グラン・プリ

グラン・プリ
Grand Prix
監督 ジョン・フランケンハイマー
脚本 ロバート・アラン・アーサー英語版
原案 ロバート・アラン・アーサー
製作 エドワード・ルイス
製作総指揮 ジェームズ・ガーナー
カーク・ダグラス
ジョン・フランケンハイマー
出演者 ジェームズ・ガーナー
イヴ・モンタン
三船敏郎
エヴァ・マリー・セイント
音楽 モーリス・ジャール
撮影 ライオネル・リンドン英語版
編集 ヘンリー・バーマン
ステュー・リンダー英語版
フランク・サンティロ
製作会社 Cherokee Productions
配給 メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
公開 アメリカ合衆国の旗 1966年12月21日
日本の旗 1967年(昭和42年)2月1日
上映時間 180分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
フランス語
イタリア語
ポルトガル語
日本語
配給収入 5億1751万円[1] 日本の旗
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グラン・プリ』(Grand Prix)は、1966年に公開されたカーアクション映画。主演はジェームズ・ガーナー。監督はジョン・フランケンハイマー、音楽はモーリス・ジャールが担当した。

概要[編集]

モータースポーツのトップカテゴリであるF1グランプリを舞台に、ドライバーズチャンピオンの栄光をかけて戦う4人のF1ドライバーの運命を追ったフィクションである。サブプロットとして、そのような危険なライフスタイルを持つ男達と共に生きようとする女性達に焦点が当てられる。原作はロバート・デイリー1963年に発表したノンフィクション『The Cruel Sport』。

撮影は65mmフィルムで行われ、シネラマの大画面で公開された。タイトルデザインをソール・バスが担当している。

公開当時F1に参戦していたホンダをモデルにした「ヤムラ(矢村)」チームが登場し、本田宗一郎を思わせるチームオーナー役を三船敏郎が演じている。既に国際的評価を得ていた「世界のミフネ」がハリウッド映画に初めて出演した作品であった。

あらすじ[編集]

F1シーズンの開幕戦、伝統のモナコグランプリで大事故が起きた。ジョーダン・BRMチーム所属のアメリカ人レーサー、ピート・アロンは辛くも難を逃れたが、チームメイトのスコット・ストッダードが重傷を負った責任を負わされ、チームから解雇された。アロンは日本のヤムラチームと第3ドライバー契約を結び、期待に応えてワールドチャンピオン争いに加わる活躍をみせた。

アロンと競い合う有力ドライバーは3人。マネッタ・フェラーリチームのエースであるフランス人のジャン=ピエール・サルティは、2度のワールドチャンピオン経験を持つ大ベテラン。サルティのチームメイトであるイタリア人のニーノ・バルリーニは、二輪グランプリの元・王者であり、将来を嘱望されている。開幕戦の負傷からカムバックしたイギリス人のストッダードは、レーサーとして成功した亡き兄を目標としている。

命懸けのレースの合間には男と女のドラマもあった。ストッダードの妻パットは元・モデル時代の生活が忘れられず、夫を捨ててアロンに接近しようとする。サルティは大手自動車会社を経営する妻モニークとの関係が冷え切り、パーティーで知り合ったファッション雑誌編集者のルイーズと深い仲になっていく。

4人のドライバーによるワールドチャンピオン争いは僅差のまま最終戦イタリアグランプリを迎えた。ハイスピードの接近戦、大波乱の展開の末、最終ラップに劇的なクライマックスを迎える。

キャスト[編集]

役名 俳優 日本語吹替
東京12ch
ピート・アロン ジェームズ・ガーナー 森川公也
ジャン=ピエール・サルティ イヴ・モンタン 家弓家正
スコット・ストッダード ブライアン・ベッドフォード英語版 青野武
ニーノ・バルリーニ アントニオ・サバト英語版
矢村以蔵 三船敏郎 森山周一郎[2]
アゴスティーニ・マネッタ アドルフォ・チェリ 吉沢久嘉
ライオネル・ブラムリー ジョージ・ファース英語版 加茂喜久
ユゴー・シモン クロード・ドーファンフランス語版 北村弘一
ジェフ・ジョーダン ジャック・ワトソン英語版 真木恭介
ウォレス・ベネット ドナルド・オブライエン
医師 アルベール・レミーフランス語版
ルイーズ・フレデリクソン エヴァ・マリー・セイント 北浜晴子
パット・ストッダード ジェシカ・ウォルター 池田昌子
リーザ フランソワーズ・アルディ
グイド エンツォ・フィエルモンテイタリア語版
モニーク・ドゥルボ・サルティ ジュヌヴィエーヴ・パージュフランス語版 沢田敏子
ストッダード夫人 レイチェル・ケンプソン
ストッダード ラルフ・マイケル英語版
通訳 飛鳥井雅昭[3]
不明
その他
N/A 村松康雄
藤本譲
嶋俊介
広瀬正志
宮下勝
日本語版スタッフ
演出 高桑慎一郎
翻訳 古賀牧彦
効果
調整
制作 東北新社
解説 南俊子
初回放送 1974年4月11日18日
木曜洋画劇場
ノーカット

