エリー・グレニッチ

エリナー・ルイーズ・グレニッチ(Eleanor Louise "Ellie" Greenwich、1940年10月23日 - 2009年8月26日[1])はアメリカ合衆国の歌手・ソングライター・プロデューサー。

代表作に「ビー・マイ・ベイビー」「ハイ・ロン・ロン英語版」「ハンキー・パンキー」「リーダー・オブ・ザ・パック」「愛のチャペル」「ドゥー・ワ・ディディ・ディディ」「リヴァー・ディープ、マウンテン・ハイ」などがある。

初期[編集]

水色がブルックリン地区

ブルックリン生まれ。

父親は絵描き・電気技師・カトリック信者のウィリアム[2]、母親は百貨店支配人のロシア系ユダヤ人ローズ(旧姓バロンBaron)だった[2][3][4][5]

一説によると彼女はルーズヴェルト大統領夫人エレノアにちなんで名づけられ、カトリック、ユダヤ教のどちらでもなく育てられた。両親が家で音楽を演奏していたので幼いころに音楽に夢中になり、アコーディオンを習得した[2][6]10歳で両親と妹ローラと、ニューヨーク郊外のレヴィットタウン(レヴィットという人物が開発した、量産型の家が並ぶ町)に引っ越し[7]

ティーンの頃から作曲し、ピアノを独学。高校で友人二人と歌のグループ「ジヴェッツ」を結成、地元で歌っていた[8]。 高校に通いながら、アコーディオンで、自分の経験からラブソングを作るようになった[2]。高校を卒業するとマンハッタン音楽学校を受けたが、アコーディオン奏者を受け付ける科がなかったので落ち、クイーンズカレッジに入った。[2]

17歳で、RCAに最初の、自分で書いたシングル『シリー・イズント・イット』『チャチャチャーミング』を録音[2]。芸名はエリー・ゲイで、『マイ・ボーイ・ロリポップ』のオリジナルを歌ったバービー・ゲイにちなんでいた[6](しかし、ある伝記によればGreenwichの発音が難しいことを嫌ったRCAが決めた名前だとのことである[2])。 1958年に『チャチャチャーミング』が発売された当時、教授からポピュラー音楽をやっていることをけなされ激昂した彼女はホフストラ大学に移籍した。

ジェフ・バリーとの共同作業[編集]

1959年、ジェフ・バリーと出会う。 彼は遠縁だったので子供のころに知り合っていたが、大人になってから初めて会ったのは、バリーのいとこと結婚した、グレニッチの母方の叔父が開いた、感謝祭の夕食会でのことだった。グレニッチはアコーディオンを持ってきていたんで、バリーは「彼女も音楽が好きなんだ」と思った。バリーは最初の妻と結婚していて、一緒に夕食会に来ていたので、すぐにロマンスにはならなかった。バリーが離婚すると付き合い始めたが、音楽的にはまだ別のキャリアを歩んでいた[2]

1962年、学生時代、ブリル・ビルディングにJohn Gluck, Jr.(レスリー・ゴーアのIt's My Partyの作家のひとり)に会いに行って道が開けた。 別の用件があったグルックは、グレニッチをある部屋に入れると行ってしまった。 そこはたまたまリーバー・ストーラーの部屋だった。 部屋からピアノの音が聴こえてきてジェリー・リーバーはキャロル・キングの来訪を想定して部屋を覗いたところ、そこにいたのはグレニッチだった。彼女は自己紹介し、そこにいる理由を説明した。 彼女のソングライターとしての才能に気づいたリーバーは、彼女はスタジオをいつでも使っていいという旨を伝える。後にリーバー=ストーラーは音楽出版社Trio Musicのスタッフ・ライターとして彼女と契約した。

バリーの前にBen RaleighandやMark Barkanと組んでいた。また裏方としてデモ・テープで歌いまくり「デモ・クイーン」と呼ばれた[5]。 この時期の最大ヒットはTony Powersとの共作で、

など。後ろの二つを共作・制作したのはフィル・スペクター

結婚後[編集]

1962年10月28日、バリーと結婚。二人で曲を書くことにし[2]、バリーもTrio Musicと契約、彼ら専用の事務所を与えられた。

1963年末、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」「ベイビー・アイ・ラブ・ユー」、クリスタルズの「キッスでダウン」「ハイ・ロン・ロン英語版」、Bob B. Soxx & the Blue Jeans「Not Too Young To Get Married」、ダーレン・ラヴの「Christmas (Baby Please Come Home)」などがヒットし、彼らは大成功を収めた。共作・制作はすべてスペクター。

夫妻はThe Raindropsの名前でシングル、アルバムを録音、グレニッチがオーバーダビングですべての女性ヴォーカルを、バリーがバス声を受け持った。「What A Guy」が最初のシングルで、「The Kind Of Boy You Can't Forget」がトップ20ヒットになった。

