サンフレッチェ広島F.C

サンフレッチェ広島F.C
原語表記 サンフレッチェ広島F.C[1]
呼称 サンフレッチェ広島[2]
クラブカラー    [2]
創設年 1938年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン J1リーグ
クラブライセンス J1
ホームタウン 広島県広島市[2]
ホームスタジアム
エディオンピースウイング広島
収容人数 28,520
運営法人 株式会社サンフレッチェ広島[2]
代表者 日本の旗 仙田信吾[2]
監督 ドイツの旗 ミヒャエル・スキッベ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
サンフレッチェ広島F.C
サッカー
(男子)
サッカー
(女子)
サッカー
(アカデミー)
異競技連携
画像外部リンク
エンブレム
en:file:SanfrecceHiroshima.png現エンブレム
en:file:SanfreeceHiroshima.png旧エンブレム

サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー、: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、日本広島県広島市をホームタウンとする[2]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称はサンフレッチェ広島(サンフレッチェひろしま)。

概要[編集]

株式会社サンフレッチェ広島[3]
Sanfrecce Hiroshima FC Co., Ltd.[注 1]
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 S.FC
本社所在地 730-0051
広島市中区大手町1-4-14上田ビル2F[2][3]
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
法人番号 4240001004278 ウィキデータを編集
事業内容 サッカー事業[3]
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 仙田信吾
資本金 2億2000万円[7]
売上高 34億2,400万円(2018年1月期)[7]
営業利益 ▲1,400万円 (2018年1月期)[7]
経常利益 ▲100万円 (2018年1月期)[7]
純利益 100万円 (2018年1月期)[7]
純資産 12億1,100万円 (2018年1月期)[7]
総資産 16億2,500万円 (2018年1月期)[7]
従業員数 48人 (2021年12月現在)[3]
決算期 1月期
主要株主 エディオン 46.96%
マツダ 16.67%
中国電力 3.42%
広島銀行 2.99%
広島県 2.50%
広島市 2.50%
など、合計64株主[8]
関係する人物 竹下虎之助(元広島県知事
古田徳昌(マツダ7代目社長)
久保允誉(旧デオデオ2代目社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。
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1938年(昭和13年)に創設されたマツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブを前身とする。日本のサッカー1部リーグ(日本サッカーリーグJ1リーグの優勝回数は8度を数え、これは鹿島アントラーズと並び国内最多(日本の全国サッカーリーグ歴代優勝チーム (1部))。

運営会社「株式会社サンフレッチェ広島」は1992年4月設立。これまで社長はマツダ系か家電量販店エディオン(旧デオデオ)系の人物が就任していたが、2018年から就任した山本拓也はナイキジャパン出身で、2020年に就任した仙田信吾は中国放送出身(2019年はRCCフロンティア会長)[9] と外部からの招聘が2人続いている。なお2社の有価証券報告書によれば、(株)サンフレッチェ広島は双方ともに「関連会社」にあたる。

クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなむ[2]

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ」と[2]、サンチェの彼女(設定時。現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」[2]

エンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)[10]

ホームスタジアムはエディオンピースウイング広島[11]、練習場は安芸高田市サッカー公園[2]。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。他に、女子チームとしてWEリーグ所属のサンフレッチェ広島レジーナを保有する。

グッズはエディオンピースウイング広島バックスタンド2階にあるピースウイングオフィシャルストア、あるいは サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ で購入できる。ワンタッチパス対応ICチケットはPASPY一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記#関連情報参照)。

歴史[編集]

前史(マツダ時代)[編集]

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注 2]1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した[12][13]

低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足[注 3]と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った[12]。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた[14]サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[15][16]。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている[17][18]

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[13][19]

Jリーグ創設前夜[編集]

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった[20][21]

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[22](チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力広島銀行など59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階[22] に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[21]、地元企業を中心に出資団体を募った[20]

また、Jリーグ開幕に向けマツダSCは東欧北欧へ遠征し当地のクラブチームと強化試合を行った。そこでハルムスタッズBK監督だったスチュワート・バクスターサッカーチェコスロバキア代表選手達と出会い、スカウトすることになる[13][23]

1992年 - 1994年(バクスター時代)[編集]

バクスター

1992年、バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

クラブにおけるJリーグ初ゴールは風間によるものであり、これはJリーグにおける日本人初ゴールでもある[24]

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍し、1994年にサントリーシリーズで初優勝を果たした[23][25]

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保ち裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった[26]。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神が魅力のチームだった[13][25]

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり[13]、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり[18]トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下[23] していった。その結果、JリーグチャンピオンシップではV川崎に敗戦し、年間優勝には届かなかった。

バクスターは得点力アップのためミカエル・ラウドルップ補強を要請したものの、クラブは高い年俸および移籍金がかかるため難色を示し、結果クラブはバクスターを諦めた[18][23]

1995年 - 1996年(ヤンセン時代)[編集]

ヤンセン

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦[13]オランダ人のビム・ヤンセンが監督に就任した[18]。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視[27] し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した[28]。しかしあまりにも変わりすぎたためほとんどの選手はついていけず、リーグ年間52試合という過酷な日程の中、主力の高木・森保はケガから満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った[13][27][28]。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

前年度優勝したことにより総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出した[13][18]。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った[29]

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した[30]。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

クラブ側は契約延長を望んだものの、ヤンセンは自身の了解なく次々と選手を放出するクラブに嫌気がさし退団した[13]

1997年 - 2000年(トムソン時代)[編集]

1996年ごろのJリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め[31]、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた[18]1997年バルセロナ五輪で名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが監督就任する[32]

同年末、クラブ経営難はピークに達し、筆頭株主でありメインスポンサーであるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中でありフォード自体も資金補充には否定的であったことから、クラブは経営危機に陥る[31][33][34]。経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった[22][35][36]。結果、高木・森保・路木(以上1997年末)、柳本(1998年末)と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの[36]、森保だけが完全から期限付き移籍に変わった[37] のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった[29]

そこへ、官民のトップで経営改善の話し合いが行われ[31]、その中で家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した[36]。久保社長のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園(現安芸高田市サッカー公園)完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

トムソン就任当初は主力にケガ人が続出し、更に財政難からまともに戦力が整わなかったため、5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開した。オズワルド・アルディレス(当時清水監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」[38] と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた[36]

