茶



(愛媛県広見町)。
茶(ちゃ)またはティー(英語: Tea)は、チャノキ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze)[注釈 1]の葉(茶葉)や茎(茎茶・棒茶)から作られる飲み物である。
また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。
栽培[編集]
チャノキ(茶樹)は、主に熱帯及び亜熱帯気候で生育する常緑樹である[1]。品種によっては海洋性気候でも生育可能であり、最北でイギリスのペンブルックシャー [2]やアメリカ合衆国ワシントン州[3]で栽培されている。
茶樹は種子から、あるいは挿し木によって繁殖する[4]。茶樹が種子を付けるまで4年から12年ほどかかり、新しい木が収穫(摘採)に適するまでには3年ほどかかる[1]。年平均気温が12.5 - 13℃以上(適温は14 - 16℃)、年間降水量が1300 - 1400mm以上、土壌はpH4 - 5程度の酸性であることが望ましいとされている[5]。茶の品質は一般に窒素を多くするほど向上する(ある程度以上では効果は薄い)。そのため多施肥化が進み、日本などでは硝酸態窒素による地下水汚染が問題になっている[6]。
世界で主に栽培されているのは基本変種であるチャノキ(学名 : Camellia sinensis (L.) Kuntze)とその変種であるアッサムチャ(学名 : Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam.)の2変種である。基本変種は幹が枝分かれした低木で、寒い冬にもよく耐え、100年程度栽培可能である[7]。葉は比較的小さく、成長時の長さは5センチメートル程度である[8]。比較的カテキン含有量が少なく、酵素の活性も弱く酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされている。中国、日本などの緑茶生産国のほか、イラン、グルジア、トルコなど冬の寒さが厳しい場所で栽培されている[9]。また、インドのダージリンやスリランカでも栽培されている[7]。
アッサムチャは単幹の高木で、放置すれば6メートルから18メートルの高さにも達する。葉が大きく、15-35センチメートルまで成長する[8]。栽培に適した高さに刈り込みながら摘採した場合、経済的に利用可能なのは40年程度である[10]。アッサムチャの中に5つの亜変種があるとの説もある。[7]アッサムチャはカテキン含有量が多く、酵素の活性が強く発酵しやすいことから、紅茶向きとされている。生育の良さと葉の大きさのため収量があり、インドのアッサム地方、スリランカ低地、インドネシア、ケニアなどで栽培されている[9]。

新芽が成長してくると摘採を行う。摘採時期が遅れると収量は増えるものの、次第に粗繊維が増加して葉が硬化し、主成分であるカフェイン、カテキン、アミノ酸(テアニン)も急激に減少するため、品質が低下する。そのため、品質を保ちながら収量を確保するため、摘採時期の見極めが必要である[11]。
成熟した茶樹のうち、摘採するのは上部数センチメートルの葉と葉芽だけである[12]。成長期には摘採後7日から15日で新しい葉が生え、葉がゆっくり成長するほど風味豊かな茶となるとされる[1]。
製造・加工[編集]
茶は、加工の方法(酵素反応の有無、殺青タイミング、殺青方法、乾燥方法など)により、様々な種類があり、世界的に知られているのは、茶葉中の酵素反応(茶業界では「発酵」と呼ばれる[13]。但し菌によるものではない。)を行わせた紅茶と行わせない緑茶である。茶葉に含まれる酵素が、茶葉の中のカテキン(ポリフェノールの一種)など300種類以上の成分と反応するにつれ、テアフラビンなどが生成する。これらの成分によって茶の味や香りが左右される[14]。酸化発酵が進むにつれ、クロロフィル(葉緑素)も酸化されるため、色は緑から暗色に変化していく。
中国茶では、緑茶、白茶、黄茶、烏龍茶、紅茶、黒茶の大きく6種類の区別が用いられている[15][13]。
緑茶 | ![]() | 中国茶の場合、摘採後、酵素反応が始まらないうちに速やかに釜炒りすることで酵素を不活性化する(殺青)。その後、揉捻、乾燥して仕上げる[15][16]。 日本茶の場合は、釜炒りではなく茶葉を蒸す(蒸青)[17]。煎茶は揉捻を行うが、抹茶の原料である碾茶は揉捻を行わない[18]。 |
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白茶 | ![]() | 中国福建特産の希少な茶。原料は茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えているもの(白毫)や一芯二葉など様々な成長過程の茶芽を用いる。摘採後、萎凋(放置して水分を飛ばすとともに酸化発酵を行わせる)のみを行い、火入れを行わず自然乾燥させる。 |
黄茶 | ![]() | 白茶同様希少な茶である。萎凋を経ずに加熱処理を行う。その後、高温多湿の場所に置いて悶黄と呼ばれる工程を行う。この悶黄は、酸化酵素や微生物の働きによらず高温多湿の環境でポリフェノールやクロロフィル(葉緑素)を酸化する過程であり、これにより葉は黄色くなる[19]。 |
烏龍茶 | ![]() | 萎凋を行い、その途中で茶葉を撹拌する揺青という工程を加えることにより、酵素反応を助長する。釜炒りで酵素反応を止めた(殺青)後、茶葉の香りと味を引き出すため茶葉を揉み(揉捻)、最後に焙じて仕上げる[20][21]。 |
紅茶 | ![]() | 萎凋を行った後、揉捻を行うことにより、茶葉の細胞組織を壊し、酵素反応を進行させる[22][23][24]。さらに、温度、湿度、通気を調整し、茶葉が赤褐色になるまで酵素反応を行わせる(転色[23])[23][24][25]。最後に乾燥・加熱して仕上げる[23][24][25]。 |
