オスカー・チャールストン

オスカー・チャールストン
Oscar Charleston
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 インディアナ州インディアナポリス
生年月日 1896年10月14日
没年月日 (1954-10-06) 1954年10月6日(57歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1915年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • インディアナポリス・ABC's (1915 - 1918)
  • ニューヨーク・リンカーン・スターズ (1915 - 1916)
  • バウザーズ・ABC's (1916)
  • シカゴ・アメリカン・ジャイアンツ (1919)
  • インディアナポリス・ABC's (1920)
  • セントルイス・ジャイアンツ (1921)
  • インディアナポリス・ABC's (1922 - 1923)
  • ハリスバーグ・ジャイアンツ (1924 - 1927)
  • ヒルデール・デイジーズ (1928 - 1929)
  • ホームステッド・グレイズ (1930 - 1931)
  • ピッツバーグ・クロフォーズ (1932 - 1938)
  • トレド・クロフォーズ (1939)
  • インディアナポリス・クロフォーズ (1940)
  • フィラデルフィア・スターズ (1941 - 1944)
  • ブルックリン・ブラウン・ドジャーズ (1945)
  • フィラデルフィア・スターズ (1946 - 1950)
  • インディアナポリス・クラウンズ (1954)
殿堂表彰者
選出年 1976年
選出方法 ニグロリーグ特別委員会選出

オスカー・チャールストン(Oscar McKinley Charleston、 1896年10月14日 - 1954年10月5日)は、1910~1950年代にかけてアメリカ合衆国ニグロリーグで活躍していた野球選手。現役時代の主なポジションは中堅手インディアナ州インディアナポリス生まれ。左投げ左打ち。走・攻・守に優れたニグロリーグのスター選手で、選手・監督として約40年の間ニグロリーグに関わっていた。

来歴・人物[編集]

チャールストンは1910年に14歳もしくは15歳でアメリカ陸軍に加わり、フィリピンに派兵された際に野球を始めたという。故郷インディアナポリスに戻った1915年に地元の野球チームに外野手として加わる。彼は持ち前の足の速さを生かし、当時活躍していたトリス・スピーカーばりの極端な前進守備をしいていた。1916年、シカゴ・アメリカン・ジャイアンツとのブラック・ワールドシリーズに出場し、所属していたABC'sをシリーズ制覇に導く活躍をした。当時は優れた走力に加え、攻撃性をむき出しにした走塁スタイルと、短気な性格があいまって、チャールストンのプレーを見た人の多くは、彼をタイ・カッブと比較したという。

その後何チームかを渡り歩いた後、1920年にニグロ・ナショナル・リーグが創設された際、チャールストンはリーグを統率していたルーブ・フォスターの戦力均衡策に従って、シカゴを離れインディアナポリスに復帰する。1921年にはセントルイスに所属し、50試合で79安打、三塁打10、14本塁打、28盗塁、打率.426と、5つの部門でリーグ最高の成績を上げた。1924年、1925年はイースタン・カラード・リーグのハリスバーグの監督兼任選手を勤め、1925年には打率.445でリーグ首位打者となり、チームをリーグ2位まで押し上げた。

1930年にはスモーキー・ジョー・ウィリアムズジュディ・ジョンソンジョシュ・ギブソンらが所属するホームステッド・グレイズの一員となるが、1932年にチーム所有者の意向で、チャールストンはピッツバーグ・クロフォーズに移籍させられることになった。ピッツバーグには1938年まで在籍し、1933年~1935年にはニグロリーグの東西オールスター戦に3年連続で出場、また監督としても1935年にクロフォーズをニグロ・ナショナル・リーグ制覇に導いている。

1940年代以降は主にフィラデルフィア・スターズの監督として過ごしたが、その傍らで、1945年にブランチ・リッキーが整備したマイナーリーグのスカウトとしても働いていた。1954年10月に、インディアナポリス・クラウンズの監督在任中に脳卒中で倒れ死去。1976年ニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。

記録・表彰等[編集]

出典・外部リンク[編集]