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成[39]。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破[39][40]。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ[39]。翌2000年、さらなる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた[41][42]。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった[42]

2001年(ヴァレリー時代)[編集]

ヴァレリー

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブは今後地方のクラブが生き残る手段として、アカデミー含めたクラブ全体のサッカースタイルをより攻撃的で魅力的なものへと目指すことを決め、以降攻撃趣向のある監督選びをすることになる[43]

その中で、韓国Kリーグでその攻撃サッカーが評判になったロシアヴァレリー・ニポムニシ[44] を監督招聘する[43]。当時Jリーグで唯一3トップを採用し[45]、久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った[46][47]

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した[43]。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功する。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した1994年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった[48][49]

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任[注 4]した[43][53]。この際、ヴァレリーが新監督に推薦[54] したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった[55]

2002年(ガジエフ・木村時代)[編集]

ガジエフ

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」と放出した[55]。戦術が定まらずチームはバラバラのまま[56]、更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい[57]、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村のケガで急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。同年7月、ガジエフは自身の親族の急病を理由[58] に帰国、事実上解任となった。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった[54][56]

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格するかたちで監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった[59]。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷する[60]。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になる[61]。しかし結果的には勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任した[62]。後任に小野が監督に昇格し、「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という「3ヵ年計画」をうちだした[63]。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ[64]、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治ゼネラルマネージャーに就任した。

2003年 - 2006年(小野 / 小野・ペトロヴィッチ時代)[編集]

小野が監督に就任した以降の約3年間、「3年でJ1優勝争い」を合言葉にチームは積極的な戦力入れ替えを展開する。J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本主税の二人は移籍、古くからチームを支えた上村健一や桑原裕義・高橋泰などベテランや中堅の選手も多数放出する。その代わりに、佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たちや、他で実績のある小村徳男戸田和幸盛田剛平らのベテラン、セザール・サンパイオリカルドベットジニーニョウェズレイブラジル人達を補強し、同時期に台頭した広島ユース[65] から髙萩洋次郎前田俊介髙柳一誠などを高校生Jリーガーとして起用し、森崎兄弟と駒野を中心としたチーム作りを行った。

2003年(J2)

2003年のJ2では、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走したが、次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、1年でJ1昇格を決める(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)[66][67]

2004年

J1復帰初年のこの年、チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまう[68][69]

2005年

前年から起用してきた若手に補強組が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上するも、その後は下田崇の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた[70][71]。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁を誇り[72]、佐藤寿は久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取りJ1日本人得点王にも輝いている[73]

同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年
画像外部リンク
ペトロヴィッチ
en:file:Sanfrecce hiroshima-20100620-michael-petrovic-1.jpg

より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した[74][75]。3年半に渡る小野体制はこれを以て終焉を迎えた。

後任に、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任する[74][76]。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した[74][77][78]

新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人(ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点)で叩き出した。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した[74][78][79]

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。

2007年 - 2011年(ペトロヴィッチ時代)[編集]

2007年

前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった[80]。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった[81]。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権[注 5]の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、DFラインの選手が途中まで定まらなかったこともあり守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した[83][84]

これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定する[85]。また、入れ替え戦終了直後には「J2降格なら代表選考を優先して退団やむなし」と目されていた佐藤寿が「1年でJ1に帰ろう」とサポーターの前で涙ながらに頭を下げ、その後届いたJ1クラブからのオファーを全て断り残留した。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した[83] が終盤の9連勝で浦和を抜いて逆転優勝を果たした鹿島に0-2で敗れて準優勝。C大阪(1994年、2001年、2003年)を抜いて天皇杯4連敗となった。

クラブはJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した[82]。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった[86]

2010年ナビスコカップ決勝時のサンフレッチェ広島サポーターによるコレオグラフィー
2008年(J2)

ウェズレイ駒野友一は退団したものの、佐藤寿ら他の選手はチームに残留。続投するペトロヴィッチを含め、戦力の大半を維持して開幕を迎える。また、横浜FCを退団していた久保竜彦が6年ぶりに復帰した。

3月のゼロックス・スーパーカップ[注 6]で、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。リーグ戦でも勢いが留まることはなく、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した[85][87]

2008年以降のペトロヴィッチ時代の広島は、主力に常にケガ人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなったものの、戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・髙萩洋次郎森脇良太佐藤昭大槙野智章中林洋次など若手の台頭[85][87] や、「ミシャ式」と称される独特のサッカースタイルを確立するきっかけとなった。さらに、それまでJリーグ独自で規定されていた移籍金制度が2009年をもって撤廃されたこと[88] がチームに大きく影響した。選手はチームとの契約期間満了により移籍金ゼロで移籍できることから選手の移動が活発となり、北京五輪U-23代表(西川周作水本裕貴李忠成)や、ペトロヴィッチと同様の戦術に慣れていたオシムチルドレン[89]中島浩司山岸智・水本など)を移籍金ゼロあるいは従来より安い移籍金で獲得し選手層の厚みにつなげる一方で、柏木や槙野・李や佐藤昭や中林は移籍していった。外国人選手はそれまでのブラジル路線から、ミハエル・ミキッチダビド・ムジリなど東ヨーロッパ系の選手を中心に獲得するようになった。

2009年

J1復帰の2009年、熟成したチーム戦術で躍進し、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。また天皇杯の結果により繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)への出場権[注 7]を獲得し、前身大会を含めればアジアクラブ選手権1969出場以来41年ぶり2回目、チャンピオンズリーグ発足以後では初出場となった[90][91]

2009年のJ1復帰後3年連続でJ1リーグ7位以内に入り、タイトル争いに絡む成績を残したものの、リーグ戦やACL2010や天皇杯で早期敗退し、初めて進んだ2010Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝でも逆転しながら終了間際に前田遼一に決められて延長戦の末3-5で敗れて準優勝。Jリーグカップと天皇杯を合わせての決勝戦で5連敗となり、2022年現在清水(2005年の天皇杯2008Jリーグヤマザキナビスコカップ2010年の天皇杯2012Jリーグヤマザキナビスコカップ)を抜いて最長。肝心なところで勝負弱さが露呈した[92]。ペトロヴィッチは信頼する主力を使い続けたことにより、夏場はコンディションが低下、得点は奪えるものの失点が減ることはなかった[92]。ただ、組織的で攻撃的なサッカーや、J2でチームを熟成させJ1に復帰し以降の躍進は、チーム作りの好例として評価された[93][94]。J2に降格しながら監督を代えなかった判断をした広島フロントは賞賛され[85]、これ以降他のJ2降格チームも監督を留任するケースが出てきた。

