アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク公)

アドルフ・フリードリヒ2世
Adolf Friedrich II.
メクレンブルク=シュトレーリッツ公
在位 1701年 - 1708年5月12日
先代 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
次代 アドルフ・フリードリヒ3世
配偶者
  • マリア・フォン・メクレンブルク=ギュストロー
  • ヨハンナ・フォン・ザクセン=ゴータ
  • クリスティアーネ・エミリエ・フォン・シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン
子女
家名 メクレンブルク=シュトレーリッツ家
父親 アドルフ・フリードリヒ1世
母親 マリア・カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク
出生 1658年10月19日
グラーボウ英語版
死亡 1708年5月12日
宗教 ルター派
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アドルフ・フリードリヒ2世ドイツ語: Adolf Friedrich II.1658年10月19日 - 1708年5月12日)は、神聖ローマ帝国の領邦国家であるメクレンブルク=シュトレーリッツの君主(在位:1701年 - 1708年)。

生涯[編集]

メクレンブルク公アドルフ・フリードリヒ1世と2度目の妻マリア・カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルクの息子として、父の死後にグラーボウ英語版で生まれた[1]

1695年にメクレンブルク家の分家メクレンブルク=ギュストロー家が断絶すると、アドルフ・フリードリヒの甥メクレンブルク=シュヴェリーン公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が継承権を主張したが、アドルフ・フリードリヒはそれに異議を唱えた[2]

この継承争いは1701年のハンブルク条約による合意で終結、アドルフ・フリードリヒはラッツェブルク侯領英語版とメクレンブルク=シュトレーリッツ公国を継承した[3]

アドルフ・フリードリヒ2世の死後、公位は息子のアドルフ・フリードリヒ3世が継承した。

家族[編集]

1684年、アドルフ・フリードリヒ2世はメクレンブルク=ギュストロー公グスタフ・アドルフの娘マリア・フォン・メクレンブルク=ギュストロー(1659年7月19日 - 1701年1月16日)と結婚した。2人は1男4女をもうけた[1]

1702年、アドルフ・フリードリヒ2世はザクセン=ゴータ=アルテンブルクフリードリヒ1世の娘ヨハンナ・フォン・ザクセン=ゴータ(1680年10月1日 - 1704年7月9日)と再婚した。2人の間に子供はいなかった[1]

1705年6月10日、アドルフ・フリードリヒ2世はノイシュトレーリッツで3度目の結婚をした。結婚相手はシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンクリスティアン・ヴィルヘルム1世の娘クリスティアーネ・エミリエ・フォン・シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン(1681年3月13日 - 1751年11月1日)であり、2人は1男1女をもうけた[1]

  • ゾフィー・クリスティーネ・ルイーゼ(1706年10月12日 シュトレーリッツ - 1708年12月22日 シュトレーリッツ)
  • カール・ルートヴィヒ・フリードリヒ(1708年2月23日 シュトレーリッツ - 1752年6月5日 ミロウ) - ミロウ侯

1820年に即位したジョージ4世以降のイギリス君主はアドルフ・フリードリヒ2世の孫娘シャルロッテを通じて、アドルフ・フリードリヒ2世の血をひいている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Marek, Miroslav. “House of Mecklenburg genealogy” (英語). Genealogy.EU. 2018年12月8日閲覧。
  2. ^ Moore, John (1803). View of Society and Manners in France, Switzerland and Germany. A. Strahan and T. Cadell. p. 191 
  3. ^ Ungewitter, Franz Heinrich (1850). Europe, Past and Present. Putnam. p. 411 
アドルフ・フリードリヒ2世 (メクレンブルク公)

1658年10月19日 - 1708年5月12日

爵位・家督
新設 メクレンブルク=シュトレーリッツ公
1701年 - 1708年
次代
アドルフ・フリードリヒ3世