彼らの歌った「ハンキー・パンキー」はトミー・ジェームズ&ザ・ションデルズがカバーし1966年に全米1位を記録。

1964年にマンフレッド・マン「Do Wah Diddy Diddy」が英米でトップに立つ。

1963年末、The Raindropsは「That Boy John」を録音、中ヒットになった。ジョンF.ケネディー大統領が暗殺されたばかりで、ラジオ局は再生をいやがったそうだ。

彼らはコニー・フランシスレスリー・ゴーアにも曲を提供した[要出典]

1964年にリーバー=ストーラーがRed Bird Recordsを設立したとき、彼らはソングライター・プロデューサーとして引き抜かれた。最初のリリースはフィル・スペクターと共作した、ディキシー・カップスの「愛のチャペル」。全米1位を記録。

続いてRed Birdに曲を書き、

  • The Ad-Libs "He Ain't No Angel" "Remember",
  • The Jelly Beans "I Wanna Love Him So Bad"、
  • The Shangri-Las "Leader of the Pack"(George "Shadow" Morton共作)

などがヒットした。[9][10][11]

離婚後[編集]

1965年、グレニッチは『You Don't Know』,バリーは『Our Love Can Still Be Saved』を録音発表[12]

しかし、結婚生活は救われず、年末に離婚。

1966年は仕事をいっしょに続けた。このころグレニッチはニール・ダイアモンドという新しい才能を発見し、バリーと三人でTallyrand Musicという音楽出版社を設立し、ダイアモンドの歌を出版した。

ダイアモンドは続いてバート・バーンズ英語版Bang Recordsと契約し、"Cherry Cherry" "Kentucky Woman"などがヒットした。マン=グレニッチはプロデュースを担当し、バック・コーラスも歌った。

その後、元夫妻は1966年のロネッツアイ・キャン・ヒア・ミュージック』(1969年にビーチ・ボーイズがカバー)、Ike and Tina Turner『River Deep - Mountain High』で最後にもう一度スペクターと組んだ。Philles labelでの彼らの最後のシングルとなった。 『River Deep』はイギリスで3位となったが、アメリカでは商業的に失敗し、88位に留まった。

数年後、1970-71年にシュープリームスフォー・トップスによる『River Deep』は14位のヒットになった[13]

キャリア後半[編集]

1967年、マイク・ラシュコウとパインウッド・ミュージック(Pineywood Music)という会社を設立し[7]、数年にわたってダスティ・スプリングフィールド、The Definitive Rock Chorale、The Other Voices、The Fuzzy Bunnies, The Hardy Boysに楽曲を提供した。

1968年に初ソロ・アルバム『Ellie Greenwich Composes, Produces and Sings』をリリース、『Niki Hoeky』が日本で1位、『I Want You to Be My Baby』もヒットした。 ダスティ・スプリングフィールド、ボビー・ダーリンルー・クリスティフランク・シナトラELOブロンディシンディ・ローパー、Gary U.S. Bondsなどのヴォーカルアレンジ、コーラスなども担当したほか、バリーの会社でも歌った。

Steve Tudanger,Steve Feldmanと出会い、ラジオやテレビのジングル制作を専門とする会社ジングル・ハビタット(Jingle Habitat)を設立した。また、Tudanger とFeldmanは、グレニッチのセカンド『Let It Be Written, Let It Be Sung』(1973)の制作にも参加している。

提供曲のうち、リーバー=ストーラーのプロデュースの元、エルキー・ブルックス英語版に提供した『Sunshine After The Rain』(『Two Days Away』収録)はイギリスでヒットした。 ラシュコウとの共作が1971年に終わると、エレン・フォーリー英語版とJeff Kentとチームを組み、 ノーナ・ヘンドリックス英語版に提供した『Keep It Confidential』は、1983年R&Bチャートでヒットした。また、同年、ケントとシンディー・ローパーと一緒に制作した『ライト・トラック・ロング・トレイン』(Right Track Wrong Train)は、ローパーのソロデビュー作『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン』のB面に収録された[14]

遺産[編集]

1984年,彼女の人生と音楽を扱ったミュージカル『Leader of the Pack』が公開、彼女自身も出演。トニー賞グラミー賞を受賞。何度かリバイバルしている。

1991年、バリーとソングライターの殿堂入り。

2004年、ローリング・ストーン誌の「最も偉大なロックソング500」に6曲が入り、作曲専門としては最多だった[15]

1964年だけで17曲がチャート入りした。

2010年、ロックの殿堂の最高栄誉賞「アーメット・アーティガン賞」受賞[16]

