ウスマーン版ムスハフ (冊子本)

『ウスマーン版ムスハフ』(ウスマーンばんムスハフ)とは、3代目正統カリフであったウスマーン・イブン・アッファーンによって編纂されたクルアーンウスマーン写本冊子本の形にしたものである。

概要[編集]

日本において、クルアーンと呼ばれている印刷された宗教書について見ると、イスラーム教徒は、それをムスハフと呼んでいる。イスラーム教徒の基本的な考えとしては、クルアーンとは、礼拝し神の啓示の章句を唱えることの中にのみあるものとされている。そのため、黙読でも読める本の形を持ったクルアーンの冊子本については、「クルアーン」そのものではないとされている[1]。 冊子本の形となった宗教書としてのクルアーンは、イスラーム教徒によれば、「ムスハフ」であると分類されている。また、本文のみのムスハフに加えて、学者の解説や注釈が含まれると、さらに別の呼び名となるとされる。それらのうちにはタフスィールと呼ばれているものがある。タフスィールとは、ムスリムの手によるムスハフの注釈書のことである。さらにそのムスハフをアラビア語以外の外国語翻訳した本は、ムスハフとはされていない。それらは、ムスハフの解釈本であるとされている[2]

タフスィール[編集]

ムスハフ本文に注釈や解説が書いてある冊子本は、ムスリムの手によるものであっても、クルアーン(ムスハフ)とはされていない。それらは、タフスィール と呼ばれている。日本で発刊されているところのムスハフの翻訳本は、異教徒による注釈や解説が含まれている。そのため、それは、タフスィールでもないとされている[3]。 ムスハフ本文には、クルアーンの学習や論争について、イスラーム教徒は、それをするときは、異教徒を除外しなさいという規定が存在している。そのことから、ムスハフ解釈本には、本文のほかに、注釈や解説がついていてはならない、とイスラム教の学者は考えているように見える。

クルアーン改ざん説[編集]

9世紀後半から10世紀前半にかけて、ウスマーン版のムスハフについての削除改ざん説があったとされている。また、当時、ウスマーン版のムスハフがムハンマドに啓示された通りのものであるかどうかについて、疑念を抱いていた学者も存在していたとされている[4]

ウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立[編集]

その後、10世紀終わりには、ムスハフに改ざんがあったという学者の主張が非難されるようになっていったとされる。そして、11世紀になってからウスマーン版ムスハフの完全性の教義の確立がなされていったとされている[5]。したがって、ムハマンドが死んでから300年くらいの間は、現在のような「ウスマーン版のムスハフは完全なものだ」という教義は、確立していなかったと見ることが出来る。

多様な方言を用いた啓示[編集]

歴史的に見ると、ムスハフは、神がかりの状態になった人間が、恍惚状態のなかで口走った言葉を書物にしたものである。啓示をしたのは誰か、ということについて、客観的にはっきりしたことを証明することはできない。それは、知ることのできない何者かが為したことである、とする見解がある。

啓示全体が下された20年余りの時期を、三期に分ける研究の仕方が一般的であるとされている。最初期の啓示の文体は、荘厳で詩的なものであった。それは、シャーマンや巫者が用いるところの、「カーヒン」と呼ばれる、神霊的言語形式であったとする見解がある。啓示してくる霊的存在のなすがままに、ムハンマドは、異様な言葉を吐くという状況であったとされる。激しい苦痛と苦悩のうちにそれは行われた[6]。最初期の時代の啓示には、神の威厳が大変強く現れているとされている。宗教的緊張感を伴った、これらの神的な啓示は、最初期の時期に特有のものであるとされている。しかし、やがて、メディナ期になると、ムハンマドの問題提起に応じて、神の「お答」が下されるという、弛緩して身体的にもゆるやかな散文形式の啓示となったとされる[6]

啓示が下された当時、それらの啓示がすべて神よりもたらされたものと判断したのは、ムハンマドである。ほとんど場合、彼の自己意識は喪失した状態で、神の言葉を口が勝手に語る、という状態だったようだ。しかし、ムハンマドは霊の声を聴くことはできたが、霊を見ることは時々しかできなかったようだ。はじめて啓示が下されたとき、彼は自分が悪霊につかれたものと判断した。それが神よりの啓示であると直感したのは、彼の妻であった[7][注 1]

ムハンマドが生前に語った言葉として、クルアーンは七種類の方言で語られたという見解がある。また、クルアーンの啓示の中には、当時のアラブ商人の言い回しと商売用語を使う場合もある[8]。そのほかに、章の始めに意味不明な頭字を使用している啓示もある[9]。トランス状態になった時に、ムハンマドに啓示の下ることが多いようであるが、トランス状態になっても、啓示の降りないときもあったとされる[10]。 また、ムハンマドの意識が残ったままで下されるという特色を持った初期の啓示もある[注 2]。そのように、神の啓示は、時代を経るごとに複雑になっていった。そうした複雑な神の啓示を、時代ごとに分類するのではなく、いろんな時代の啓示を一つの章にごちゃごちゃにしてある。そのように編集してあるのが、ウスマーン版ムスハフであると言える。

ウスマーン版ムスハフの構成[編集]

