コペンハーゲン砲撃

クリストファー・ヴィルヘルム・エッカースベルグによって描かれたコペンハーゲン砲撃の様子

コペンハーゲン砲撃とは、1807年9月2日から9月5日の間ナポレオン戦争中のコペンハーゲンの戦い英語版イギリスデンマークコペンハーゲンの市街地を砲撃し、民間人を虐殺した事件である。

背景[編集]

ナポレオン戦争の際、デンマークは中立を維持しようとしていたものの、イギリスに対抗するロシア帝国スウェーデンプロイセン第二次武装中立同盟に加盟した[1]。しかしながら1801年にイギリスがデンマークを攻撃すると(コペンハーゲンの海戦)、デンマークは中立同盟から脱退することになった[2]。この後、食料供給などに不安を感じていたデンマーク=ノルウェーはできるかぎりイギリスを敵に回さないようにしようとつとめていたが、イギリスはナポレオン・ボナパルトがデンマーク=ノルウェーの艦隊を狙っているのではないかという不安を募らせた[3]。デンマークはフランスにつくのではないかと予想されていたが、イギリスはデンマークに対して艦隊の引き渡しを条件とする同盟交渉を試みようとした[4]

コペンハーゲンの戦い[編集]

デンマーク軍がイギリス軍の要求を拒否したために交渉は決裂することとなった[5]。イギリス軍は1807年9月2日から5日にかけて、コペンハーゲン市街地を砲撃した[6]。1日目は火災が38箇所ほどで発生し、消防士の努力によって鎮火されたが、激しい攻撃が継続し、3日目には聖母教会デンマーク語版も炎上した[7]。この砲撃により軍人を含め195人の民間人死傷者と768人の負傷者が発生した[8]。300発のコングリーヴ・ロケットによりコペンハーゲン市街地は火の海と化した[注釈 1]。当時住民は避難しており消火活動は思う様に進まなかった。その結果1,000棟をも超える建物が焼け落ちた[10]。4日間での死者数は2000人ほどと推定されている[11]

9月5日デンマーク軍は和平を求め、9月7日に降伏文書に署名した。デンマーク軍はイギリス軍に対し海軍とその軍需品をイギリス軍に引き渡すことに合意した[12]。10月になるとイギリス軍はデンマーク海軍の軍艦を没収し、コペンハーゲンから去って行った[11]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 様々な証言に拠ると、10,000発から最大120,000発のロケットが発射されたという。当時コペンハーゲンに居たコングリーヴ・ロケットの発明者、コングリーヴは"ロケットはたった300発だけ発射された"と主張している[9]。他の資料もコングリーヴの主張を認めている[要出典]

出典[編集]

  1. ^ ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス 著、村井誠人、大溪太郎 訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社、2013年、223頁。 
  2. ^ ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス 著、村井誠人、大溪太郎 訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社、2013年、225頁。 
  3. ^ ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス 著、村井誠人、大溪太郎 訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社、2013年、225-226頁。 
  4. ^ 村井誠人、クリンゲ、本間晴樹「第六章 ナショナリズムの時代」、百瀬宏、熊野聰、村井誠人編『北欧史』山川出版史、1998、pp. 186 - 245、p. 188。
  5. ^ London Gazette issue 16062 page 1153 -4 dated 5 September 1807
  6. ^ 村井誠人、クリンゲ、本間晴樹「第六章 ナショナリズムの時代」、百瀬宏、熊野聰、村井誠人編『北欧史』山川出版史、1998、pp. 186 - 245、p. 188-189。
  7. ^ ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス 著、村井誠人、大溪太郎 訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社、2013年、227-228頁。 
  8. ^ Københavns Bombardement 2013, "Statistik" cites Jelsdorf 2007
  9. ^ Congreve 1810, p. [要ページ番号] [要検証]
  10. ^ Københavns Bombardement 2013, "Statistik" cites Vibæk 1964, p. 292
  11. ^ a b 村井誠人、クリンゲ、本間晴樹「第六章 ナショナリズムの時代」、百瀬宏、熊野聰、村井誠人編『北欧史』山川出版史、1998、pp. 186 - 245、p. 189。
  12. ^ ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス 著、村井誠人、大溪太郎 訳『デンマーク国民をつくった歴史教科書』彩流社、2013年、228頁。 

関連項目[編集]