黒茶 | ![]() | 中国安徽省、四川省、雲南省で作られ、日本では雲南省産のプーアル茶の熟茶が最も有名。緑茶と同様、摘採後すぐに加熱して酵素反応を止め(殺青)、揉捻し乾燥させる(毛茶)。その後、高温多湿の場所に茶葉を積み上げて(渥堆)、微生物による発酵を行わせる(最近では菌類を使用しない場合も有る)。この点で、茶葉自体に含まれる酸化酵素の働きを利用する烏龍茶、紅茶などと異なる。再び揉捻(復揉)した後、乾燥させて仕上げる[26]。 |
花茶 | ![]() | 以上6種に加え、花で茶に香りを付けたものを花茶と呼ぶ。緑茶、青茶、黒茶、紅茶などの茶葉に花自体を混ぜたもの、花の香りだけを移したものがある(花自体を茶として飲むものもあるが、これは茶外茶である)[27]。ジャスミン茶(茉莉花茶)が知られる。 |
茶殻[編集]
抽出した後に残った茶葉などを茶殻という。ごみとして捨てられることが多いが、有効利用されることもある。用途には家庭用の消臭剤としてのほか、飼料[28]、各種資材[29]などが挙げられる。
名称[編集]
漢字[編集]
漢字の「茶」は中唐以後に成立した字で、それまでは「荼」または「𣘻」(木偏に荼の字)を使用していた。「荼(ト)」は本来は苦い味のする植物であるニガナを指す字である[30]。また、仏典では ḍa の音写に「荼」字をあてた(軍荼利、曼荼羅、鳩槃荼など)。茶が原産地の雲南方面から四川・江南へと長江流域に広まるにつれ、ダのような発音の語に荼字を当てて使うようになったと推定されている。唐の陸羽が『茶経』を著して、「荼」を1画減らして区別することが広まったと言われる。『茶経』には「茶」「檟(カ)」「蔎(セツ)」「茗(メイ)」「荈(セン)」の5種の名が揚げられているが、他に当て字もあって、それらも合わせると10種以上の字が使われていた。「茗」に関しては、現代中国語でも茶を総称する「茗茶」という言い方が残っている。
各国語における茶を意味する語[編集]
世界で茶を意味する語の起源は、「チャ」系統のものと「テー」系統のものがある[31][32]。
中国語の北京語や広東語では、茶は「チャ(cha)」と呼ばれている[33]。モンゴル語、ウイグル語、ヒンディー語、トルコ語、ペルシャ語、ロシア語などでは「チャイ」系統の音で呼ばれ、これらは中国から伝播したものと考えられるが、「イ」がどのようにして加わったのかは不明。ペルシア語辞典やヒンディ語辞典にはチャー(chā)とチャーイ(chāi)の両項目が挙げられている[34][注釈 2]。「チャ」に由来する呼び名を持つ言語としては以下のような例がある。
- 中国語: 茶(chā)、チベット語: ཇ(cha)、日本語: 茶、朝鮮語: 차 [茶](cha)、ベトナム語: trà、タイ語: ชา(chaa)、タガログ語: tsa
- モンゴル語: цай(tsai)、ヒンディー語: चाय(cāe)、ペルシア語: چای(chāy)、トルコ語: çay、アラビア語: شاي(shāy)、スワヒリ語: chai
- ギリシア語: τσάι(tsai)、ルーマニア語: ceai、ブルガリア語: чай(chai)、セルビア語: чај(čaj)、チェコ語: čaj、ロシア語: чай(chai)
これに対して西欧の多くの国では「テー」系統の発音が用いられている[33]。これは、福建省で用いられている廈門語のテー(tê)に由来するとみられる[33]。17世紀に茶を中国からヨーロッパに持ち込んだオランダ人経由でヨーロッパに広まった[33]。陳舜臣は、清代中期から貿易を認められていた広州の特許貿易商である広東十三行は、福建省廈門(アモイ)出身者が多く、彼らが自らの母語でテーと呼んだことによるとするが[35]、通常は福建語からマレー語にはいり、オランダ語はマレー語から借用したと考えられている[36]。この系統の言語としては次のようなものがある。
- オランダ語: thee、英語: tea、ドイツ語: Tee、ハンガリー語: tea、ヘブライ語: תה [te]、フランス語: thé、スペイン語: té、イタリア語: tè、スカンジナビアでは te、フィンランド語: tee、アルメニア語: թեյ(t'ey)
- インドネシア語とマレー語ではteh(インドネシアがオランダの貿易拠点であった経緯から)
- セイロン茶の産地スリランカの言語であるシンハラ語 තේ [tē]、タミル語 தேநீர் [tēnīr](イギリス人が茶の栽培を持ち込んだ経緯から)
他方、ポルトガルは広東省のマカオから直接茶を輸入していたことから、広東省での呼び名に従い、西欧では例外的にcháと呼んでいる[33](現在のポルトガル語では「シャ」と発音されるが、かつての発音は「チャ」であった)。
日本語の茶の字音は呉音「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」である。「チャ」という音は院政時代の『色葉字類抄』に見られ、漢音と唐音の間の時期に流入したと考えられる。なお、「チ・ツ」は古くは破擦音ではなく[37]、「チャ」と書いて「テャ」のように発音していた。朝鮮語の「茶」に対する漢字音も「タ」(다 / da)と「チャ」(차 / cha)があるが、植物・飲料の茶だけを指す場合、「チャ」を用いる。ベトナム語でも trà と chè の2形がある。
「チャ」系統と「テー」系統以外で呼ばれる言語もごくわずかあり、ほとんどは中国雲南省からミャンマーにかける地域に住んでいる東南アジア諸民族の言語である。例えば、ビルマ語ではလက်ဖက်(lakphak、ラペ)と、パラウン語では「miang」(ミアン)と呼ばれる。ただし、これらの民族の習俗上において茶葉はもともと飲用ではなく、ラペソーなどの漬物の原料である[38]。なお、「ミアン」は中国語における茶の別名「茗(ming)」の語源であるという説もある[39]。
喫茶の歴史[編集]
中国[編集]
南北朝時代まで[編集]
茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある[40]。
中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる[41]。
しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」「茗(めい)」「荈(せん)」「檟(か)」といった文字が当てられていた[42]。
書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある。
苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老。
陶弘景は注釈書『本草経集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は茶に疾病を治癒する薬効は認められないとしてこれを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではないと陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある[注釈 3]。
「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から100キロメートルほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる[43]。この「僮約」には神爵3年(前59年)という日付が付されており、紀元前1世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる[44]。
後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の詩人張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している[45]。南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代(502 - 557年)に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている[41]。
唐代[編集]
茶の文化を初めて体系化したのは、唐の陸羽(? - 804年)であった[46]。南北朝が統一され、政局が安定し、民生が充実するとともに、茶が北方に広がり、「茶」の字も全国的に普及した[41]。陸羽は755年に始まった安史の乱を避け呉興(現在の浙江省湖州市)に移り住み、名茶を求めて諸方に旅をするかたわら、茶を通じて文人らと交わった。この頃『茶経』を著して、「茶は南方の嘉木なり」と述べた[47]。『茶経』には茶の飲み方として、觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餠茶(へいちゃ)があるとされている。觕茶はくず茶、散茶は葉茶をいうとされ、餠茶は乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたものである。末茶(抹茶)は餠茶を搗いて粉にしたものであり、7世紀にはこの末茶が主流であったと考えられている[48]。
陸羽は『茶経』の中で、野生の茶が上であり畑の茶はこれに次ぐ、陽崖(日当たりの良い山の斜面)で陰林(適当に陰を作る林)にあるもの、緑よりも紫のもの、笋のもの(タケノコの形をしたもの)、葉の巻いたものが最も上質であるとしている。湖州顧渚山の最高級の茶は「紫笋茶(しじゅんちゃ)」と呼ばれた[49]。
大暦5年(770年)に、茶を朝廷に献上する貢茶が始まったとされ、地方官の関心はより高級な茶の調達に向かった[50]。太湖沿岸の常州(現在の江蘇省宜興市)と湖州で産した陽羡茶は長安の都に毎年送られた[51]。
一方で、茶の庶民化も進んだ。建中3年(782年)に初めて茶への課税が行われた。その後、税は廃止されたり復活したりを繰り返した[50]。
宋元代[編集]
宋代(北宋、960年 - 1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)って粉にするようになり、これを研膏茶と呼ぶ。宮廷(皇帝)への献上品として、最高級の研膏茶を固形の団茶にした「竜鳳茶」が作られたが、その後蔡襄によって更に上等の「小竜団」が作られ、進貢された。献上茶には、竜脳、珍果、香草などを混ぜて香り付けしたものもあった。元豊年間(1078 - 1085年)の「密雲竜(のち瑞雲翔竜)」、大観年間(1107 - 1110年)の「御苑玉芽」「万寿竜芽」「無比寿芽」、宣和2年(1120年)の「新竜園勝雪」と次々に高級団茶が開発され、金では買えない宝として扱われた[52]。

産地としては、中唐の頃には知られていなかった福建が献上茶の筆頭となり、皇室御用の茶を栽培する北苑が福建に設けられ、「竜鳳茶」などを製造した[53]。蔡襄の著した『茶録』にも、北苑系の建安の茶が第一とされている。南宋から元にかけて、北苑が衰えると、福建北部の武夷山がこれに取って代わった[54]。武夷山は岩ばかりの山であり、わずかな土壌に生える茶が武夷岩茶として珍重された[55]。
乾徳3年(965年)、宋は茶の専売制を敷いた。ただし、当初は茶の生産から運搬、流通まで官が行うこととされたが、困難であったため、後に、商人に茶を払い下げる際に徴税することとなった[56]。熙寧3年(1070年)にいったん自由売買が認められたが、財政難から元豊7年(1084年)に専売制が復活した[53]。