式典ではキャロル・キングが、バリーマンシンシアワイル・Otis Blackwell・モルト・シューマン・Jesse Stoneなどといっしょにバリー=グレニッチを殿堂入りさせた[17][18]

死去[編集]

2009年8月26日,ニューヨークのSt. Luke's Roosevelt Hospitalで心臓発作で亡くなった。数日前に肺炎で入院していた[8]

2010年2月3日、パティ・スミスがカリフォルニアのSanta Monica Pierで即興で『BE My Baby』を歌い、グレニッチに捧げた。

2009年9月20日、シカゴのUnited Centerで、ブルース・スプリングスティーンとEストリートバンドが『ハイ・ロン・ロン』を歌った。スプリングスティーンは曲紹介で、グレニッチを「すばらしいロックとソウル・ソングライター"incredible rock and soul songwriter"」と呼んだ。

参照[編集]

  1. ^ Profile, theatermania.com; accessed January 15, 2014.
  2. ^ a b c d e f g h i Emerson, Ken (2006). Always Magic in the Air: The Bomp and Brilliance of the Brill Building Era. Penguin Books. pp. 130–131 and 134. ISBN 0143037773. https://books.google.co.jp/books?id=H7N3tPSny6AC&pg=PT130&lpg=PT130&dq=Queens+College+Ellie+Greenwich&source=bl&ots=HvsxUiiH_Y&sig=xpy0F5wqQdxgNwxRSftapfiqolo&hl=en&sa=X&ei=ALVzUI26EMPq2QW4sIGADw&redir_esc=y 2012年10月7日閲覧。 
  3. ^ Williams, Richard (August 27, 2009). “Ellie Greenwich”. guardian.co.uk. http://www.guardian.co.uk/music/2009/aug/27/ellie-greenwich-obituary 2012年10月9日閲覧。 
  4. ^ Powers, Ann (2009年8月26日). “Appreciation: Ellie Greenwich: mover and shaper of American pop”. Los Angeles Times. http://latimesblogs.latimes.com/music_blog/2009/08/appreciation-ellie-greenwich-mover-and-shaper-of-american-pop.html 2009年8月26日閲覧。 
  5. ^ a b Brooks, Dave Lincoln (2003年10月). “AN INTERVIEW WITH ELLIE GREENWICH”. Retrosellers. 2009年8月27日閲覧。
  6. ^ a b Gee Ellie Gee”. chachacharming.com. 2012年10月9日閲覧。
  7. ^ a b Greig, Charlotte. “Ellie Greenwich interview”. Spectropop. 2009年8月26日閲覧。
  8. ^ a b Moody, Nekesa Mumbi (2009年8月26日). “Ellie Greenwich, `Chapel of Love' co-writer, dies”. Associated Press. http://seattletimes.com/html/entertainment/2009743554_apusobitgreenwich.html 2009年8月26日閲覧。 
  9. ^ Rolling Stone
  10. ^ R.I.P. "Be My Baby" Writer Ellie Greenwich”. Pitchfork (2009年8月26日). 2009年8月27日閲覧。
  11. ^ Bronson, Fred (2003). The Billboard Book of Number 1 Hits. Billboard Books. ISBN 0-8230-7677-6. https://books.google.co.jp/books?id=PgGqNrqfrsoC&pg=PT169&redir_esc=y&hl=ja 2009年8月26日閲覧。 
  12. ^ Unterberger, Richie. “You Don't Know (Ellie Greenwich) review”. Allmusic. 2009年8月27日閲覧。
  13. ^ Whitburn, Joel. The Billboard Book of Top 40 Hits: Revised and Enlarged, Billboard Books, New York, 1992, p448
  14. ^ Discogs (2012年). “Cyndi Lauper – Girls Just Want To Have Fun”. Discogs. Discogs. 2012年8月6日閲覧。
  15. ^ “Ellie Greenwich Ellie Greenwich, who has died aged 68, co-wrote some of the most enduring pop songs of the 1960s and collaborated with the "Wall of Sound" producer Phil Spector on such classics as Da Doo Ron Ron, Be My Baby (both 1963), and River Deep – Mountain High (1966).”. The Daily Telegraph (London). (2009年8月27日). http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/culture-obituaries/music-obituaries/6100832/Ellie-Greenwich.html 2010年5月1日閲覧。 
  16. ^ Rock and Roll Hall of Fame: Inductees”. Rockhall.com. 2012年3月31日閲覧。
  17. ^ "Rock Hall welcomes Genesis, ABBA, Iggy" by David Bauder, Associated Press via torontosun.com, March 16, 2010 11:34am. Retrieved 2010-03-16.
  18. ^ Statue celebrates singer Ellie Greenwich WABC TV News May 7, 2013

参考[編集]

外部リンク[編集]