アーサー・フィードラー

アーサー・フィードラー
1968年
基本情報
生誕 (1894-12-17) 1894年12月17日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 (1979-07-10) 1979年7月10日(84歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
アーサー・フィードラー(1969年)

アーサー・フィードラー(Arthur Fiedler, 1894年12月17日 - 1979年7月10日)は、アメリカ合衆国指揮者

来歴[編集]

フィードラーは1894年12月17日、マサチューセッツ州ボストンで生まれた。父はオーストリア出身のヴァイオリニストであり、ボストン交響楽団に所属、母はピアニストという音楽一家であった。フィードラーはボストンで育ち、父親が引退してオーストリアに戻るまでボストン・ラテン・スクールで学んだ。

第一次世界大戦が始まるとヨーロッパで学んだり働いたりしていた。1909年にフィードラーの父は、フィードラーをベルリンに送りヴィリー・ヘスの元でヴァイオリンの勉強をさせた。1915年には、ボストン交響楽団(当時の指揮者はカール・ムック)にヴァイオリニストとして入団している。フィードラーはそこで、ピアニスト・オルガニスト・打楽器奏者なども務めた。

フィードラーは、1924年に交響楽団のメンバーによる室内楽団ボストン・シンフォニエッタを立ち上げ、無料の屋外コンサートを始めるようになる。1930年にはボストン・ポップス・オーケストラの第18代指揮者に就任し、半世紀にわたってその職を務めた。

日本では読売日本交響楽団を指揮して演奏会を開いた。

「消防オタク」であり、自身で消防車両を所有した。日本でも消防庁音楽隊との交流を持った。

1977年7月10日には、ジェラルド・R・フォード大統領より大統領自由勲章を授与された[1]

1979年7月10日、フィードラーはマサチューセッツ州ブルックリンで亡くなった。85歳。フィードラーの死後、ボストン市ではフィードラーに敬意を表しBoston Esplanade(今日まで続く無料コンサートの会場)の前にフィードラーの胸像を作った。

人物[編集]

フィードラーは長い間ボストン・ポップス・オーケストラの指揮者を務め、その音楽的な才能と興行の手腕により同オーケストラの知名度を高めた。しかし一部には、フィードラーがポピュラー音楽クラシックの曲の一部を都合がいいように編集することを批判する声もあった。

フィードラーの元でボストンポップスは多くのレコーディングを行い、レコード、カセットなど音楽ソフトの総売上はどこのオーケストラよりも多い5000万ドルを記録している。フィードラーはまた、サンフランシスコ・ポップス・オーケストラで夏場に26回の共演を果たすなど世界各地のオーケストラを指揮している。

脚注[編集]

  1. ^ アーサー・フィードラー | History of music” (2017年9月21日). 2022年12月16日閲覧。