専売制は交易上も大きな意味を持った。中国本土に少し遅れて、青海付近のチベット人が茶を飲むようになった。茶を産しないチベットでは宋から茶を入手する必要があり、宋にとっては茶が絹に代わるチベットへの輸出品となった。宋初に、チベット系政権西夏との国境付近の原州、渭州、徳順(現在の甘粛省鎮原、平涼、静寧)3郡に茶と馬との交易場が設けられた。元豊6年(1083年)、茶場司と買馬司を統合した茶馬司という役所ができ、交易を管理することになった[57]。その後、茶の産地から遠く離れた塞外民族も、茶を不可欠とするようになった。肉食の塞外民族はビタミンCの補給のために茶を必要としたとの説がある[58]。南宋(1127 - 1279年)の時代には、茶はチベットに対してだけではなく北の金やモンゴルに対しても主要な輸出品となった[59]。
明代[編集]
明代(1368 - 1644年)になると、太祖洪武帝が洪武24年(1391年)に団茶の進貢をやめさせ、葉茶のままにするよう命じたことを機に、団茶(抹茶)は廃れた。『明史』食貨志に「旧(も)と皆な採りて之を碾(ひ)き、銀板を以て圧(おさ)え、大小の竜団を為(つく)る。太祖、其の民を労するを以て、造るを罷(や)め、惟(た)だ茶芽を採りて以て進めしむ。」とある[60]。明は尚武の精神が強い重農主義的な王朝であり、洪武帝も社会の最下層から身を起こした人物であったため、余りに洗練された贅沢な団茶を嫌ったのではないかと指摘されている[61]。また、それまでの葉茶(散茶)が、蒸して乾燥させた茶葉に湯を注いで飲む方法であり青臭さがあったのに対し、明代には、葉を釜炒りする方法が主流となり、飲みやすくなったことも、中国の茶が葉茶のみになった理由であると考えられている[62]。
産地については、許次紓が17世紀初頭に書いたと思われる『茶疏』に、
清代[編集]
清代(1644 – 1912年)の宮廷(紫禁城)では、夏期に龍井茶(緑茶)を飲み、冬期に普洱茶を飲んだ。江南を愛した乾隆帝(在1735-95年)も、江南への3回目の行幸で龍井を訪れ、「龍井の新茶 龍井の泉/一家の風味 烹煎(ほうせん)を称す」と始まる詩を作っている[64]。普洱茶は雲南省西双版納で生産され、緊圧茶の形で進貢された。紫禁城では、頤和園の玉泉山の水で普洱茶を煮、乳酪に加工した牛乳を加えて飲んだ[65]。
後述するように、ヨーロッパで茶が飲まれ始めたのは日本の平戸島から茶葉を輸入して以降だが、非常に高価であった。そのため安い茶を求めて後期の明や清などからも輸出が始まると、多様な中国茶が知られるようになった。清代後期、18世紀から19世紀にかけて、イギリス商人が中国で盛んに茶を買い付けた[66]。当初は、中国の緑茶をそのまま仕入れ、ヨーロッパでも緑茶を飲んでいたが、18世紀初頭から中国茶の中でも抽出が簡単でヨーロッパに多い硬水に合う紅茶[注釈 4]が増え始め、18世紀半ばに紅茶の方が優勢となった[67]。イギリス商人は、福建産の茶の中でも粗悪なものをボヒア(「武夷」の転訛)と呼んだのに対し、丁寧に製茶したものを工夫茶(コンゴウ)と呼んだ[68]。福建の工夫茶の成功を見て、19世紀後半、緑茶の産地であった安徽省祁門県も、紅茶生産に転換し、祁門紅茶(キームン)が生まれた[69]。
半発酵茶である烏龍茶は、福建北部の武夷山で始まった[70]が、18 - 19世紀にイギリスの買い付けに有利な福建南部の安渓で盛んに作られるようになった。安渓で産する烏龍茶の代表が鉄観音である[71]。さらに、烏龍茶は安渓から台湾に伝えられた[72][73]。
清朝は乾隆22年(1757年)輸出港を広州に限定し、茶の売上げと輸出税で収益を上げた[74]。一方、茶や陶磁器、絹の輸入によって清に対する大幅な輸入超過に陥ったイギリスは、反対商品としてインド産のアヘンを清に密輸する三角貿易を組み立てたが、このことがアヘン戦争(1840 – 1842年)を招いた[75][76][77]。以後、イギリスは南京条約によって割譲させた香港を拠点に対清通商を進めた[77]。
イギリスは、清からの輸入を減らすため、インドでの茶生産も図った[78][79]。アヘン戦争後に中国内地へのアクセスが可能になると、1848年、イギリスのロバート・フォーチュンが東インド会社からの委嘱を受け、インドへの移植にふさわしい茶樹の苗・種子を採集するため中国に入った[78]。彼は、中国の産茶区を巡り、安徽省の松蘿山一帯が最高の緑茶の産地であると報告している[80]。実際、19世紀後半から、インド、スリランカで本格的な茶樹栽培が始まると、中国茶は市場を失うようになった[81][82]。
日本[編集]


茶がいつ中国から日本に伝わったのかははっきりしていないものの、公事根源の記録によると奈良時代である天平元年(729年)聖武天皇の時代に「宮中に僧を召して茶を賜った」と記されている。茶樹の栽培においても、805年に永忠と帰国した最澄は嵯峨天皇に茶を点てて差し上げた御製の漢詩がある。帰国前には、僧は酒が禁物なため、茶で送別の会を開き、友人たちと漢詩を応酬した。滋賀県比叡山の 日吉茶園は彼ら天台僧が育てた茶の木が元との伝説がある。翌年、大同元年(806年)に弘法大師(空海)が唐より茶の種子を持ち帰り、弟子の堅恵大徳が宇陀市榛原赤埴の佛隆寺に播種され、その製法を伝えられたのが「大和茶」の始まりといわれている。
また、空海も茶に親しんだことが、在唐中に求めた典籍を嵯峨天皇に献じた際の奉納表の中に記されている[83]。
『日本後紀』には、弘仁6年(815年)4月、嵯峨天皇の近江行幸の際、梵釈寺(滋賀県大津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている[84]。永忠は在唐35年の後、805年に帰国しており、この時に茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られる[85]。815年6月、畿内、近江、丹波、播磨の諸国に茶を植え、毎年献進することが命じられた[86][84]。『凌雲集』の嵯峨天皇御製に「詩を吟じては厭わず香茗(こうめい)を搗(つ)くを/興に乗じては偏(ひと)えに宜しく雅弾を聴くべし」との聯があり、搗いて喫していたことが分かる[87]。平安朝の宮廷人も茶を飲んでいたことがいくつかの詩に残っており、菅原道真も、「煩懣(はんまん)胸腸(きょうちょう)に結び/起ちて飲む茶一椀」と詠んでいる[88][84]。しかし、遣唐使が停止されてからは、唐風のしきたりが衰え、茶もすたれていった[89]。だが、この見方については異論もあり、平安時代中期の漢詩集『本朝麗藻』に採録された大江以言が園城寺を訪問した時の読まれた漢詩に「山の御厨(みくりや)の茶は熟し、暮煙興(おこ)る」とあり、平安時代末期に藤原忠通・藤原周光によって編纂されたとみられる『本朝無題詩』に所収されている漢詩には11世紀から12世紀中期にかけて寺で茶を供された話を盛り込んだ詩が7首[注釈 5]存在しており、平安時代を通じて京都の寺院を中心に茶を喫する伝統が継承されてきたと考えるべきであるとする指摘がある[90]。