経営改革[編集]

2012年にプロクラブ創設から20周年を迎えたが過去19年で20億円を超える累積赤字を出してしまい、その中で2013年から始まるクラブライセンス制度に対応するため、資本金約21億円を99%減資し累積赤字解消にあて、更に約2億円の第三者割当増資を行うことになった[95]

2012年5月、すべての手続が完了した[8]。資本金は21億1005万円から2億2030万500円、株主数は58から64[8]。なお、広島県・広島市および安芸高田市の3自治体を含め従来の58株主はすべて減資に応じ、35株主が増資に応じている[8][96]

減資を受け入れた株主に対し、クラブは経営改善の努力を行った。まず2011年末、長年監督としてチームを作り上げたものの高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念し[97][98]、ムジリや服部公太・盛田剛平などベテラン勢を中心に構想外とし契約更新選手も減俸や微増に止め年俸総額を抑えていった[99]。更に2012年末、減資の責任を取る形で社長の本谷祐一が退任し、エディオン顧問の小谷野薫が新社長に就任した[100]

2012年 - 2017年(森保 / 森保・ヨンソン時代)[編集]

2012年

ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、彼のサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中で森保一の名前が挙がることになった[101][102]。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった[101][102]。また、以降数年は経営改善のため積極的な補強を行えないことから、さらには独特なサッカースタイルを用いていることから他チームからの戦力補充が容易にできなくなったこともあり、手薄なところをピンポイント補強あるいは最悪の場合は現役ユース生を高校生Jリーガーとして登用する方針で進んでいく[103]

2012年11月24日、第33節のC大阪戦に勝利し、1試合を残して[注 8] クラブ史上初となるJ1年間総合優勝を決めた[注 9]。なお、2008年にはJ2で年間優勝しているため、前年のに続いてJ1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを持つクラブとなった。また、オリジナル10の中で3大タイトルのいずれもを取っていないチームはなくなったことになる。 FIFAクラブワールドカップ(CWC)は、初戦でオークランド・シティに勝利。準々決勝でアルアハリに敗退したが、5位決定戦で蔚山現代FCに勝利して5位の成績。その一方で天皇杯では、初戦(2回戦)でFC今治四国リーグ)に1-2で敗れた[104]

2013年

J1リーグ戦ではACLでの不調も響き、コンフェデレーションズカップによるリーグ戦中断時点では、首位大宮と勝点差8、ACL圏内となる3位の横浜FMとは勝点差3の5位となる。リーグ戦再開直後から5連勝し、前半戦最後となる第17節終了時には大宮と勝点で並び得失点差で首位に立つが、第21節名古屋戦での引き分けを期に、3連敗を含む5試合勝利なしとなり、一旦3位まで順位を下げる。第26節から3連勝し再び首位に立つも、第29節、横浜FMとの直接対決に敗れ、横浜FMと同節で勝利した浦和に抜かれ再び3位に降格。第33節湘南戦の勝利で2位に再浮上し、優勝するには勝利が絶対条件となる最終節アウェーで、森保就任前まではやられっ放し、かつカシマスタジアムでのJ1シーズンホーム最終戦で1998年から15シーズン負けなし(14勝1分)と「難攻不落」だった鹿島[105] に2-0で勝ち、前節まで首位にいた横浜FMが川崎に0-1と敗れたため、劇的な逆転で2年連続優勝を飾った[106]

AFCチャンピオンズリーグでは、怪我人が多く出たのも重なりJリーグ王者としては7シーズンぶりにグループステージ敗退。ホームアンドアウェー制となった2004年以降では日本サッカー史上初(厳密には2006年のACL東京ヴェルディ1969以来2チーム目[注 10])のグループステージ勝利なしという不名誉な記録も付いた。

同年の天皇杯は、2008年以来となる6年ぶりの決勝に進出したが、決勝ではリーグ戦で優勝を争った横浜FM[注 11] に0-2で敗れ、東洋工業時代を含めて決勝戦8連敗(Jリーグ発足後だけでも5連敗)となり、またしてもジンクスを破る事が出来なかった。

2014年

2014年は、リーグ連覇に貢献した西川が浦和に移籍してしまうものの、仙台から林卓人が10年ぶりの復帰となったほか、甲府より柏好文が複数クラブとの争奪戦を制し獲得、徳島より柴崎晃誠を獲得した。Jリーグ王者として挑んだシーズンの開幕を告げるゼロックススーパーカップでは2-0で横浜FMに快勝し、公式戦では森保就任後初めて横浜FMに勝利した。史上2チーム目の3連覇をかけたリーグ戦では29失点だった昨シーズンから37に増加し、リーグ戦3連覇が消えたばかりか、ACL出場圏も獲得出来ず8位に終わった。特に、関東でのアウェーでの試合は1勝も出来ずに終わった。2014年のAFCチャンピオンズリーグでは、アウェーこそ全く勝てなかったものの、前年の準優勝チーム・FCソウルをホームで迎えた第3節で森保就任後ACL初勝利。最終節も勝利し、3回目の挑戦にしてクラブ史上初のグループリーグ突破を果たした。決勝トーナメントでは、当時小野伸二が所属していたウェスタン・シドニーと対戦。第1戦は3-1で快勝したものの、第2戦はゴールデンウィークにかけての11連戦の10戦目だったのに加え、12時間にも及ぶ長距離移動も重なって満足に練習が出来なかった影響からか第1戦のアドバンテージを生かせず0-2で敗戦。エディオンスタジアム広島での1失点が重く圧し掛かり、逆転でベスト16敗退となった。2年連続決勝進出を目指した天皇杯はG大阪に敗れベスト16どまり。ナビスコカップは当時リーグ戦では2012年の開幕戦以来5連敗中と相性の悪い浦和に2戦合計2-2(ホームでの第1戦0-0)で、準決勝は史上4チーム目の2連覇[注 12] を狙う柏に2戦合計3-2(ホームでの第1戦は2-0)と準々決勝、準決勝共に前年のファイナリストを相手に主力を代表招集で欠きながら[注 13] も競り勝ち、2010年以来となる4年ぶりの決勝に進んだ。しかし決勝では、リーグ戦で勝てず(1分1敗)天皇杯でもベスト16敗退に追い込まれたG大阪相手に、ナビスコカップ通算最多得点記録の更新がかかる佐藤の2ゴールで2点を先制するも、その後3点を奪われ逆転負け。監督が森保に代わってもカップ戦の勝負弱さを克服出来ないまま決勝戦7連敗(前身の東洋工業時代を含めると、決勝戦9連敗)[注 14] となってしまい、3大タイトルでは3年ぶりの無冠に終わってしまった。

