その後の仁義なき戦い

その後の仁義なき戦い
監督 工藤栄一
脚本 神波史男
松田寛夫
原作 飯干晃一
製作 日下部五朗奈村協(「企画」名義)
出演者 根津甚八
音楽 柳ジョージ&レイニーウッド
撮影 中島徹
編集 市田勇
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗1979年5月26日
上映時間 128分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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その後の仁義なき戦い」(そのごのじんぎなきたたかい)は、1979年5月26日に公開された日本映画東映京都撮影所製作、東映配給[1]。監督は工藤栄一。主演は根津甚八。音楽は柳ジョージ&レイニーウッド。 

概要[編集]

「仁義なき戦いシリーズ」最終編[2]。東映自身が「仁義なき戦いシリーズの番外編的な位置付け」と紹介しているが[3]、当初は「新仁義なき戦い」シリーズの一作として製作を予定した映画だった[4][5]。しかし間が空いたことで『仁義なき戦い』とはかけ離れた内容になった[6]。これは脚本の松田寛夫神波史男が「仁義なき戦いシリーズ」枠から離れようとしたことと[7]、『まむしの兄弟 二人合わせて30犯』以来五年ぶりの監督作品だった工藤栄一も『仁義なき戦い』から離れようと意図的なキャスティングや演出を行ったためである[6][8][9]

新旧の世代交代に伴う暴力団の内部抗争に翻弄される若者の友情と裏切りに焦点を当てている。

出演[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

企画は岡田茂東映社長[4]1976年末の映画誌のインタビューで「(1977年)秋に『その後の仁義なき戦い』をやろうと思っている」と話しており[4]、タイトルも最初から決めていた[4][9]。「新仁義なき戦いシリーズ」の最終作、『新仁義なき戦い 組長最後の日』の公開は1976年4月のため、当初は「新仁義なき戦いシリーズ」の流れで『その後の仁義なき戦い』を製作する予定だった[4][5]監督もそれまでと同様、深作欣二で製作を予定し[7]、当初の設定も広島県福山市[10]、ある程度シリーズを踏襲する内容であったが[7]、深作がスター監督になり、予定大作が増え、企画が一旦流れた[7]。数年後、工藤栄一監督を迎えて復活が決まりこの年製作された[4][5][7]

監督[編集]

五年映画を撮っていなかった工藤栄一監督の信奉者が、東映に工藤監督に映画を撮らせろと突き上げ、東映がGOサインを出した[11]。工藤復活のアドバルーンを上げるため、当時ぴあと並んで若者必携の情報誌シティロード』の主催で、1979年4月21日から一週間、五反田東映で「帰って来た映像の刺客!!工藤栄一監督名作上映会」が催されるなど気運を盛り上げた[11]。当時の大宣伝作戦による"大作主義"で、自ら首を絞め、アップアップの邦画界にあって、東映としても"映像の刺客"工藤栄一に沈滞ムードを打ち破る切っ掛けを期待した[11]。工藤は「深作さんは深作さん。私は私です。かつての『仁義なき戦い』とは全く違ったダイナミックな青春ヤクザ映画に仕上げて見せます」と決意を述べた[11]。また「『仁義なき戦い』というタイトルでずっとやってきたから、タイトルは仕方ないが、『仁義なき戦いシリーズ』に出ている俳優さんはなるべく使わないようにしたい」という条件を出した[9]。普通の人間でヤクザの精神を持った奴の話なんで、手慣れたヤクザものをやりたくないという思いがあった[9]

キャスティング[編集]