茶の再興は、栄西が1191年に宋(南宋)から種子や苗木を持ち帰ってからである。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ禅寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられる[91]。当初は薬としての用法が主であった(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた等)が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれるようになった。
一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・南浦紹明により、中国より茶道具などと共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の茶の湯へと発展した。茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化した。
茶は江戸時代前期では贅沢品として、『慶安御触書』や『直江四季農戒書』[注釈 6]でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への貨幣経済浸透を促した。
明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコミの話題(人気絶頂期のピンク・レディー[注釈 7]が減量のためにウーロン茶を飲んでいると言ったこと)から半発酵茶の烏龍茶が注目を集め、伊藤園やサントリーから缶入り烏龍茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では烏龍茶が主であるかのようなイメージが広がった。
缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、一つの市場を形成するに至った。家庭で急須に入れた茶葉から茶を抽出して飲むことは、茶殻の処理が面倒といった理由で敬遠されるようになったが、日本茶用ティーバッグ、家庭用に碾茶から抹茶をつくれる機械が販売されるようになっている[93]。このほかにも新しい茶製品が相次いで開発されている。
茶道は、礼儀作法が敷居が高いイメージがあり、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きも存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も紹介され、緑茶のみならず、世界の茶が紹介されている。旅茶セット、野点セットなど、趣味人だけではなく一般を対象とした道具もある。
朝鮮半島[編集]
朝鮮半島には首露王の妃である許黃玉がインドで茶の種子を持ってきたという伝説がある[94]が、新羅興徳王3年(828年)12月に大廉が茶の種子を唐から持って来て智異山に植えたという記録が最初である(『三国史記』)。しかし、緯度が高く冷涼乾燥気候の朝鮮半島は茶の栽培には適さず、生産量は限られたものであった。また、その品質も悪く、後述の『高麗図経』では「土産茶、味似苦渋不可入口(高麗産の茶は苦く渋くて、口に入れることができない)」と記されている。『三国史記』や『三国遺事』に現れる茶に関する記述は、大部分が僧侶にまつわる話であって、当時寺院を中心に喫茶が儀礼と関係して用いられていた様子が窺われる。さらに、中国宋王朝の使節である徐兢の記録『高麗図経』(正確には『宣和奉使高麗図経』)からは高麗の喫茶法が確認されるが、その記述が不十分なことから、当時の喫茶法については明確でない。熊倉功夫氏などは抹茶法であったと推測しているが[95]、宋時代の抹茶法では用いない「湯鼎」を使う、あるいは、明時代の茶書『製茶新譜』で団茶法(鼎や鍋で茶葉を煮出す方法)に対して用いられている動詞「烹」を使うなど、疑問点が多い(抹茶の場合は通常「点」を用いる)。
李氏朝鮮時代には崇儒廃仏によって仏教的な文物の多くは破棄されており、この時期に喫茶の風習も途絶えていたとみなされる場合が多い。しかし、慶尚道慶州府、全羅道羅州牧、南原都護府などで茶が生産されており、王宮では贈答用の「天池団茶」という固形茶も製造されていた(さらに「青苔銭」と呼ばれる固形茶もあったようである)。なお、日本による併合後に持ち込まれた茶の品種に対して、DNAの形質から区別される在来種を「韓国野生茶」と呼んでいる。このように李朝においても製茶自体は存続していたが、しばしば記録に登場する高級茶は中国からの輸入品であったようである。
李氏朝鮮の喫茶法は古い喫茶道具や文献資料の不足から不明な点が多く、『朝鮮王朝実録』の記録からは中国明王朝の使節を迎える際に、茶を用いた儀礼(茶禮)が行われていた様子が確認されるが、儒教を国教とし仏教文化の茶文化も禁圧して消滅させ、茶を奉げる仏教儀礼の「茶礼(茶禮、チャレ)」は禁じられ、酒を奉げる献杯の儒教「祭祀」を奨励していた[96]。ただし儒教の祭祀の名前はそのまま「茶礼」と呼ばれ続けた。慶長の役の時(1598年)に明の楊鎬が南原の茶は高品質なのになぜ採取しないのかと問うのに対し、「私たちには茶を飲む風習が無い」と答えている[97]。楊鎬は朝鮮茶の中国への輸出を推奨した。清への朝貢物品の中で1637年から1645年まで茶千包が含まれていたが、前述のように茶葉の産出量が少なかったことから、朝鮮で使用される茶葉は北京からの輸入品が主であった。