2015年Jリーグ基本フォーメーション
監督 森保一
千葉和彦
水本裕貴
ミキッチ
青山敏弘
森崎和幸
(清水航平)
佐藤寿人
2015年

2015年2月に小谷野薫が広島市長選挙出馬の為、社長の座を退いた。後任には前強化部長の織田秀和が就いた。髙萩が海外挑戦のため退団し、石原は浦和に移籍、シャドーのレギュラー2選手を同時に失った。その後釜に徳島からドウグラス、2009年オフにもオファーを出していた京都工藤浩平を獲得。このうち工藤はリーグ戦僅か6分の出場に留まり、6月に松本山雅FCに移籍。ドウグラスとボランチからコンバートさせた柴崎が穴を埋めて余りある活躍を見せることになる。1stステージは浦和に独走を許しながら3位につける。2ndステージに入ると第1節、第2節をそれぞれ4得点、6得点と攻撃陣が爆発し2連勝、続く第3節ではアウェーで浦和に逆転勝利を収め、このシーズン初めて年間勝点首位に浮上。その後は浦和とのマッチレースの様相を呈したが、森保就任からの武器だった持ち前の守備力に攻撃力が加わり、1stステージ同様に大崩れする事なく、最終節で湘南に勝利し2ndステージ優勝と年間勝点1位が確定。年間の勝ち点74は現行の制度下での最高記録。またアウェーで13勝3分1敗の勝ち点42を挙げいずれも現行の制度で新記録[107] となった。

Jリーグチャンピオンシップは年間勝点1位のため準決勝をシードされ、勝ち上がった年間3位のG大阪と対戦。敵地で行われた第1戦は後半アディショナルタイムに2得点生まれ、3-2で劇的な逆転勝ち。満員のホームで迎えた第2戦は先制されながら浅野の同点ゴールで1-1、2戦合計4-3で年間優勝を勝ち取った。これで森保監督は4年間で3度のリーグ優勝を果たした。佐藤が2ndステージ最終節でJ1通算157ゴール目を記録し中山雅史と並びJ1通算最多得点保持者となったのを筆頭に、ドウグラスは得点ランキング2位の21ゴール(チームのJ1におけるシーズン最多得点記録)、浅野拓磨は先発出場の機会こそ無かったがリーグ戦初を含む8ゴールを決めスーパーサブに定着、ベストヤングプレーヤー賞を受賞した。Jリーグアウォーズでは青山がMVPに輝き、ベストイレブンには青山に塩谷、ドウグラスを加えた3人が選出された。森保も3度目の最優秀監督賞を受賞。また、優秀選手賞を7人が受賞している。青山は1stステージ最終節鳥栖戦のゴールで年間最優秀ゴールも受賞。チームとしても4年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞し優勝に花を添えた。

開催国王者枠として3年ぶりに出場したFIFAクラブワールドカップ2015では、オークランド・シティFCTPマゼンベを破り、準決勝で南米王者であるリーベル・プレートに善戦したものの0-1で敗退。3位決定戦でアジア王者広州恒大に逆転勝ちし、2007年の浦和、2008年のG大阪に次ぐ、日本のクラブ史上3チーム目の3位入賞を果たした。その他のカップ戦では、サブメンバー主体で臨んだナビスコカップは予選リーグ敗退。天皇杯ではベスト4まで勝ち進むが、前年も天皇杯のベスト16で敗れたG大阪に準決勝で敗北した。

2016年

2016年は新たに森保監督と2017年シーズンまでの2年契約で合意し森保体制5年目。山岸智らが契約満了にて退団、またドウグラスの慰留に失敗し完全移籍・期限付き移籍延長のいずれにも合意することができず、チームトップスコアラーでリーグ優勝とCWC3位の立役者を失う事になった。ドウグラスの代役として清水ピーター・ウタカ(期限付き移籍)や京都宮吉拓実山形キム・ボムヨン(いずれも完全移籍)らを補強し、新卒では四日市中央工業高から森島司、ユースから長沼洋一が入団。

シーズン初戦となったゼロックススーパーカップでは天皇杯優勝のG大阪と3年間で10回目の対戦、佐藤寿人や新加入のウタカの得点でタイトルを手にした。しかし、リーグ戦では佐々木が1stステージ第4節で横山知伸に危険なタックルを受け右膝前十字靭帯を断裂、これを皮切りに怪我人が続出する苦しい台所事情を強いられ、ウタカが得点王争いのトップに立つなどの活躍はあったが1stステージを4位で折り返す。2ndステージではアーセナルへの海外挑戦を決めた浅野らの退団やアンデルソン・ロペス野上結貴の加入など多少の選手の入れ替わりがあったものの、勝負所第9節からの7試合で5敗(特に12節の浦和戦から3連敗)を喫するなど失速。2ndステージ10位・年間勝ち点6位と前半戦から順位を落とす結果に終わった。Jリーグアウォーズではウタカが19得点で得点王(レアンドロと同点)、塩谷が3年連続でベストイレブン、チームとして5年連続でフェアプレー賞高円宮杯を受賞した。

リーグ戦より一足先に開幕したACLは山東魯能、FCソウル、ブリーラム・ユナイテッドと同組となる。過去の参戦シーズン同様若手中心の消極的な選手起用が目立ち、最終戦を残してグループステージ敗退が決定。チームのACL観客動員数が歴代最多動員を記録した最終戦のFCソウルこそ2-1で勝利し意地は見せたが、それ以外の試合は観客動員数が10000人を割り込む等[注 15] クラブ・サポーター双方共にACLへの関心の薄さが改めて浮き彫りとなった。また、カップ戦は、ルヴァンカップ、天皇杯ともにベスト8で敗退しシーズンを終えた。

