾格護用ニ付当司ニオイテ出来為致度有之御検印被下度候也 申出之通 三月二十六日」
  8. ^ 陸軍省大日記 「大日記 諸寮司伺届弁諸達 1月金 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年1月
    「山県陸軍卿 第百三十@号 一ゴム 三萬発 但シヤスホー@用之分 右@@品相撰@@司@入@可取計此旨相達候事 一月二十四日 陸軍卿山県有朋 造兵司 第百三十二号 @@出張所事務@ 少佐長坂@徳 右@務之儀出張所次官@場所@専務トス」
  9. ^ 陸軍省大日記 「大日記 諸寮司伺届并諸達 3月金 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年3月
    「第六百三十二号 シヤスポー銃用@摸蓋五百個@ @代価@@ニ付金四@八銭三厘三毛 右@同銃修復ニ@ヘ当テ買入@@此段相伺候也 七年三月五日 陸軍大佐原田一道 西@陸軍大輔」
  10. ^ 陸軍省大日記 明治7年 卿官房 12月
    兵学寮 第三局
    「兵学寮 本年十月十九日ハ@第五千六十五号@@シヤスボー銃ゴム般来ニ付可@試験上タ相達@@@@@村田少佐右円流政正之ヲ以更ニ可改試検此上@相達之事 第三局 別紙之通兵学寮相達候条ニ@@@@@会試検可改此上@相返@」
  11. ^ 公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年〜明治八年・第十一巻・明治四年〜明治八年
    明治7年5月15日 太政官 陸軍省
    「東京鎮台歩工兵携帯銃シャスポー製作未整ヲ以テ姑クスナイトル銃ヲ以テ備付ト為ス 達東京鎮台 其台歩工@兵携帯銃シャスポート相定候ニ付テハ春@於造兵司@修理@店候@@@他@至為製作ノ品多分有之ヨリ右銃小ノ半ハ出来ニ至兼@付@延ニ及ヒ不都合ニ付当分「スナイトル」銃ノ以テ備付候条此旨相達候事 但「スナイトル」銃@@属品不足有之一時悉旨@付@難相成漸々取揃相渡一筈@候事衆規@鑑」
  12. ^ 陸軍省大日記 明治7年 「大日記 第3号 9月より利 参謀局」
    陸軍省 明治7年9月
    「第三百五十二号 滋@シヤスポー銃附ゴム不宜已ニ改造ニ運ヒニモ相成居候処今般最上@ゴム 来度ヘニ付テハ右ゴム相用@改造ニハ及@度候存ニ願テハ戸山学校ニ於テ精ヘ誠検ヘ上可否取扱@度其@兵学案及ヒ造兵司@御達相成度此段相伺候也 参謀局長代理」
  13. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月7日
    「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」
  14. ^ 陸軍省大日記 明治14年 「大日記 局部 9月水 陸軍省総務局」
    陸軍省 明治14年9月
    「二第@@二七号 @@第四十八号 当十四年度中村田銃其外製造@@@達相成度義伺 総水局第六〇三号 村田銃 同空@弾丸共 シヤスポー銃改造 右@@田銃其外製造之義予@東京砲兵工廠@年度之義ハ@@之通製造取計@達@相添此段相伺候也」
  15. ^ 陸軍省大日記 明治22年 「貳大日記 8月」
    監軍伯爵 大山巖 明治22年8月12日
    「総監第四〇六号 弐第一六二五号 監軍部 士官学校ヘ改造村田銃廃銃渡方之件 議案 明治二十二年八月十二日 甲第七一六号照会士官学校生徒銃槍試合演習用トシテシアスポー改造村田銃廃銃渡方之件承認候也 陸軍省送達 送乙第二四三二号 砲兵第一方面ヘ在案 @@弐第一六二五号監軍部照会之趣承認候条渡方取計フヘシ 士官学校生徒銃槍試合演習用トシテシアスポー改造村田銃廃銃渡方相成及該校長伺出候旨将校学校監具申候条渡方相成度此段及照会候也 明治二十二年六月二十五日 監軍伯爵 大山巖 陸軍大臣伯爵 大山巖殿 シヤスポー改造村田銃廃銃御渡之義伺 シヤスポー改造村田銃廃銃 四十挺 右当校生徒銃鎗仕合演習用トシテ御渡相成度此段相伺候也」

参考文献[編集]

参照資料[編集]

  • 国立公文書館収蔵資料
  • 外務省外交史料館収蔵資料
  • 防衛省防衛研究所収蔵資料
  • 石井孝 増訂 明治維新の国際的環境 吉川弘文館 1992年 ISBN 978-4642035071
  • 山田千秋 日本軍制の起源とドイツ 原書房 1996年 ISBN 4-562-02772-X
  • 佐山二郎 日露戦争の兵器―付・兵器廠保管参考兵器沿革書 光人社NF文庫 2005年 ISBN 978-4769824558
  • 竹内力雄 日本でのシャスポー銃-西南戦争と教導団- 西南戦争之記録第三号 西南戦争を記録する会 2005年 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]