グリゴリー・シュテルン

グリゴリー・シュテルン

グリゴリー・ミハイロヴィチ・シュテルンロシア語: Григорий Михайлович Штерн, 1900年8月6日 - 1941年10月28日)は、ソビエト連邦の軍人。スペイン内戦で軍事顧問、冬戦争で軍司令官を務めた[1]。大将。ソ連邦英雄

経歴[編集]

シュテルンは、1900年、キエフ県チェルカースィ郡スメラ村(現チェルカースィ州スメラ市)のユダヤ人医師の家庭に生まれた。

彼は、1919年に赤軍の第46狙撃師団の一連隊政治委員として軍歴を始め、旅団政治委員を経て、南部戦線で白軍と戦った。1919年から共産党員。1921年~1923年、連隊、第3狙撃師団本部、第1騎兵軍団本部の政治委員を務めた。1923年~1925年、トルケスタン戦線において、旅団政治委員、ホレズム軍集団特別任務班長となり、バスマチと戦った。1925年6月~1926年2月、第7騎兵師団政治科長。1926年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミー附属高等指揮要員完全化課程を修了。

シュテルンは、1929年、フルンゼ軍事アカデミー東洋学部を卒業し、陸海軍人民委員部において働いていた。1936年、第7騎兵師団長に任命。1937年1月~1938年4月、スペイン内戦において人民戦線の主席軍事顧問を務めた[1][2]。1938年から極東戦線参謀長として張鼓峰事件の作戦の指揮にあたった[2]

1939年7月5日からは、ノモンハン事件において、ソ・軍前線集団を統轄した。この軍功により同年8月29日、司令官ジューコフとともにソ連邦英雄の称号を得た[2]

ソ連とフィンランド間における冬戦争の開戦から2週間ほどたった1939年12月12日、シュテルンは第8軍司令官に任命され、コッラの戦いにおいてソ連軍の指揮をとった。冬戦争の後、赤軍は旧来の階級制度を復活させ、1940年6月5日、シュテルンは大将に任命された。同年6月22日、彼は極東戦線司令官に任命された[1]。1939年~1941年、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会委員。

1941年4月、国防人民委員部防空局長に任命。同年5月15日、15機のドイツ空軍輸送機が、ベロストク-ミンスク-スモレンスク-モスクワの経路でソ連領空を飛行したが、ソ連の防空部隊はこれを認められなかった。このため、責任を問われ、防空部隊内で粛清が始まり、シュテルンは1941年6月8日に逮捕された。取調中、1931年の赤軍内の陰謀への関与とドイツのスパイであることを「自白」し、同年10月28日に銃殺刑に処された。

シュテルンは1954年8月に名誉回復された[1]

パーソナル[編集]

ソ連邦英雄(1939年8月29日)。レーニン勲章2個、赤旗勲章3個、赤星勲章、「労農赤軍20周年」メダルを受章。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Kilin and Raunio 2007, p.113
  2. ^ a b c シーシキン他、123頁

参考文献[編集]

  • (フィンランド語)Kilin, Juri / Raunio, Ari (2007) Talvisodan taisteluja, Karttakeskus ISBN 978-951-593-068-2
  • シーシキン他、田中克彦(編訳)『ノモンハンの戦い』岩波書店、2006年 ISBN 4-00-603127-0
  • Советская военная энциклопедия
  • "Империя Сталина. Биографический энциклопедический словарь", Залесский К.А., Москва, 2000年