2017年

森保体制6年目。前シーズンをもって森崎浩司が引退、佐藤・ウタカらが退団した一方、フェリペ・シウバ工藤壮人らが完全移籍で加入した。また、ロペスの期限付き移籍期間を延長した。

攻撃陣の不調で開幕から出遅れ降格圏に沈んだチームは7月に森保の退任を発表、前任ペトロヴィッチと並ぶ長期間の森保体制は5年半で終了した。数試合を横内昭展の指揮で戦ったのち新たに監督に就任したクラブOBのヤン・ヨンソンの下、パトリック丹羽大輝を補強し、ペトロビッチ・森保体制下で継続してきた3-4-2-1のフォーメーションと決別したチームは持ち直し、ホーム最終戦となった第33節FC東京戦で新加入の稲垣祥の勝ち越しゴールで残留を確定させた。最終順位は15位。ヨンソンは次年度に続投することなく、清水で監督に就任してチームを去った。

2018年 - 2021年(城福 / 城福・沢田時代)[編集]

2018年

日本サッカー協会に戻っていた城福浩を新たな監督に迎える。開幕から3連勝、さらに6戦負けなし、しかもその勝利を挙げたチームの中には前年ACLに出場した鹿島、浦和、川崎という上位進出も期待出来るチームも含めて9試合で8勝1分で首位を独走。第10節にFC東京に敗れて初黒星を喫したが、第11節から4連勝となるも、ワールドカップによるリーグ戦中断前最後の第15節に2敗目を喫するも、2位との勝点差は9であった。だが再開後にチーム状態は暗転。第26節以降全く勝てず、首位陥落した第28節から6連敗、最終6試合勝ちなし(うち4試合が完封負け)と深刻な得点力不足に悩まされ、川崎に逆転され2位でシーズン終了。

2019年

2月のACLプレーオフを勝利すると、グループステージを久しぶりに突破してベスト16に進出。アウェーゴールの差で鹿島に敗退した。最終的に6位に終わったリーグ戦でも若手が台頭し、特に大迫敬介森島司松本泰志は離脱した林、柴崎、青山の穴を埋め、ACLで出色のパフォーマンスを見せた荒木隼人は水本・吉野からレギュラーの座を奪い、前年復帰した川辺駿はリーグ戦全試合に出場した。新戦力ではドウグラス・ヴィエイラがポストプレーを武器に1トップに定着、ハイネルも後半戦は不動の右ウィングバックとして活躍した。一方前年終盤から不振を極めていたパトリックは、この年背番号10を背負うも新戦術に順応できずG大阪に出戻り。少なくなった初優勝メンバーの水本も、夏の移籍で松本に新天地を求めた。また、再びチーム伝統の3-6-1システムに取り組んだこともあり、前年右SBを担った和田拓也が早々に構想外となり横浜FMへ移籍した。水本と入れ替わりで松本から加入したレアンドロ・ペレイラは怪我で実働10試合に満たなかったが、出場した試合では貴重な得点源として得点力不足の解消に一役買った。

総じてチームの若返りに成功したが、チームの最多得点者が柏の8点という状況から見て取れるように特にゴールを奪えるフォワード不足は本年も解消されることは無かった。

2020年

城福体制3年目、櫛引一紀を大宮アルディージャから、永井龍を松本山雅FCから獲得するが補強効果は限定的で、加入2年目を迎えたレアンドロ・ペレイラがリーグ3位の15得点を挙げチームを牽引。新型コロナウイルス感染症の影響を受け変則日程・J2降格無しのレギュレーションにて行われたリーグ戦・ルヴァンカップ共に好調な滑り出しを見せるも、終盤にかけて勝ちきれない引き分け続きの試合が増え、結果的にリーグ戦を中位の8位で終えた。過密日程の中で若手の起用が目立ったシーズンでもあり、特別指定選手としてプレーした[108]藤井智也はリーグ戦15試合に出場した。

2021年

城福体制4年目。前年末にペレイラとの契約に合意できず(その後G大阪へ)この年も外国人ストライカーの慰留に失敗。新たな得点源として横浜FMでリーグ戦22試合13得点とインパクトを残していたジュニオール・サントスを完全移籍で獲得[109] した。

過去3シーズンと異なり「この選手たちと違う景色が見たい」という城福の理想とするサッカーを体現するべく、この年はシーズン途中から4バックを取り入れるなどの改革を進めた[110] が、新フォーメーションの1トップを担うドウグラス・ヴィエイラが故障、チームは第8節の4位を最高点に中位に定着。川辺がグラスホッパーへ引き抜かれて以降は攻守に精彩を欠き、この年降格する仙台にシーズン敗北を喫した第33節を以て城福の退任が決定(試合に敗れたもののJ1残留も確定)。残る5試合は沢田謙太郎ヘッドコーチが監督職を引き継いだが状態は上向くことなく、リーグ11位でフィニッシュ。また、天皇杯初戦(2回戦から登場)では本職ではない選手をDFに置くなど極端なターンオーバーを行った挙句、関西サッカーリーグ1部に所属するおこしやす京都ACに1-5で大敗するなど、リーグ戦順位以上に屈辱的な1年を過ごした。

2022年 - (スキッベ時代)[編集]

2022年

ミヒャエル・スキッベを新監督に、前岡山監督の有馬賢二や前川崎GKコーチの菊池新吉らを新コーチに迎えるなど、スタッフを大きく入れ替えて開幕を迎える。

コロナ禍による日本への入国制限でスキッベの来日が遅れ、迫井深也ヘッドコーチの指揮した序盤こそ苦戦したものの、下部組織出身の満田誠野津田岳人川村拓夢、過去にスキッベの下でプレーしたナッシム・ベン・カリファらが台頭。リーグ第28節で2019年以来の5連勝を飾り、暫定ながら首位に立つなど上位争いを演じた。終盤は川崎との直接対決に敗れて以降は1勝2敗2分と失速したものの、リーグ戦ではACLプレーオフ圏内となる3位でフィニッシュした[注 16]

天皇杯は、ホンダロックSC、横浜FC、ザスパクサツ群馬、C大阪、京都を下し、2013年以来9大会ぶりの決勝進出を果たした。ヴァンフォーレ甲府との決勝戦では延長後半・PK戦で2度のPK失敗を喫し敗戦。これで天皇杯決勝は東洋工業時代を含めて9連敗(Jリーグ発足後だけでも6連敗)となってしまった。