ウスマーン版ムスハフは、神の啓示を年代順にまとめて章を構成していない。その中には、『クルアーン』の編集時において、初期啓示が、改訂されて、後期啓示として編集されているものもある、とする研究もある[12]。預言者の権威を確立させている箇所はすべてメッカで啓示されたものである、という見解は、ムスリムにおけるクルアーン研究においては基本的なものであるとされる[13]。各章には、メッカ啓示メディナ啓示の区分けがされている[注 3]

また、クルアーン全体に関して、バスマラと呼ばれる句のある章句とない章句とがある。この観点から、啓示全体を二つに分けることも可能であるといえる。バスマラがないのは9章のみであるが、9章は剣の句があり慈悲とは相反する傾向を打ち出している。9章は全体として宣戦布告に関する内容であるとされる[14][15]。「多神教徒は神の子供に女の名前を付けたりする」、という啓示がある。そのことから見えてくることは、編集者がバスマラをつけなかったのかもしれない、ということだ。もうひとつは、9章の啓示を下した霊的存在が、「神に女の名前は不要」としたことも考えられる[注 4]。バスマラの性質としては、慈悲深い神のことを示したものである。アラビア語では「慈悲あまねく(アッラフマーン)」という語と、「慈悲ぶかき(アッラヒーム)」という語は、文法的に女性名詞であるとされている[16]。 また、17章110節は、神の名をアッラー(男性名)と呼ぶか、ア・ラーフマン(女性名)と呼ぶかについて論争があったことを示している、とされている[17]

ウスマーンの時代の領土[編集]

第二代カリフのウマルの領土拡大について、それは、神から世界征服を命じられた、というようなものではない、ということである[18]。イスラーム教が支配する前の時代において、アラブ人は、砂漠で生き延びてゆくために、部族と部族とが闘争し、略奪を行ってきた。それによって、彼らは不足している生活物資を補ってきたとされる。しかし、イスラーム教の方針により、ウンマに属する部族どうしの略奪行為が禁止されたため、彼らは、国内では略奪行為ができなくなった。そこで、略奪による利益と、ウンマの統一を守るという共通の目的のために、ウマルは、近隣諸国に次々に略奪を仕掛けることとなったとされる[19]

第二代カリフウマルの時代、彼が略奪戦争を始めたことにより、シリアパレスチナエジプトの全土を支配下に置くことになった。ウスマーンの時代には、それからさらに領土は拡大していった[19]。 このような状況下において、彼はムスハフの編纂を行ったのである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ナザレのイエスは、霊の声を聴くことも、霊の姿を視ることもできたとされている。悪魔が試みに来たときには、彼はそれが悪魔であるとはっきり認識できたとされる。霊視ができない場合、人は、誘惑してくる霊的存在に対して、大きな弱点をもっていると言える。
  2. ^ そのときは、「自分の肉体から魂がひきはなされたように苦しい、と思いながら、啓示を受けていた」とムハンマドは語ったとされている。[11]
  3. ^ それにもかかわらず、啓示区分を混ぜて編纂してある現状は、編集する前の状態からそうであったのか、ウスマーンが指示したのかは不明である。当時のウスマーンは、帝国の指導者という立場にあった。そのため、神の権威を尊重した構成に編集する、ということは、最も重要な目的にはならなかったのではないかと見ることが出来る。
  4. ^ これはヒジュラの時の、男の誓い・女の誓いという区わけの仕方と関連があると見ることもできる。

出典[編集]

  1. ^  『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 P125 後藤
  2. ^  『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 P69 松山
  3. ^ 『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子著 講談社 2004年P64
  4. ^  『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 P325 平野
  5. ^  『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 P327 平野
  6. ^ a b 『コーラン 上』井筒俊彦著 岩波書店 1957年 P300 解説
  7. ^ 『マホメット』井筒俊彦 岩波書店 1989年 P88
  8. ^ 『コーラン 1』池田修 中央公論新社 2002年 P25 前書き
  9. ^ 『コーラン 上』井筒俊彦 岩波書店 1957年 P12
  10. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P194
  11. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳 2016年国書刊行会 P55
  12. ^ 『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 中央公論新社 2002年 P252 注1
  13. ^ 『一冊でわかる コーラン』マイケル・クック著大川玲子訳 岩波書店 2005年 P170
  14. ^ 『コーラン 1』池田修 中央公論新社 2002年 P12 イスラムの聖典(前書き)
  15. ^ 『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 中央公論新社 2002年 P252  注1
  16. ^ 『ムハンマド』カレン・アームストロング著徳永理沙訳国書刊行会2016年P59
  17. ^ 『コーラン 1』前書き 池田修 中央公論新社 2002年P12
  18. ^ 『イスラームの歴史』カレン・アームストロング著 小林朋則訳 中央公論新社 P39
  19. ^ a b 『イスラームの歴史』カレン・アームストロング著 小林朋則訳 中央公論新社 P36

参考文献[編集]

  • 『クルアーン入門』松山洋平編 作品社 2018年 松山洋平 小布施祈恵子 後藤絵美 下村佳州紀 平野貴大 法貴 遊 共著

関連項目[編集]