カーナティック条約

カーナティック条約を締結するアズィーム・ウッダウラ

カーナティック条約(カーナティックじょうやく、英語:Carnatic Treaty)は、1801年7月26日インドマドラスにおいて、イギリス東インド会社カルナータカ太守との間に結ばれた条約。

概要[編集]

18世紀後半、ムハンマド・アリー・ハーンの治世以降、カルナータカ太守は事実上イギリスの従属下に置かれていた。だが、その息子ウムダトゥル・ウマラー第四次マイソール戦争に加担した嫌疑をかけられ、そのさなか1801年7月15日に急死した[1]

同年7月26日、イギリスは甥のアズィーム・ウッダウラを後継者として認めたが、同時にカーナティック条約を締結させた[1]。この条約により、カルナータカ太守はその全権と全領土をイギリスに委譲せねばならず[2][3]、太守の領域にいたポリガールもその主権下を離れた。こうして、広大なカーナティックと呼ばれる地域がマドラス管区に組み込まれた。

その代りとして、太守には領土の5分の1から得られる歳入に相当する120万ルピーの年金が与えられ、イギリス保護下の年金受給者となった[1][4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Arcot 12
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.208
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.296
  4. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.76

参考文献[編集]

  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • 辛島昇『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目[編集]