ルヴァンカップは名古屋、清水、徳島と同居するグループBを4勝2敗で首位通過。プレーオフで札幌に勝利し3年ぶりの決勝トーナメント進出。準々決勝で横浜FM、準決勝で福岡を破り、2014年大会以来8年ぶり、2022年シーズンでは通算4回目の対戦となるC大阪が待つ決勝に駒を進めた[114]。優勝を逃した天皇杯決勝の翌週に行われた決勝では広島ユース出身のC大阪加藤陸次樹に先制点を奪われるも、夏の補強で加入したピエロス・ソティリウが途中出場から試合終了間際に2ゴールを挙げ[115]、逆転勝利[注 17] で悲願のルヴァンカップ初優勝を果たした。

2023年

第10節終了時点では2位になったが、怪我人の続出や得点力不足に喘ぎ、勝ちを重ねられず徐々に順位が低下。更に夏の移籍で森島司が退団するが、加藤陸次樹がユース卒業以来の復帰を果たしすぐに先発メンバーに定着、マルコス・ジュニオールも稼働は短時間ながら卓越した攻撃力を発揮して穴を埋める。怪我人の復帰した後半戦は持ち直し、2年連続で3位の成績を収めた。なお、J1・33節のG大阪戦がエディオンスタジアム広島での最終公式戦となり、3-0の勝利で華を添えた。同年限りで林卓人が引退(前述G大阪戦に途中出場)、2002年よりスカウト・2015年より強化部長を務めた足立修が公益社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)入りにより退任した。

タイトル・表彰[編集]

国内タイトル[編集]

その他タイトル[編集]

表彰[編集]

日本年間最優秀選手賞
Jリーグ
Jリーグカップ
その他

記録[編集]

クラブ記録[編集]

公式戦初試合
  • リーグ戦:2-1(1993年5月16日、Jサントリーカップ第1節 市原戦)
  • リーグ杯:2-3(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1節 読売ヴェルディ戦)
  • カップ戦:2-0(1992年12月5日、天皇杯1回戦 同志社大学戦)
1試合最多
  • 得点
    • リーグ戦:7-1(2008年9月7日、J2第34節 岐阜戦)
    • リーグ杯:7-0(2009年5月30日、ヤマザキナビスコカップ第4節 大宮戦)
    • カップ戦:8-0(2015年9月5日、天皇杯2回戦 広島経済大学戦)
  • 失点
    • リーグ戦:0-7(2009年10月25日、J1第30節 川崎戦)
    • リーグ杯:3-6(2016年9月4日、YBCルヴァンカップ準々決勝第2戦 G大阪戦)
    • カップ戦:1-5(2021年6月16日、天皇杯2回戦 対おこしやす京都AC戦) 
公式戦連続記録
  • 勝敗
    • 連勝:10試合(J2リーグ戦のみ、2003年3月23日-2003年5月10日)
    • 連敗:7試合(J1リーグ戦のみ、2002年7月24日-2002年8月31日)
    • 未敗戦:16試合(13(J2)+3(天皇杯)、2008年8月23日-2008年12月6日)
    • 未勝利:14試合(1(天皇杯)+10(J1)+3(ヤマザキナビスコカップ)、2005年12月10日-2006年4月29日)
    • 引分:4試合(J1リーグ戦のみ、2004年10月3日-2004年10月31日)
  • 得失点
    • 得点:25試合(7(J1)+13(J2)+1(ヤマザキナビスコカップ)+4(天皇杯)、2008年5月11日-2009年4月26日)
    • 無失点:7試合(J2リーグ戦のみ、2003年9月6日-2003年10月11日)
    • 無得点
      • 4試合(2(J)+2(チャンピオンシップ)、1994年11月16日-1994年12月2日)
      • 4試合(Jリーグ戦のみ、1995年8月26日-1995年9月9日)
    • 失点:17試合(12(J1)+3(ヤマザキナビスコカップ)+2(カップ)、2005年11月27日-2006年4月29日)

個人記録[編集]

試合出場記録
  • 最年少:髙萩洋次郎(2種登録)、16歳8ヶ月3日(2003年4月5日、J2第4節 湘南戦)
  • 最年長:林卓人、41歳3ヶ月16日(2023年11月25日、J1第33節 G大阪戦)
  • 1シーズン最多:柳本啓成、55試合(50(J)+5(カップ)、1995年)
  • 在籍最多:森崎和幸、590試合(430(J1)+74(J2)+51(リーグ杯)+42(カップ)+2(入替戦)+2(スーパーカップ)+5(ACL)+5(クラブW杯)、1999年-2018年)
  • 公式戦連続:服部公太、143試合(74(J1)+44(J2)+14(リーグ杯)+11(カップ)、2002年11月30日-2006年4月22日)
    • リーグ戦のみ:服部公太、218試合(133(J1)+85(J2)、2002年11月30日-2008年11月30日)
ゴール記録
  • 最年少:髙柳一誠(2種登録)、17歳10ヶ月10日(2004年7月24日、ナビスコカップ第6節 東京V戦)
    • リーグ戦:髙萩洋次郎、18歳0ヶ月19日(2004年8月21日、J1・2nd第2節 C大阪戦)
  • 最年長:柴崎晃誠、38歳9カ月21日(2023年6月18日、ルヴァンカップ第6節 名古屋戦)
    • リーグ戦:柴崎晃誠、37歳7カ月8日(2022年4月10日、J1第8節 福岡戦)
  • 1シーズン最多:佐藤寿人、31ゴール(28(J2)+2(カップ)+1(スーパーカップ)、2008年)
  • 1シーズン最多(J1リーグのみ):佐藤寿人、22ゴール(2012年)
  • 1試合個人最多:高橋泰、4ゴール(2003年4月19日、J2第7節 横浜FC戦)
  • 在籍最多:佐藤寿人、201ゴール(134(J1)+28(J2)+21(リーグ杯)+12(カップ)+2(スーパーカップ)+1(ACL)+3(クラブW杯)、2005年-2014年現在)
  • 公式戦連続:森崎浩司、5試合(J2リーグにて、2003年4月19日-2003年5月10日)、李忠成(J1リーグにて、2010年9月18日-2010年10月24日)
その他
  • 最長在籍年数:20年
    • 森崎和幸(1999年-2018年、ユースも含めると22年在籍)
  • 公式戦連続フルタイム出場:服部公太、143試合(上記連続出場と同じ)
    • リーグ戦のみ:服部公太、171試合(127(J1)+44(J2)、2002年11月30日-2007年10月6日)
  • 公式戦初ゴール:森保一(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1戦 読売V戦、前半25分)
    • リーグ戦初ゴール:風間八宏(1993年5月16日、Jサントリー第1節 市原戦、前半1分)
  • 兄弟初アベックゴール:森崎和幸・森崎浩司(2004年5月5日、J1・1st第8節 C大阪戦)