撮影[編集]

他に類を見ないレースシーンの撮影技術がこの映画の呼び物の一つとなっている。フランケンハイマー監督率いる約260名の撮影隊はF1コンストラクターの協力を得て、1966年(昭和41年)の6か国のグランプリで撮影を行った。F1フォトジャーナリストのベルナール・カイエが仲介役となり、ヨアキム・ボニエリッチー・ギンサーボブ・ボンデュラントらF1ドライバーがアドバイザーとして協力した。ブルース・マクラーレンマクラーレンの創始者)、フィル・ヒル(1961年のワールドチャンピオン)、グラハム・ヒル(1962、1968年のワールドチャンピオン)らは役名付きで出演した。

主役の4人の俳優は、実際にマシンを運転できるようにジム・ラッセル・レーシングスクールで教習を受け、撮影時に走行した。中でも主演のジェームズ・ガーナーはメキメキと頭角を現し、プロにも迫るほどの腕前に成長したという。ストッダード役のブライアン・ベッドフォードは公道の自動車免許を持っていなかった。

走行シーンに実物のF1マシンは使用できなかったので、F3マシンをモディファイして使用した。マシンがコースから飛び出すシーンでは、人形を乗せたマシンを大砲で射出した。

テクニカル・コンサルタントとしてキャロル・シェルビーが参加。レースの走行映像はフォード・GT40を改造したカメラカーで撮影した。また、フォーミュラカーのフロント部分にカメラを搭載し、ドライバー目線の迫真の映像を収めた(このためにNASAと共同で耐震カメラ台を開発した)。F1のテレビ中継では1980年代以降に車載カメラの映像が普及するが、本作はそれを先取りするものであった。

通常、部外者には門戸を開かないフェラーリのファクトリーでの撮影も特別に許可され、当時の雰囲気を知ることのできる貴重な映像となっている。

出演したドライバー[編集]

オープニングフィルムに掲載されている順に表記する。

作中でアロン(ガーナー)はクリス・エイモン、サルティ(モンタン)はジョン・サーティース、ストッダード(ベッドフォード)はジャッキー・スチュワートのヘルメットを装着している。

舞台となったグランプリ[編集]

※印は撮影隊が帯同したレース。

実際の1966年のF1グランプリは開催国・サーキットは同じだが開催順が異なっている(モナコベルギーフランスイギリスオランダドイツイタリアアメリカメキシコの順)。

作中で描かれたモナコグランプリのコースで車輌が海に転落するというアクシデントは実際に2度起きている。1955年のアルベルト・アスカリと1965年のポール・ホーキンスだが、2人とも転落後に脱出し無事に救助された。

最終戦イタリアグランプリの舞台となるモンツァサーキットでは、1961年に観客を巻きこむ死傷事故が起きて以来高速のオーバルトラック区間は使用していなかった。本作ではイタリアGPとは別の日にエキストラを集め、オーバルを走行するレースシーンを撮影した。

受賞[編集]

第39回アカデミー賞

補足[編集]

本作品のテーマ曲をカラベリが編曲、演奏したバージョンは、嘗てNHK-FM放送で月~金の19時15分から放送されていた『サウンド・オブ・ポップス』のオープニング・エンディング曲として長らく使用されていた。

本作の映像ソフトはビデオとLD化されて以降、DVDは日本国内で長らく発売されなかった。しかし、2011年にDVDがレンタル用、BDがセル用としてリリースされた。

作中の三船敏郎のセリフにおいて、日本語で日本人技術者等と話すセリフは本人の音声が使われ、主人公との会話での英語セリフは英語が第一言語のポール・フリーズによる吹替が使われている。当時のこうした外国人のセリフの言語によっての音声の切り替わりは普通であり、現在ではとても珍しい手法である[4]

出演を決めた三船は同時期にオファーを受けていた『007は二度死ぬ』の出演を断っており、その役は丹波哲郎が演じた[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年(平成24年))241頁
  2. ^ 原語音声の声は、ポール・フリーズが吹き替えている。
  3. ^ 西正「飛鳥井雅昭という男」『コンテンツホルダー優位の時代―ムービーテレビジョンの挑戦』中央経済社、2002年、20頁。ISBN 978-4502581007 
  4. ^ 現在では英語を話せるキャストを最初から選ぶのと、英語を話せないスターには正しく発音できるまで訓練させるから
  5. ^ The Japanese Greta Garbos? / 50th Anniversary 1967–2017」『JAMES BOND 007 MAGAZINE』、2017年。2023年10月3日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]