エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァ

エリザヴェータ・ロマノヴナ・ヴォロンツォヴァ
Елизавета Романовна Воронцова
農学者アンドレイ・ボロトフロシア語版によるスケッチ(1760年代)。彼は自己の回想録の中で、エリザヴェータを「ふくれた顔」をもつ「太った野暮な」女性と評している[1]
紋章
配偶者 アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ポリャンスキーロシア語版
子女 アンナ
アレクサンドルロシア語版
称号 聖エカチェリーナ勲章ロシア語版
職務 女官
家名 ヴォロンツォフ家ロシア語版
父親 ロマン・イラリオノヴィチ・ヴォロンツォフロシア語版
母親 マルファ・イヴァノヴナ・スルミナ
出生 1739年8月13日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
死亡 1792年2月2日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
サンクトペテルブルク
テンプレートを表示

エリザヴェータ・ロマノヴナ・ヴォロンツォヴァロシア語: Елизавета Романовна Воронцова1739年8月13日 - 1792年2月2日)は、ロシア帝国の貴族。皇帝ピョートル3世の愛人として知られる。彼はエリザヴェータと結婚するために、皇后エカチェリーナ・アレクセーエヴナ(後の大帝エカチェリーナ2世)との離婚を画策していたとされる[2]

女帝エリザヴェータの治世末期、彼女の叔父であるミハイル・ヴォロンツォフロシア帝国宰相ロシア語版に就任した。また、父親のロマン・ヴォロンツォフロシア語版は、ウラジーミルペンザタンボフコストロマなどの都市を領有するなど、ヴォロンツォフ家ロシア語版は権力の絶頂に達しており、エリザヴェータは帝国の最有力貴族層に身を置いていた。

ピョートル3世の寵愛を一身に受け、彼の在位中は皇后エカチェリーナをも凌ぐほどの地位に上り詰めた。

経歴[編集]

1750年に母マルファが死去すると、11歳のエリザヴェータはオラニエンバウムにあるエカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公妃宮殿英語版に仕えることとなった。そのときの記録によれば、エリザヴェータは「兵士のように悪態をつき、目は斜視で臭いがひどく、おまけに話しながら唾を飛ばす」と、非常に野暮ったかった[3]フランス王国ブルトゥイユ男爵ルイ・シャルル・オーギュスト・ル・トノリエは、彼女の容姿を「最も身分の卑しいスカラリーメイド」のそれと比較している[4]。エカチェリーナ自身は、彼女について「オリーヴ色の肌をした、とても醜く、非常に不潔な子供」だと書き残している[5]。このように周囲からは散々な評判であったにもかかわらず、皇太子ピョートル・フョードロヴィチ大公(後の皇帝ピョートル3世)は彼女への愛を深めていたので、宮廷はピョートルを思いとどまらせるのに非常に手を焼いた。彼はエリザヴェータのことを「私のロマノヴァ」(エリザヴェータの父称であるロマノヴナと、大公の家名であるロマノフとをかけた洒落)と呼んでいたが、その間エカチェリーナは当てつけるようにして、彼女のことを「新しいポンパドゥール夫人[6]と呼んでいた。

大公がピョートル3世として皇帝に即位した1762年1月以降、彼は聖エカチェリーナ勲章ロシア語版をエリザヴェータに贈り、新しく建てられた冬宮殿の自室の隣に彼女の部屋を用意させた[7]。また、エリザヴェータはピョートルと小旅行やアバンチュールを繰り返していた。まるでおしどり夫婦のような二人の様子から、外国の駐露大使は自国政府に対し、皇帝はエリザヴェータと結婚するため、皇后エカチェリーナを修道院に追放するつもりだと報告するに至った。これらの噂が、エリザヴェータの妹であるエカチェリーナ・ダーシュコワと皇后エカチェリーナが結託した理由と考えられ、ついにクーデターロシア語版へと発展することになる。在位僅か半年で帝位から追い落とされたピョートルだが、直後迎えた彼の不可解な死に、エカチェリーナが関与していたかどうかは今日までの論争である[8]。ピョートル廃位後の彼女の動きについては、「夫に関して、エカチェリーナは彼を牢獄へ放り込み、同情は見せなかった。自室から彼のベッド、愛犬、ヴァイオリン、そして主治医を連れてくる許可を求めた、彼の心からの度重なる願いを、彼女は拒否した。彼女は、ピョートルと彼の愛人が二度と会えないように手をまわしていた。」と説明されている[9]

エカチェリーナ2世は自らの回想録の中で、ヴォロンツォヴァに言及する際は一切の手加減をしていない。1762年6月の書簡では、彼女はヴォロンツォフ一族が私を修道院に押し込め、自分の親族を帝位に即ける企てをしていると主張している[4]

クーデターにより帝位を追われ、重臣も次々に寝返る中で孤独に陥ったピョートル3世だったが、エリザヴェータは最後までそばに居続けた。彼女は、ピョートルが彼の故郷であるホルシュタインに追放され、二人で残りの時間を過ごすことを望んでいた。しかしながら、彼の突然死により、その願いが叶うことはなかった[7]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Bolotov, 1871: p. 196
  2. ^ Klyuchevsky 1997:47
  3. ^ Kaus 1935
  4. ^ a b Anisimov, 2004: p. 276
  5. ^ Memoirs, 1907: p. 295
  6. ^ Sukhareva, 2005
  7. ^ a b Sukhareva, 2005
  8. ^ "While Catherine probably had no direct role in the murder of her own husband, Peter III, she did nothing to punish those responsible for the crime and even promoted them." Catherine II, Empress of Russia. 1907. Записки императрицы Екатерины II (Memoirs of Empress Catherine II). St. Petersburg: Izdanie A.S. Suvorina (A.S. Suvorin Publishing)
  9. ^ "A Tsar Is Born" (review by Maureen Callahan of Catherine the Great - Portrait of a Woman by Robert K. Massie in The New York Post (Postscript, p. 30), Sunday, January 1, 2012
  10. ^ Sakharova 1974: pp. 92-94

参考文献[編集]

  • Anisimov, Evgeniĭ Viktorovich. 2004. Five empresses: court life in eighteenth-century Russia. Westport, CT: Greenwood.
  • Bolotov, Andrei. 1871. Жизнь и приключения Андрея Болотова, описанные самим им для своих потомков [Life and adventures of Andrei Bolotov, related by he himself for his descendants]. Vol. 2. St. Petersburg.
  • Catherine II, Empress of Russia. 1907. Записки императрицы Екатерины II [Memoirs of Empress Catherine II]. St. Petersburg: Izdanie A. S. Suvorina (A. S. Suvorin Publishing).
  • Khronos (online encyclopedia of Russian history). No date. Biographical entry for Roman Vorontsov (in Russian).
  • Kliuchevskii, Vasilii. 1997. A course in Russian history: the time of Catherine the Great. Armonk, NY: M.E. Sharpe. (Translation of a 19th-century work.)
  • Kaus, Gina. 1935. Catherine; the portrait of an empress. Translated from the German by June Head. NY: Viking. Russian trans. online.
  • Sakharova, Y.M. 1974. Алексей Петрович Антропов, Aleksei Petrovich Antropov. Moscow: Iskusstvo.
  • Sukhareva, O.V. 2005. Воронцова Елизавета Романовна [Vorontsova, Elizaveta Romanovna]. In Кто был кто в России от Петра I до Павла I [Who was who in Russia from Peter I to Paul I]. Moscow.