国際記録[編集]

国際試合[編集]

開催年 月日 大会名 対戦相手 会場 結果
2010年 2月24日 ACL2010 グループリーグ 中華人民共和国の旗 山東魯能泰山 広島ビッグアーチ ● 0-1
3月10日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 浦項スティールヤード ● 1-2
3月24日 オーストラリアの旗 アデレード・ユナイテッドFC ハインドマーシュ・スタジアム ● 2-3
3月30日 オーストラリアの旗 アデレード・ユナイテッドFC 広島ビッグアーチ ○ 1-0
4月13日 中華人民共和国の旗 山東魯能泰山 山東省体育中心体育場 ○ 3-2
4月27日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 広島ビッグアーチ ○ 4-3
2012年 12月6日 FCWC2012 1回戦 ニュージーランドの旗 オークランド・シティFC 横浜国際総合競技場 ○ 1-0
12月9日 FCWC2012 準々決勝 エジプトの旗 アル・アハリ 豊田スタジアム ● 1-2
12月12日 FCWC2012 5位決定戦 大韓民国の旗 蔚山現代FC ○ 3-2
2013年 2月27日 ACL2013 グループリーグ ウズベキスタンの旗 ブニョドコル 広島ビッグアーチ ● 0-2
3月13日 中華人民共和国の旗 北京国安 北京工人体育場 ● 1-2
4月2日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 広島ビッグアーチ ● 0-1
4月10日 大韓民国の旗 浦項スティーラース 浦項スティールヤード △ 1-1
4月23日 ウズベキスタンの旗 ブニョドコル JARスタジアム △ 0-0
4月30日 中華人民共和国の旗 北京国安 広島ビッグアーチ △ 0-0
2014年 2月25日 ACL2014 グループリーグ 中華人民共和国の旗 北京国安 広島ビッグアーチ △ 1-1
3月11日 オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ セントラルコースト・スタジアム ● 1-2
3月19日 大韓民国の旗 FCソウル 広島ビッグアーチ ○ 2-1
4月1日 大韓民国の旗 FCソウル ソウルワールドカップ競技場 △ 2-2
4月16日 中華人民共和国の旗 北京国安 北京工人体育場 △ 2-2
4月23日 オーストラリアの旗 セントラルコースト・マリナーズ 広島ビッグアーチ ○ 1-0
5月7日 ACL2014 ラウンド16 オーストラリアの旗 ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ 広島ビッグアーチ ○ 3-1
5月14日 パラマタ・スタジアム ● 0-2
2015年 12月10日 FCWC2015 1回戦 ニュージーランドの旗 オークランド・シティFC 横浜国際総合競技場 ○ 2-0
12月13日 FCWC2015 準々決勝 コンゴ民主共和国の旗 マゼンベ 長居スタジアム ○ 3-0
12月16日 FCWC2015 準決勝 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート ● 0-1
12月20日 FCWC2015 3位決定戦 中華人民共和国の旗 広州恒大 横浜国際総合競技場 ○ 2-1
2016年 2月23日 ACL2016 グループリーグ 中華人民共和国の旗 山東魯能泰山 広島広域公園陸上競技場 ● 1-2
3月1日 大韓民国の旗 FCソウル ソウルワールドカップ競技場 ● 1-4
3月16日 タイ王国の旗 ブリーラム・ユナイテッド 広島広域公園陸上競技場 ○ 3-0
4月5日 タイ王国の旗 ブリーラム・ユナイテッド ブリーラム・スタジアム ○ 2-0
4月20日 中華人民共和国の旗 山東魯能泰山 済南オリンピックスポーツセンター ● 0-1
5月4日 大韓民国の旗 FCソウル 広島広域公園陸上競技場 ○ 2-1
2019年 2月19日 ACL2019 プレーオフステージ タイ王国の旗 チェンライ・ユナイテッド 広島広域公園陸上競技場 〇 0-0(PK4-3)
3月5日 ACL2019 グループリーグ 中華人民共和国の旗 広州恒大 広州天河体育中心体育場 ● 0-2
3月12日 オーストラリアの旗 メルボルン・ビクトリー 広島広域公園陸上競技場 〇 2-1
4月10日 大韓民国の旗 大邱FC 広島広域公園陸上競技場 〇 2-0
4月23日 大韓民国の旗 大邱FC 大邱フォレストアレーナ 〇 1-0
5月8日 中華人民共和国の旗 広州恒大 広島広域公園陸上競技場 〇 1-0
5月22日 オーストラリアの旗 メルボルン・ビクトリー レクタンレギュラースタジアム 〇 3-1
6月18日 ACL2019 ラウンド16 日本の旗 鹿島アントラーズ カシマサッカースタジアム ● 0-1
6月25日 日本の旗 鹿島アントラーズ 広島広域公園陸上競技場 〇 3-2

国際大会出場選手[編集]

アラカルト
  • 日本人初招集
  • 日本人初国際Aマッチ出場
    • 高木琢也:1992年5月31日キリンチャレンジカップ対アルゼンチン代表戦
    • 森保一:同上
  • 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年)
  • 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年)

エピソード・アラカルト[編集]

チーム名およびチームカラー[編集]

決定に直接携わった今西和男およびフロントスタッフは次のように語っている。

チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するものなど様々な候補が寄せられた[20]。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった[22]。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした[20][22]
次にチームカラーは、当初マツダのチームカラーである「青」[20] を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向[注 18]もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した[22]。そこで、広島サッカー界の名門である広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、さらにはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した[20][22]
そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された[22]