このためキャスティングは東映ヤクザ映画をあまり経験したことのない人でやろうと決まり、メインキャストは、それまでヤクザ映画に出たことのない役者が揃った[9]。但し小池朝雄成田三樹夫は工藤の希望[9]。それ以外の松方弘樹らベテラン俳優は東映サイドのキャスティング[9]。工藤が「若い人に見てもらいたい。そのためにも芸の完成した人でなく、中には"君は俳優に向いてないよ"」という人をキャスティングした[8][12]根津甚八宇崎竜童を選んだのは工藤[9]。根津は状況劇場を退団後の初仕事[9][12]。本格的映画は『玄海灘』についで二本目[12]。撮影半ばのインタビューで、根津は「舞台はハッキリ言ってやる気はない。当分は映画に専念するつもりだ。最近、自分でも映画向きかなと思ったりするしね。映画はさまざまなアングルを使い、いろんな冒険ができる。その部分に惹かれているんだ」[12]「状況劇場退団の話はしたくない。映画を見てもらい、あ、根津はこういうのをやりたかったのかと理解してもらうしかない。いい作品で大きな監督とやれるのは幸せだ」などと映画の虜になったと話した[12]。工藤は「根津はこれまでの役者とは違うね。勘がいいし発想が面白い。これからはいい映画に出て、いい思いをして欲しい。あと二週間、ボクもいじめるよ」などとエールを送った[12]。宇崎竜童は、大学時代に阿木燿子渋谷東映新宿東映で、東映ヤクザ映画の99パーセントは観たという東映映画の大ファン[13]。宇崎は『曽根崎心中』の演技を東映から評価され、1978年晩秋に出演オファーされた[14]。重要な役どころと聞かされ異存があるわけなく[14]、衣装合わせで東映京都撮影所(以下、東映京都)に初めて行ったら、そこに宇崎をスカウトした松崎しげるがいてバツが悪かったという[14]泉谷しげるは『仁義なき戦い』と工藤監督の大ファンで[15]、自ら工藤に「出してくれ」と売り込みに来たもの[9]萩原健一クランクイン後に、工藤に「出してくれ!」と押しかけ[9]、「お前の役はない」と言っているのにしつこいので、工藤が急遽シナリオを書き直して萩原の役を作った[9]松崎しげるの出演経緯は分からないが、その後松崎が役者づく切っ掛けになった作品である。

脚本[編集]

原作クレジットの飯干晃一チンピラ三人という設定のみ出した[7]。ほぼ松田寛夫神波史男のオリジナル脚本[7]ローカル血縁地縁で固まっている小さな組の話で、その中にいる若い奴の戦い方が話の軸だった[7]。神波は2012年の『映画芸術』でのインタビューでは「詳しいことは覚えていませんが、会社から若いヤクザの話にして欲しいという提示があったと思います。それで、最初に『行儀見習い』という制度を眼目にしたわけです。ヤクザの大組織は傘下に何層もの下部組織がピラミッド型にできてるわけでしょ。で、下部でヤクザとして有望な若者を上部の比較的大きな組織に呼び集めて修行させるわけです。勿論タダで、実質的にはこき使われるらしいんです。そういう中で、別々の組の若者同士が友情を育むわけです。松田と一緒に資料を集めまくったんですが、無名の出版社からヤクザに関する色々な本が出てまして、その中に小さな組の組長の一代記があったんです。これに二人ともピンときたんですよ。一言でいうとマフィア風なんです。構成員のほとんどが全部血縁なんだよ。同時に松田も僕も感じたのは、これはどうも未解放部落の人たちなんじゃないかということです。それを表立っては出せないけど、そういう感じを暗示させようという気持ちは、二人とも持っていたと思います」などと話している[16]。製作当時のインタビューでは「単にやくざ映画をもう一本やろうという企画だったんでしょうけどね。当時松田寛夫が深作さん(深作欣二)と『宇宙からのメッセージ』で甘いの辛いのと喧嘩していたのを無理やり連れて来てシナリオ・ハンティングに行ったんです。中国地方に行くと血族だけで固めた小さなヤクザの組が一杯あって、それがヒントになって、あの辺歩いて、あと書きしたら行き詰って、結局松田が脚本を書いて、ぼくがちょっとリライトしたら(これを神波は脚本第一稿と呼んでいる)企画が流れたのです。一年経って企画が復活した時、松田は塞がっていて、ぼくが九州に舞台を移して書き直したんです(これを神波は脚本最終稿と呼んでいる)。監督も工藤さんに決まり、主演は最初は草刈正雄だった。この最終稿をぼくの名前だけで雑誌に掲載したら、松田が怒って一時は絶交状態だったんですけど、酒を飲んで仲直りしました」と述べている[5]

シナリオ作りに難航し、松田が切り口を見つけて一人で第一稿を書き、神波は補佐役だった[7][16]。これは最終的にやくざにもなりきれず、やくざからもドロップアウトして、暴発暴走して犯罪者になる三人の若者の生きざま死にざまを追いかける同じ神波脚本の『総長の首』にも共通するテーマがあった[7]。『総長の首』の脚本は中島貞夫との共作だが、ほぼ同時進行した[7]