このように、茶の国内への供給量がごく限られたものであったことから、茶葉を用いた喫茶の習慣は上流階級や一部の寺院のみのものであった。このため、朝鮮半島で「茶」と言う場合は、中国・日本などで言われる「茶」ではなく、木の根などを煎じた薬湯や、果実を湯に浸した物(柚子茶)等を指す場合が多い(韓国伝統茶)。庶民の間では茶の代用として、焦げ飯のついた釜で沸かした湯「スンニュン」が食後の口直しに飲まれていた。なお、李氏朝鮮時代の文献『朝鮮歳時記』には、中国で茶の新芽を意味する「雀舌」が、杉など他の植物の新芽を指している例も見られる。
李氏朝鮮の末期には大興寺の禅僧である草衣(초의、意恂、ko:의순、1786 - 1866)が現れ、『東茶頌』『茶神伝』などの著書を遺しているが、同書の章立は宋・明の茶書に近いものがある。
明治9年(1876年)7月に、日本政府が日朝修好条規に基づき、条規付録や通商章程を協議決定するため宮本小一外務大丞を京城へ派遣した際の記録で、宮中での食事、建物、一般情勢の記録には茶について「茶(緑茶)は無い。干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり、煎じ薬を飲むにも似ている」とある。1894年から1897年にかけ、李氏朝鮮を訪れ『朝鮮紀行』を記したイザベラ・バードは、朝鮮には茶はなく、柑橘類を溶かしたもの(柚子茶)を飲む風習があることを紹介している。
朝鮮戦争以後は、民族主義活動家で僧籍にあった崔凡述(ko:최범술、暁堂、1904 - 1979)が、草衣の茶礼を受け継いだと称して般若露茶礼を創始し、これが現代韓国の茶の儀式の基礎となっている[98]。なお、文献では例外的なものを除いて「茶道」という言葉は使われていない。朝鮮半島において、「道」の語は道教(道家思想)を意味するものであり、芸道修行意図で用いられている日本の「茶道」とは異なっている。また、朝鮮半島で抹茶(点茶法)が飲まれていた資料も無い。
インド[編集]
インド人が茶を飲んでいたことは、17世紀の文献に見える。また、大英博物館の植物標本室に、東インド会社の外科医サミュエル・ブラウンとエドワード・バルクリーが、インドのマラバル地方で1698年から1702年にかけて採集したとされる茶樹があり、中国から移植したものと考えられる[99]。
19世紀後半から、インドやスリランカで本格的な茶樹栽培が始まった[81]。
西ヨーロッパ[編集]
ヨーロッパの最古の茶に関する記述は、ヴェネツィアのジョヴァンニ・ラムージオによるもので、1550年代の著書『航海と旅行』第2巻で、ペルシャ人からの伝聞として「カタイのチャイ」(Chiai Catai)の効能について記している[注釈 8]。16世紀にはほかにもいくつかの文献が中国や日本の茶について「chia, chaa」などの名で紹介している。
本格的にヨーロッパに茶がもたらされたのは、1609年、オランダが日本の平戸島に商館を設け、翌年、日本茶と中国茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出されてからである[100]。薬屋で量り売りされる高価なもので、聖職者が眠気覚ましの薬に用いたとも言われる。17世紀前半には、オランダの医師が、茶は万病に効き、長生きの妙薬だと述べたのに対し、ドイツやフランスの医師が、茶の害を説いた文章を発表している[101]。
イギリスでも茶について賛否両論があったが、1640年に初めてティールームが開業されるなど、徐々に浸透していった。当初はイギリスでも緑茶で飲んでいた。清教徒革命の後にオリバー・クロムウェルがイングランド共和国の実権を握った時、その頃に流行り始めていた茶に課税することを思いつき、実行した[102][103]。この抑制が国王政府への反抗心に作用し、茶の密輸が横行した[104]。聖職者が密輸業に加担していたことが茶の普及に拍車をかけた。クロムウェルの時代が終わったとき、イギリス国民に喫茶の習慣が確立していた[105][106]。
17世紀後半には、「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)の習慣が定着した[107]。同じ頃、緑茶よりも紅茶が優勢となった。これは、中国や日本と異なり、イギリスでは軟水ではなく硬水を使っていたためである。サミュエル・ジョンソンは、1757年、喫茶否定論に反論して「私の湯沸かしは、ほとんど冷める暇はない。晩に茶で楽しみ、夜でも茶で慰み、朝でも茶で目が覚める。」と書いている[108]。イギリスでは、他のヨーロッパ諸国に比べて喫茶の風習が広く浸透したが、その理由として、イギリスの水が茶に合ったこと、フランス、イタリアのワインや、ドイツのビールに当たるような飲み物がイギリスになかったことなどが挙げられている[109]。
茶貿易もオランダではなくイギリスが主導権をとり、中国産の茶がヨーロッパで主役となった[110]。中国貿易を独占していたのがイギリス東インド会社であったが、その三角貿易がアヘン戦争につながった(前述清代)。19世紀の半ばには、茶を運ぶ「クリッパー」と呼ばれる高速帆船による速度記録競争が加熱した[111]。殊勲を上げた海運業者には報奨金とブルーリボンが与えられた。この競争に世界中の港と賭け屋が夢中になったと言われる[112]。
アメリカ[編集]
アメリカのイギリス植民地でも中国産の茶が飲まれていたが、フランスやオランダの商人がイギリスの課税を免れて安い密輸茶を運んでいた。イギリス本国政府は、1773年、茶法(茶税法)を制定し、密輸茶を取り締まり、東インド会社の市場独占を確立しようとした。しかしこれがアメリカ市民の反発を招いて同年、ボストン茶会事件が起こり、アメリカ独立戦争につながった[113]。この時代に茶法の反対運動が激化し、不買運動にまでつながった。代わってアメリカではコーヒーを飲む文化が広まることになった。
