オルダス・ハクスリー

オルダス・ハクスリー
Aldous Huxley
誕生 1894年7月26日
イギリスの旗 イギリス サリー、ゴダルミング
死没 (1963-11-22) 1963年11月22日(69歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス
職業 作家
言語 英語
最終学歴 オックスフォード大学ベイリオル・カレッジ
代表作すばらしい新世界』(1932年)
署名
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オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley [ˈɔːldəs ˈhʌksli], 1894年7月26日 - 1963年11月22日)は、イギリス著作家。後にアメリカ合衆国に移住した。ヨーロッパにおいて著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員。小説エッセイ旅行記など多数発表したが、小説によってその名を広く知られている。

姓の表記には、ハックスリーハックスリイハックスレーハックスレイハックスリなどがある。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

サリーゴダルミング英語版において、作家のレナード・ハクスリーとその最初の妻ジュリア・アーノルドの間に生まれる。

1908年、14歳の時に医者を志望しイートン校に入学したが、間もなく母親のジュリアが45歳で死去し、妹のロバータもその同じ月に別の事故で死去した。1911年には角膜炎を患い失明状態となり退学した。後に拡大鏡を使えば文字が読める程度には回復し、1913年オックスフォード大学ベイリオル・カレッジに入学し、英文学と言語学を学んだ。翌1914年第一次世界大戦が勃発するが、オルダスはその視力が原因で兵役を免れることが出来た。しかし同時期に失明中の彼の面倒を見てくれていた次兄のノエル・トレヴェリアン・ハクスリーが自殺している。1916年にオックスフォード大学を優等で卒業し、1917年にイートン校の教師となりフランス語を教えるが、1年で退職している。

文芸作家として[編集]

大学卒業後の20代で作家としてデビューした。1919年ベルギー人のマリア・ニス(ネイス、Maria Nys)と結婚、翌1920年に息子マシューが誕生している。1926年に来日している[1]

1932年の『すばらしい新世界』では、胎児の頃から生化学的に管理され、洗脳的な教育によって欲求が満たされ管理されていることに疑問すら抱かない市民が生きる管理社会であるディストピアを風刺した。

1937年に、眼の疾患の治療のためにアメリカ合衆国カリフォルニア州に移住する。なお彼の著書 The Art of Seeing によると、彼の視力の回復には、ベイツ・メソッド英語版の実践と、アレクサンダー・テクニークのレッスンを創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダーから受けたことが大いに役立ったそうである。

その後、神秘主義の傾向を強めていく。

神秘主義研究[編集]

ハクスリーは意識の拡張に関心をもっていた。1944年の著書『永遠の哲学』では古今東西の神秘主義者の思想を引用抜粋し、神的な実在を認識した人間の思想を研究した。特にインドの哲人ジッドゥ・クリシュナムルティとは長年家族ぐるみで親しく交流し、深い影響を受けた。精神科医のハンフリー・オズモンド英語版にハクスリー自らが幻覚剤のモルモットとなることを申し出る[2]1953年春、こうして幻覚剤メスカリンによる実験が開始された[3]。この時の主観と客観が合一する経験を記述したのが著書『知覚の扉』である。そして、その翌年1954年に『知覚の扉』が出版された。『知覚の扉』は、学者としての冷静な観察眼と作家としての筆力を軸に、仏教神学西洋哲学にも言及しながら絵画芸術の比較研究を行っている。『知覚の扉』は、60年代の意識革命の発端として評価が高く、ハーバード大学の幻覚剤研究者であるティモシー・リアリーの理論の主柱となり、リアリーの後継的な存在であるテレンス・マッケナにも大きく影響を与えた[3]ジョン・C・リリーもハクスリーの著作に強い影響を受けている。

1955年、妻マリアが乳がんのために死去。1956年には、ハクスリーとの文通の際に、ハンフリー・オズモンドがサイケデリックという単語を作り出した[4]。同年にイタリア系アメリカ人のローラ・アーチェラ(アルケーラ)英語版と再婚。

晩年には、これまでの神秘主義的な哲学やそのさまざまな分野を縦断する博学を凝縮し、ユートピアを描いた小説『』を書いた。自著の『島』にモクシャという解脱を誘発する物質が登場していたが、LSDの合成者である科学者のアルバート・ホフマンに『島』を贈呈するとき、「モクシャ剤の発見者ホフマン博士へ」というサインを添えた[5]

死とその後[編集]

1963年の終わりごろ、ハクスリーが危篤状態になったとリアリーに連絡をする[6]。そして、リアリーはハクスリーに『チベットの死者の書-サイケデリック・バージョン』にもとづいてLSDのセッションをしてくれと頼まれたが、死の際にハクスリーの妻にそれをやるように頼んだ[6]