しかし会社の事情で一度製作中止になった[5][16]。それから一年ぐらいして企画が復活した[16]。その時は松田が『宇宙からのメッセージ』に入ることになって忙しくなったので、神波が松田の了解を得て、1979年の正月から松田脚本(第一稿)の直しを始めて、方言指導は大津一郎に頼み[7]、会社からの要請などゴタゴタと小直しを撮影に入ってからも続け、脚本を完成させこれを最終稿とした[7][16]。封切り間際に『シナリオ』が「脚本を掲載したい」と言って来たため、松田に了解を取らずに自身が手直しした最終稿を載せた[16]。すると松田が怒って一時絶交状態になった[16]

神波は本作封切前のインタビューで「『仁義なき戦い』はもうとっくに終わってるんですよね、あの話は。笠原和夫さんのところでね。だから今度は骨までしゃぶる感じですよ。その題名もね、やめてくれっていっても、会社側は『仁義なき戦い』って付いたら絶対赤字にはならんというわけでしょうね。まあ、宣伝用のワク内にとどまらないようにライターとしてはいろいろ話を仕掛けたつもりですけどね。あとは監督さんにおまかせです」などと述べている[7]

撮影[編集]

東映がこの年春に満を持して送り出した『総長の首』が意外に不入りで[8]、撮影当時、一部マスコミが「最後のヤクザ映画かも」と報じた[8]原田美枝子が当時根津甚八に入れ込み[17]、原田が貯金を全部はたいてプロデュースし映画化に奔走していた『海に降る雪』にも最初に根津に出演交渉に行く程で[17]、本作でも濡れ場の相手に自ら根津を希望[17]。撮影はかつて遊廓として知られた京都中書島遊覧船を借り切り[17]、夜中の3時から5時間かけて激しい濡れ場の撮影が行われた[17]。原田はノリにノッていたという[17]

宇崎が根津と親しくなったのは本作での共演が切っ掛け[18][14]。根津の撮了の前の晩に、京都のストリップDX東寺に行った[18][14]。男同士の演しもの黒黒ショーにはビックリして慌てて店を出たという[18]。宇崎が演技が楽しくなって役者付いたのは本作に出演してからと話している[18]

萩原健一がワンシーンのみ客演で出演。セットに入り集中する萩原に照明助手サインを求めると萩原が色紙を払いのけ、「貴様!スタッフなら解るだろう!俺がいま、どういう状況にいるか!」と一喝した[19]

ロケ[編集]

福岡県北九州市ロケが2日[9]。1979年5月後半、滋賀県大津市瀬田川河畔ロケ[8]。残りは京都で一ヵ月撮影[9][18]。東映京都での撮影は1978年末[14]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

1979年3月公開の『総長の首』と本作は「仁義なき戦い五部作」と比べると半分程度の興行成績[4]

作品評[編集]

宇崎竜童は「評判、あんまり良くなくてね。テレビにちょこちょこ出てる奴が出てるなんて言われた」などと話している[13]

毎日新聞は「東映の伝統を踏まえた上での新しい映画、無類の青春映画が誕生した。タイトルに残されている東映の"未練"がむしろ惜しまれる。主役の三人、根津甚八、宇崎竜童、松崎しげるが何といっても新鮮である。貧しい母親に育てられた野球少年が、母の愛を奪った情夫を殺傷し、甲子園へ、タイガースへの夢に破れてヤクザの世界に入り、遂にはズタズタになっていく姿を根津がややカッコ良すぎるが、しなやかに演じる。さらにいいのが北九州のチンピラ役・宇崎と松崎だ。宇崎は体だけは大きくてバカなことしかできない今時の若いモン、という感じをピッタリ好演。物語は大阪と北九州で『仁義なき戦い』の広島とは無縁。映像も音楽も日陰者を描く暗いトーンから解放されている。監督の工藤栄一はかつて東映時代劇で異能ぶりを発揮して知られたが、五年ぶりのメガホンで凝縮されたエネルギーを久々の一作に全力投球したといえよう。ラストシーンもヤクザ映画の発想からはまさに翔(と)んでいる。流行の女性映画の一パターンとも見えるが、今時の若いモンを描いて間然するところがない。併映の『俺達に墓はない』もまた若い悪党たちを軽快に描いた佳作だが『その後の…』がいいため、やや割を食った。しかしおマケとしてはもったいないくらいの作品だ」と評した[6]

