サミュエル・ウィリアムズ

サミュエル・ウィリアムズ
サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ
生誕 (1812-09-22) 1812年9月22日
ニューヨーク州ユーティカ
死没 1884年2月16日(1884-02-16)(71歳)
職業 言語学者牧師中国学者
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サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(Samuel Wells Williams、中国名:衛三畏、1812年9月22日 - 1884年2月18日)は、19世紀中ごろのアメリカ合衆国出身の言語学者外交官宣教師中国学者ペリー艦隊の通訳として来日(黒船来航、1853年および1855年)。その後も在中国アメリカ公使館書記兼通訳官として数回来日し、日本宣教の必要性を母国に訴えてアメリカ人による日本宣教の機運をつくる。中国でのキリスト教宣教の公認条項を含む天津条約の締結(1858年)に尽力。1876年帰米後はエール大学で教鞭をとった。ウィリアムズが出版した英中辞典『英華字彙(じい)』(1869年)は日本の初期英学研究に貢献した。

経歴[編集]

1812年9月22日、ウィリアムズはニューヨーク州ユーティカで生まれ、同州トロイレンセラー工科大学で学んだ。卒業後、同大学の教授に選ばれた。

1833年6月15日、まだ20代であったが、広東省にあったアメリカン・ボードの出版部に勤務するため中国に出発した。1837年には日本人漂流民送還のためアメリカ商船モリソン号に乗船して日本に向かったが、当時日本では異国船打払令が出されており、沿岸から砲撃を受けたため日本の港への入港は出来なかった。また、モリソン号は公的には漂流民送還を目的とはしていたが、可能であれば通商・布教の交渉を行う予定であった。

1845年11月20日、サラ・ウォルワースと結婚。1848年から1851年にかけて、 中国における主たる西洋の出版物であったThe Chinese Repository(中國叢報)の編集者となった。

ウィリアムズ(ウリヤマス)、高川文筌樋畑翁輔による1854年のスケッチ[1]を元にした肖像画

1853年には開国交渉のために日本に向かうマシュー・ペリー代将に、主席通訳として雇用された。ウィリアムズは中国語(漢文)が出来たことに加え、日本人漂流者から日本語を学び、マタイ伝の日本語翻訳を行ったり、日本語語彙表を作成するなど日本語の知識も有していた。ペリーはウィリアムズを介しての日本語での交渉も考えていたが、ウィリアムズはこれを辞退したため、口頭での交渉は日米双方のオランダ語通訳を介して行われた(ただし、ウィリアムズ自身は、日本側の発言はほとんど理解できたと述べている)。他方、文書での交渉は漢文も併用され、ウィリアムズは日米和親条約の漢文版に署名している。下田沖に停泊中の旗艦ポーハタン号吉田松陰が密航を訴えて乗り込んできた際、ペリー宛の手紙を翻訳し(この手紙はエール大学図書館のウィリアムズ家文書に保管されている)、応対したのもウィリアムズであった。なお、この後も1858年、1872年に日本を訪れている。前述のマタイ伝に加え創世記の日本語翻訳を完了しており、出版のために横浜のサミュエル・ロビンス・ブラウンに送っていたが、1867年5月にブラウンの家の火災で焼失したとされていた。しかしながら1950年頃、九州でウィリアムズのマタイ伝の原稿と思われるものが発見されている。

1855年、ウィリアムズは中国派遣米国外交団の書記官に任命された。中国に滞在中の1856年、『英華分韻撮要』(A Tonic Dictionary Of The Chinese Language In The Canton Dialect)を記述した。清朝政府の長年にわたる反対の後、ウィリアムズは天津条約で中国人・西洋人キリスト教徒の保護に貢献した。

1860年、北京駐在の臨時代理大使に任命された。その職を1876年10月25日に辞したが、1833年に広東に来て以来43年が経過していた。

1876年に米国に戻り、エール大学最初の中国語および中国文学の教授となった。[2]1881年2月3日、アメリカ聖書協会の会長に任命された。1884年2月16日死去。

著作[編集]

『英華分韻撮要』より

脚注[編集]

  1. ^ 樋畑翁輔 著、樋畑雪湖 編『米国使節彼理提督来朝図絵』1931年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1192288/11 
  2. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、156頁。

参考資料[編集]

関連項目[編集]