1963年11月22日11時45分に[7]、ハクスリーはその死の床で、話すことが出来なかったため妻ローラに対して「LSD, 100 μg, i.m」(LSDを100マイクログラム筋肉注射して欲しい)と書いて渡した。彼女はそれに応えた。30分ほどたって彼女は効いてきたかと尋ねたが、ハクスリーはどんな薬品でも本当に強い効果が現れるまでは「効いていない」と答える性分だったため、ノーと答えた。その後2時間前の注射時と比べて多少の変化はあったが、ローラは2度目のLSD注投与を決意する。この2度目はあくまでも妻ローラの意思であって、ハクスリー本人に伝えると渋々了承したようである。その後、ハクスリーの足は次第に冷たくなり鬱血したような紫色に変化してきていた。最後の数週間、ハクスリーと妻ローラは寝る前の時間に「光り」や「解放」の話をよくしていたこともあり、妻ローラは旅立たんとするハクスリーに「あなたは真っすぐ前にそして高みに向かっている。光に向かって自分の意志で。美しく喜びに満ちて光りへと向かって進んでいる。今まで感じたこともないような大いなる愛へと向かって。」というようなことを最後の3時間から4時間のあいだ語りかけ続けた。看護師や医者や友人は病室内にいたが、ハクスリーのベッドからは離れていた。そして妻ローラが「私の声が聞こえる?」と問いかけると、ハクスリーはローラの手を握り返した。呼吸は次第にゆっくりになり、遂に17時20分に平穏に旅立った[7]。同日に発生したケネディ大統領暗殺事件のため、ハクスリーの死は影が薄くなった。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは親しい友人であったが、当時作曲中であった「管弦楽のための変奏曲」をハクスリーの追悼のために捧げ、1965年に初演している。

家族・親族[編集]

ハクスリー家はヨーロッパにおいて著名な科学者を多数輩出した一族で、祖父のトマス・ヘンリー・ハクスリーダーウィン進化論を支持した有名な生物学者、父のレナード・ハクスリー英語版は文芸雑誌を担当する文人であった。長兄のジュリアン・ハクスリーもまた進化論で有名な生物学者で評論家、1946年から1948年までユネスコ事務局長を務めている。異母弟のアンドリュー・フィールディング・ハクスリーノーベル生理学・医学賞受賞者。息子のマシュー・ハクスリー英語版も疫学者・人類学者として知られている。

主な著作[編集]

小説[編集]

  • 『クローム・イエロー』 - Crome Yellow 1921年
    • 「クローム・イエロー」森田草平訳 新潮社『世界文学全集 第2期6』1931年

短編集[編集]

  • 『二・三のグレス』 - Two or Three Graces 1926年
    • 井伊順彦訳 「二、三のグレース」『二、三のグレース - オルダス・ハクスリー中・短篇集』 風濤社 2012年 所収

[編集]

  • 『燃える車輪』 - The Burning Wheel 1916年
  • Jonah 1917年
  • 『青年の敗北』 - The Defeat of Youth 1918年
  • Leda 1920年
  • Arabia Infelix 1929年
  • The Cicadias and Other Poems 1931年

旅行記[編集]

  • 『路上にて』 - Along The Road 1925年
  • 『ピラトはふざけて』 - Jesting Pilate 1926年
  • 『メキシコ湾のかなた』 - Beyond the Mexique Bay 1934年

エッセイ集[編集]

  • 『オリーブの木』 - The Olive Tree and other essays 1936年
  • 『平和主義者の道』 - What are You Going To Do About It? 1936年
    • 北川悌二訳 南雲堂(英和対訳学生文庫)1962年 のち1972年再版
  • 『アドニスとアルファベット』 - Adonis and the Alphabet(イギリス版) - Tomorrow and Tomorrow and Tomorrow(アメリカ版) 1956年
  • 『すばらしい新世界再訪記』 - Brave New World Revisited 1958年
    • 『文明の危機 すばらしい新世界再訪記』 谷崎隆昭訳 雄渾社 1966年
    • 『素晴らしい新世界ふたたび』 高橋衞右訳 近代文芸社 2009年

その他[編集]

児童向け[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Donald Richie, The Honorable Visitors, Charles E. Tuttle Company, 1994
  2. ^ マーティン・A.リー、ブルース・シュレイン 『アシッド・ドリームズ-CIA、LSD、ヒッピー革命』越智道雄訳、第三書館、1992年、53ページ。ISBN 978-4807492039。(原著 ACID DREAMS The CIA, LSD and the Sixties, and Beyond, 1985)
  3. ^ a b オルダス・ハクスリー 『知覚の扉』 河村錠一郎訳、平凡社《平凡社ライブラリー》、1995年9月、159-168頁。ISBN 978-4582761153。(原著 The Doors of Perception 1954 & Heaven and Hell, 1956)
  4. ^ レスター・グリンスプーン、ジェームズ・B. バカラー 『サイケデリック・ドラッグ-向精神物質の科学と文化』 杵渕幸子訳、妙木浩之訳、工作舎、2000年。28頁。ISBN 978-4875023210
  5. ^ A.ホッフマン『LSD-幻想世界への旅』 堀正訳、榎本博明訳、福屋武人、新曜社、1984年、ISBN 978-4788501829。217頁。(原著 LSD-MEIN SORGENKIND, 1979)
  6. ^ a b ティモシー・リアリー 『フラッシュバックス』山形浩生ほか訳、ISBN 978-4845709038。269-270頁
  7. ^ a b レスター・グリンスプーン、ジェームズ・B. バカラー 『サイケデリック・ドラッグ-向精神物質の科学と文化』 杵渕幸子訳、妙木浩之訳、工作舎、2000年。366頁。ISBN 978-4875023210
  8. ^ ボストンでは禁止
  9. ^ ケン・ラッセル監督が『肉体の悪魔』(1971年)として映画化。同じ事件はヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』(岩波文庫)などにも描かれていて、イェジー・カヴァレロヴィチが同名の映画化(1961年)。
  10. ^ 短編集「浮き世の煩い」に収録。
  11. ^ 永遠の哲学を内容とする。
  12. ^ 本書のタイトルがドアーズのバンド名の由来となった。

参考文献[編集]

  • ローラ・ハクスレー『この永遠の瞬間―夫オルダス・ハクスレーの思い出』大野龍一訳、コスモスライブラリー、2002年10月、ISBN 978-4434025556

関連項目[編集]

外部リンク[編集]