小林信彦は「江川の初登板をテレビで観てから、渋谷東映に出かけ『俺達に墓はない』と『その後の仁義なき戦い』を観た。『俺達に墓はない』は、いわゆる〈B級アクション〉が狙いなのだろうが、信じられぬほど、アホなストーリーである。昔はスレ違いメロドラマというのが沢山あって、男Aと女Bが飯田橋駅の二つの出口を間違えて会えず、誤解に誤解を重ねる、そういった最低のロマンス映画がのべつ封切られた。『俺達に墓はない』は、松田優作志賀勝が悪者コンビでありながら、松田の弟分の岩城滉一がバカなために、アホ、ドジというほかない誤解が重なり、殺し合う羽目になる。こういうのをスレ違いアクションとでもいうのか。ヒーローたちがバカで、追いかける暴力団がまともに見える愚作である。『その後の仁義なき戦い』に、名作『仁義なき戦い』の世界を期待したわけではないが、少なくとも一点だけ、前シリーズ(特に笠原和夫脚本のぶん)より踏み出した部分がなければならないと期待するのは当然であろう。『その後の仁義なき戦い』は、根津甚八、宇崎竜童、松崎しげるの三人のチンピラがバラバラになってゆくプロセスは1930年代のワーナーギャング映画のようで、宇崎竜童だけが抜群にいい。根津甚八は陰気で画面が落ち込んでしまう。私が立腹したのは、松崎(だったと思う)が「おれたちの友情はどうなるんだ!」といった〈青春の叫び〉をあげる件りだ。チンピラに〈友情〉という言葉を軽々しく口にさせることの無神経さ。笠原和夫だったら、間違っても、アウトロウ志願者たちに〈友情〉などという言葉は使わせなかったろうし、使わせたとしたら、それはアイロニカルな意味で、観客の爆笑を誘ったに違いない。〈笑い〉〈ユーモア〉がないのも、この映画にとって、致命的なことである。終わると、深夜一時半。映画館のロビイにはインベーダー・ゲームの音のみが響く。昭和54年の現実はスクリーンには描かれず、白々としたロビイにのみあった」などと評している[20]

虫明亜呂無は「『その後の仁義なき戦い』は工藤栄一の傑作である。ヒットしなかったのは題名と内容がそぐわなかった」と評し[4]、ヤクザ映画ではなく、青春映画として売らなければいけなかったと批判した[4]。岡田茂東映社長は、題名と内容が一致しないというこれらの批判に対し、「あるいはそうかも知れない。かといって180度転換して、どんなタイトルにしたら客が来ますか? 評論家先生は答えてくれませわね。当たるシャシンはこちらのチエと努力で生み出さにゃ仕様がない。長い間、ハードで稼いで来たからなかなか思い切れないが、仕立て方もよほど頭を切り換えていかなきゃいけないというのは事実ですね。切り換える今は過渡期でしょう。過去の栄光をいたずらに追う保守だけではこの過渡期は越えられませんね。まあ今のウチは何にもないというのが正直な現状です。ともかく儲けさせなきゃ劇場もついてきてくれませんわね。ハード路線で王座を占めて来た東映が「宇宙戦艦ヤマト・フェスティバル」や『銀河鉄道999』で息をついたり、『酔拳』という香港の喜劇アクションで客を湧かそうという陣立てですから、そんなことで客が引けるかという向きもあるけど、これは時代の流れが変わって来たということです。いま次第にハードからソフトに変わりつつある。現実はそう動いて来ています。東映調と一風変わったものが出て戸惑った向きもありますが、変えた効果は出てると思います。角川春樹さんとの提携も一応の成果を挙げた。一方、東映独自の、われわれが十分戦えると思った『総長の首』『その後の仁義なき戦い』がシャシンの出来がいいのにもかかわらず、あの程度の数字に止まったというのは、やはりハードも限界が来たと言わざるを得ない、残念ながらね。東映としてはハードをまったく捨てるわけにはいかないですからね、このハード路線をいつか、どういう形で、どういうタイトルで復活さすか、大きな課題というわけです」などと述べている[4]