アメリカ合衆国は独立後、自前で中国貿易に参入。アメリカ人参、ラッコやアザラシの毛皮、綿花、鉛、胡椒、羽紗などを清に輸出して、見返りに茶などを買った[114]。このことが太平洋航路の開発につながった。
産業[編集]
生産[編集]

国連食糧農業機関 (FAO) の統計によれば、2010年における世界の茶葉生産量は、約452万トンである。地域別では、アジアが生産量の約84%、アフリカが約14%、南北アメリカが約2%を占める。上位5か国は中国、インド、ケニア、スリランカ、トルコであり、国別生産量は次表のとおり[115]。
国 | 2008 | 2009 | 2010 |
---|---|---|---|
![]() | 1,274,984 | 1,375,780 | 1,467,467 |
![]() | 987,000 | 972,700 | 991,180 |
![]() | 345,800 | 314,100 | 399,000 |
![]() | 318,700 | 290,000 | 282,300 |
![]() | 198,046 | 198,601 | 235,000 |
![]() | 173,500 | 185,700 | 198,466 |
![]() | 165,717 | 165,717 | 165,717 |
![]() | 150,851 | 146,440 | 150,000 |
![]() | 80,142 | 71,715 | 88,574 |
![]() | 96,500 | 86,000 | 85,000 |
合計 | 4,211,397 | 4,242,280 | 4,518,060 |
日本の茶の生産量は静岡県が1位である(2020年統計)[116]。続いて鹿児島県が2位、三重県が3位、宮崎県が4位である[116][117]。産出額においては静岡県が2019年に鹿児島県に抜かれ、1970年から49年間続いた首位の座から陥落した[118][119]。
販売[編集]
世界での茶類の販売額は454億ドルと推計され(イギリスの調査会社ユーロモニターインターナショナルによる)、「リプトン」ブランドを有するユニリーバが10%強のシェアを持つ最大手である[120]。
成分と効能[編集]

玉露 | 煎茶 | ほうじ茶 | 番茶 | 玄米茶 | 紅茶 | ウーロン茶 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
タンパク質 | 1.3 g | 0.2 g | 0 g | 0 g | 0 g | 0.1 g | 0 g |
ビタミンB2 | 0.11 mg | 0.05 mg | 0.02 mg | 0.03 mg | 0.01 mg | 0.01 mg | 0.03 mg |
葉酸(ビタミンB9) | 150 μg | 16 μg | 13 μg | 7 μg | 3 μg | 3 μg | 2 μg |
ビタミンC | 19 mg | 6 mg | 0 mg | 3 mg | 1 mg | 0 mg | 0 mg |
カフェイン | 16 mg | 20 mg | 20 mg | 10 mg | 10 mg | 30 mg | 20 mg |
タンニン | 23 mg | 70 mg | 40 mg | 30 mg | 10 mg | 10 mg | 30 mg |
100 gあたりの栄養価 | |
---|---|
エネルギー | 1,320 kJ (320 kcal) |
58.66 g | |
糖類 | 5.53 g |
食物繊維 | 8.5 g |
0 g | |
飽和脂肪酸 | 0 g |
一価不飽和 | 0 g |
多価不飽和 | 0 g |
20.21 g | |
ビタミン | |
ビタミンA相当量 | (0%) 0 µg(0%) 0 µg0 µg |
チアミン (B1) | (0%) 0 mg |
リボフラビン (B2) | (82%) 0.985 mg |
ナイアシン (B3) | (72%) 10.8 mg |
パントテン酸 (B5) | (91%) 4.53 mg |
ビタミンB6 | (27%) 0.356 mg |
葉酸 (B9) | (26%) 103 µg |
ビタミンB12 | (0%) 0 µg |
コリン | (24%) 118.3 mg |
ビタミンC | (0%) 0 mg |
ビタミンD | (0%) 0 IU |
ビタミンE | (0%) 0 mg |
ビタミンK | (0%) 0 µg |
ミネラル | |
ナトリウム | (5%) 72 mg |
カリウム | (129%) 6040 mg |
カルシウム | (12%) 118 mg |
マグネシウム | (77%) 272 mg |
リン | (34%) 239 mg |
鉄分 | (17%) 2.26 mg |
亜鉛 | (18%) 1.69 mg |
マンガン | (6333%) 133 mg |
セレン | (8%) 5.3 µg |
他の成分 | |
水分 | 5.09 g |
カフェイン | 3680 mg |
テオブロミン | 71 mg |
| |
%はアメリカ合衆国における 成人栄養摂取目標 (RDI) の割合。 出典: USDA栄養データベース(英語) |
茶を嗜好品として特別視せしめたのはカフェインが含有されている事であるが、茶には他にも次のような各種有効成分があると言われている。
カフェインの主な作用は、中枢神経を興奮させることによる覚醒作用及び強心作用、脂肪酸増加作用による呼吸量と熱発生作用の増加による皮下脂肪燃焼効果[122]、脳細動脈収縮作用、利尿作用などがある[123]。