また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。

川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

チームカラー選定時の事業担当者だった木之本興三は、著書『日本サッカーに捧げた両足』の中で、

広島の関係者に「英語のパープルには《高貴な》という意味があります。色にしても意味合いにしても最高じゃないですか。紫ならどこのチームと重なり合うことはありませんから。地元でも敵地でも《紫と言えば広島》が定着し、非常に良い相乗効果を生み出すことでしょう」と、当時勧めたが、2012年シーズンで初優勝して、紫色で埋め尽くされたサンフレッチェの優勝パレードをテレビで観て、「あの時から20年、およそサッカーのユニフォームらしくない色の広島が初優勝の偉業を成し遂げるとは、と大きな喜びを感じた」と書いている[117]

1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。

設立当時はユニフォームなどで赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしている京都サンガF.C.京紫)との差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。

2011年に、ユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更され、2024年現在まで続いている。2011年のみアウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社鳥居をイメージする色として採用されたという。

記録・出来事[編集]

チェアマン杯破損

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。選手は喜びのあまり授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)を、頭に被ったり振り回したりしてはしゃいでいた[118]

ところがこの際、チェアマン杯をサポーターに見せようと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損[119]。この珍事は翌日のスポーツ新聞紙面を飾った[118]。クラブはその場でJリーグ側に陳謝[118]、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割った旧チェアマン杯のかけらは広島の選手スタッフおよびサポーター総出でかき集め、一旦溶かされてペンダントとなった[118][120]

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日熊本市水前寺競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。当時九州にはJリーグチームがなく、この試合は熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分の準備をし熊本にはそれら2試合分のアウェー用道具を持参していた[121]。そのため持参したのはアウェー用として使っていた2ndユニフォームの白だったが[121]、対戦相手の横浜Fの1stユニフォームは白[注 19]。2つのアウェー用道具を一緒に事前準備していたためスタッフは間違いを犯した。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ[121] ものの間に合わなかった。

広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった[121]。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ[119][121]。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。パンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝利しJ通算50勝を達成した[121]。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り[121]、Jリーグから制裁金が課せられた。

レプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした[121]

初のJ2クラブ「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。

初の「ベストメンバー規定」違反による罰則

2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。

交流[編集]

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、安芸高田市サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。

横川町(西区)[122]

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

他のJリーグクラブへの協力

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた[13]

2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。

他競技交流

広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。

それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。

その他[編集]

エースのチャント

1995年から2002年(後、2008年に復帰)までサンフレッチェのエースストライカーであった久保竜彦のチャントは『君の瞳に恋してる』であった。J2降格と共にチームを去った久保の後継者として生え抜きの茂木弘人前田俊介が期待されていたが、2005年に小野監督と織田強化部長(いずれも役職は当時のもの)自らが獲得に動いた佐藤寿人が加入。茂木らに期待していたサポーターは佐藤の獲得を疑問視した。しかし佐藤は移籍1年目から2桁得点を挙げ、同年11月27日の第33節ヴィッセル神戸戦でこの年2度目のハットトリックを達成するとサポーターは自然発生的に佐藤を久保のチャントで祝福した。

中野和也がこの日を「佐藤のエース載冠式」と形容したように、以後サポーターの間で『君の瞳に恋してる』はエースストライカーに贈られる特別なチャントと目されている[123]

サンフレッチェ劇場[124]

ホームであるエディオンスタジアム広島において試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。

自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史岡山一成に憧れた柏木陽介槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。森脇移籍後は、千葉を中心に塩谷や野津田、増田卓也等が行っている。

試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。

ゴールパフォーマンス

2010年に槙野智章と森脇良太(時折GKの西川周作も参加する)を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。槙野は2010年に、森脇は2013年、西川は2014年に広島を退団したが、現在でも佐藤や林を中心にパフォーマンスは続いている。

所属[編集]

フロント[編集]

  • 強化担当トップ
    • 1992年 - 2002年 : 今西和男総監督
    • 2003年 - 2005年 : 高田豊治ゼネラルマネージャー
    • 2006年 - 2015年 : 織田秀和強化部長
    • 2015年 - 現在 : 足立修強化部長

育成組織 (アカデミー)[編集]

ユース
ジュニアユース以下

以前はイヤーブックやホームページなどで名簿を公開していたが、個人情報保護法が施行した2005年以降公開されていない。

ユニフォーム[編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

チームカラー[編集]

  •    
色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照。

ユニフォームスポンサー[編集]

公式ウェブサイト 参照。なお同スポンサーでも表記名や掲出個所が年により変わっており、詳細は下記を参照。
公式戦用
箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
エディオン EDION 1997年 - Jリーグ・カップ戦用
DeODEO」「YourVoice」表記を含む
名義・掲出場所の変遷は下記を参照
鎖骨 EDION光プラス 2023年 - 左側に提出
ハイセンスジャパン Hisense 2019年 - [125] 右側に掲出
背中上部 マツダ MAZDA 2010年 - 過去ACL出場時にはACL用胸にも掲出
背中下部 ひろぎんホールディングス ひろぎんHD 2017年 - 2017年 - 2020年は「広島銀行」表記
イズミ you
me
2015年 - 2014年はパンツに掲出
パンツ前面 テラル TERAL 2016年 -
パンツ背面 エディオン モバイル
e保険
2023年 -
練習着
箇所 スポンサー名 表記 備考
マツダ MAZDA
鎖骨 左側 マツオカコーポレーション MATSUOKA CORPORATION
右側 キャリアカレッジジャパン 資格のキャリカレ
背中 通常 村上農園 村上農園
ウォームアップジャケット マツダ MAZDA
左袖 良和ハウス 良和ハウス 半袖のみ
右袖 ウォームアップジャケット 中国電力 中国電力
半袖 西川ゴム工業 nishikawa
パンツ エディオン EDION
  • ユニフォーム左胸のエンブレム上の星(★)は2012年2013年2015年各シーズンのJ1での優勝と2022年のJリーグカップ優勝を表している。

ユニフォームサプライヤーの遍歴[編集]

歴代ユニフォーム[編集]

FP 1st
1992 - 1995
1996 - 1999
2000 - 2002
2003 - 2004
2005 - 2006
2007 - 2009
2010
2011
2012
2013
2014
2015
2016
2017
2018
2019
2020
2021
2022
2023
2024 -
FP 2nd
1992 - 1995
1996 - 1999
2000 - 2002
2003 - 2004
2005 - 2006
2007 - 2009
2010
2011
2012
2013