同時上映[編集]

俺達に墓はない

ビデオ[編集]

その後の仁義なき戦い
発売日 タイトル 規格 品番
1997年02月21日 その後の仁義なき戦い LD LSTD-01344
2005年07月21日 その後の仁義なき戦い DVD DSTD-02462
2015年05月13日 その後の仁義なき戦い Blu-ray BSTD-02462

※DVDは2014年7月11日に「東映 ザ・定番」という継続的な廉価版として再発売されている。Blu-rayは2018年5月9日に廉価版として再発売されている。

脚注[編集]

  1. ^ その後の仁義なき戦い | 東映ビデオ株式会社
  2. ^ その後の仁義なき戦い”. 日本映画製作者連盟. 2020年4月23日閲覧。
  3. ^ 菅原文太代表作 Blu-ray特集 | 東映ビデオ株式会社その後の仁義なき戦い
  4. ^ a b c d e f g h i j 映画界のドン 2012, pp. 96、131–132.
  5. ^ a b c d e 田山力哉「日本のシナリオ作家たち/26 神波史男 『チンピラやくざに寄せる被害者的共感』」『キネマ旬報』1979年9月上旬号、キネマ旬報社、142頁。 
  6. ^ a b c “映画 配役新鮮な青春映画『その後の仁義なき戦い』(東映)”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 7. (1979年6月2日) 
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 神波史男白坂依志夫「対談『黄金の犬』『その後の仁義なき戦い』をめぐって 『愛と復讐の散華』」『シナリオ』1979年6月号、日本シナリオ作家協会、89–90頁。 
  8. ^ a b c d e “任侠映画『その後の仁義なき戦い』この一戦にかける東映”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 7. (1979年5月22日) 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 光と影 2002, pp. 170–171.
  10. ^ 松田修「マセラッティ(馬)とダンプ(豚) 『【その後の】仁義なき戦い』論」『シナリオ』1979年6月号、日本シナリオ作家協会、134–138頁。 
  11. ^ a b c d 「ショー・パック 甦る幻の映画『仁義なき戦い』 『「沈滞の闇を打ち破るか一発の閃光! 映像の刺客・工藤栄一、只今参上!』」『週刊朝日』1979年4月24日号、朝日新聞社、40頁。 
  12. ^ a b c d e f 「シネマ 『映画監督業は魅力』 根津甚八、工藤栄一作品に燃ゆ」『週刊明星』1979年5月13日号、集英社、46頁。 
  13. ^ a b 高平哲郎『話は映画ではじまった PART1 男編 対談・宇崎竜童』晶文社、1984年、88,103-104頁。 
  14. ^ a b c d e f “連載 芸能生活40年 宇崎竜童 『運がよければ』(38) 『仁義なき戦い』で出会った根津甚八とは抜群にウマが合った”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 16. (2011年12月13日) “連載 芸能生活40年 宇崎竜童 『運がよければ』(39) 忘れられない根津甚八とのストリップ肉食ナイト”. 東京スポーツ (東京スポーツ新聞社): p. 16. (2011年12月14日) 
  15. ^ 『仁義なき戦い』|泉谷しげるオフィシャルブログ「泉谷しげる・春夏秋冬」2012年03月10日(Internet Archive)、思い出バナシ|泉谷しげるオフィシャルブログ「泉谷しげる・春夏秋冬」2012年9月23日
  16. ^ a b c d e f g ぼうふら脚本家 2012, pp. 345–346.
  17. ^ a b c d e f 「ニュース・メーカーズ ご指名をうけた根津甚八は果報者! ? 原田美枝子"女上位セックス"の凄まじさ」『週刊ポスト』1979年5月4日号、小学館、41頁。 
  18. ^ a b c d e 俺たちゃとことん 1981, pp. 168-170、207.
  19. ^ 土橋亨『嗚呼!活動屋群像 ―化石になんかなりたくない―』開発社、2005年、105頁。ISBN 4-7591-0115-2 
  20. ^ 小林信彦「邦画はインベーダー・ゲームを超えられるか?」『コラムは踊る―エンタテインメント評判記 1977~81』筑摩書房、1989年、198-200頁。ISBN 9784636885194 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]