カテキンには実に多様な生理活性があることが報告されており、それらを列挙すると、血圧上昇抑制作用[124][125]、血中コレステロール調節作用、血糖値調節作用(詳細は以下を参照のこと)、抗酸化作用[126][127][125]、老化抑制作用[注釈 9]、抗突然変異、抗癌[124][125]、抗菌、抗う蝕[124][125]などとなる[122]。
チャの葉や種子のテアサポニン(theasaponin)類、アッサムサポニン(assamsaponin)類には小腸でのグルコースの吸収抑制等による血糖値上昇抑制活性が認められた[128](詳細は「サポニン」参照)。動物実験で日本茶、特に番茶、中でも多糖類(ポリサッカライド)を有効成分とする番茶冷浸エキスでの血糖降下作用が認められた[129]。
テアニンにはリラックス効果[130]、抗ストレス作用[131]、睡眠の質の改善[132]月経前症候群(PMS)の軽減[133]、認知活動や気分の改善[134]の作用がある(詳細はテアニンを参照のこと)。
モンゴルなど野菜が不足する地域では、茶を飲む習慣があり、1日に10杯程度飲むと言われているが、遊牧民が愛飲するレンガ状に固められた茶葉を分析すると、ビタミンはほとんど存在しなかった[135]。むしろ、遊牧民が夏場に愛飲する馬乳酒中の乳酸菌がビタミンCを生成するため、野菜や果物を摂れない遊牧民のビタミンC補給源となっていると言われている[136][137]。
茶はデザイナーフーズ計画のピラミッドで2群に属しており、タマネギやターメリックと共に、2群の最上位に属する高い癌予防効果のある食材であると位置づけられていた[138]。
茶にはシュウ酸が含まれており、乾燥茶葉100 g中の含有量は、玉露(上級)1,290 mg、煎茶(上級)820 mg、番茶740 mg、ほうじ茶770 mgであった[139]。
ハーバード大学医学部によると、お茶にはフラボノイドが豊富に含まれているため、野菜や果物と同様に物忘れをふせぐ効果があるとのことである[140]。
なおデメリットもあり、先述の利尿作用は度が過ぎると水分不足につながることもある[141]。
飲用のために熱湯もしくは常温、冷却された水に茶葉を浸して成分を抽出する場合、茶葉の種類にもよるが温度によって時間単位での溶け出す量が変化し、これにより成分や風味を調整することができる。
様々な茶と、茶を利用した食品[編集]
他の材料と混合した茶[編集]
- 花茶
- バター茶: 茶以外にバター、塩を含む。
- ミルクティー: 紅茶に牛乳、砂糖などを加える。
- 果実茶
- 鴛鴦茶: 茶とコーヒーを混合する。
- マサーラー・チャイ: インドや東南アジア諸国にて広く普及している茶の飲み方。カルダモン、クローブなどの香辛料、牛乳を含む。前述のミルクティーと要素は近いものの香辛料を加える点では大いに異なる。
- 玄米茶
- ぶくぶく茶: 炒米を煎じてさんぴん茶に加え、泡立てた後にピーナッツ粉末を振りかけて供することが代表的。日本の沖縄県。
- 擂茶: 客家の伝統茶で、落花生、ゴマ、玄米などを入れる。
- 八宝茶(三泡台): 回族の伝統茶で、砂糖やナツメなどを入れる。
- 三道茶: ペー族の伝統茶で、砂糖やルーシャンなどを入れるものもある。
茶を使った酒類[編集]
茶はサワー、チューハイの割材として使われるほか、静岡県では茶のファンや需要を増やすため、各種茶葉を様々な酒類(ジン、ウォッカ、焼酎など)に浸漬して香りや甘味を抽出したクラフトリキュールやカクテルを「宵茶」として飲食店で提供している[142]。
茶葉を用いた料理、菓子など[編集]
料理[編集]
- 食茶: 茶殻をそのまま食べること、また、その食材としての利用。
- 茶漬け、ひつまぶし: ご飯に魚、塩辛、梅干、海苔、三つ葉などを乗せ、煎茶をかけて食べる。
- 茶粥: 日本の奈良県と和歌山県では、茶葉を入れて粥を作る伝統がある(主にほうじ茶を使用)。
- 茶そば: 抹茶を練り込んだ蕎麦切り。
- 龍井蝦仁: 中国浙江省杭州市の名物料理で、川エビの殻を剥いて、龍井茶の若葉と炒めたもの。
- 樟茶鴨: 四川料理の一つで、下味をつけたアヒルをクスの葉とジャスミン茶でいぶして香り付けした後、蒸し、さらに表面を油で揚げる料理。
- 茶卵(茶鶏蛋): 中国で一般的な、茶や醤油などで味付けしたゆで卵。
- ラペソー: ミャンマー料理の一種。後発酵させ漬物のようになった茶葉をナッツや干蝦、生野菜などと和え、サラダのように調理する。
菓子[編集]
ほか、抹茶アイスクリーム、抹茶ババロア、抹茶ケーキなど、緑茶の風味を添えた洋菓子・和菓子が日本には多い。また、チョコレート菓子(※「準」扱い含む)の製品は特に多い。
また、北タイのラーンナー地方には茶葉にナッツなどをくるんだものをガムのように噛んで味わう、噛み茶が存在する[注釈 10]。
これら以外にも、茶葉を使った料理は日本や中国を中心に様々なものがある[144]。
食用以外での利用[編集]
日本では平安時代より江戸時代まで、茶は染料として利用されており「茶色」は正しく茶の色だった。時代とともに、茶そのものよりも茶色が出しやすい別の染料に置き換わる形で次第に利用されなくなった。元禄時代には茶色ブームが起き、当時の「茶」の付く色の和名は80種を超える[145]。
茶ではない「茶」[編集]
茶葉を使用しない嗜好性飲料も総じて「茶」と呼ばれることがある。こういった茶ではない「茶」の多くはチャノキ以外の植物に由来するものであり、葉や茎、果実、花びらなどを乾燥させたものを煎じて使用する。また、それら「茶ではない茶」を中国語では「茶外茶」と呼び、本来の茶を「茶葉茶」と呼んで区別することも行われている[146]。
ほかにも、真菌類・動物に由来するものがわずかながら存在し、さらに中国の華中地区では、白湯さえも「茶」と呼ぶことがある。
植物由来[編集]
ほか、多数
真菌類由来[編集]
- 椎茸茶
動物由来[編集]
- 虫糞茶(虫屎茶): 茶の材料とする茶葉(チャノキの葉に限らず)を蛾の幼虫に食べさせる。その結果として得られる物は糞であるが、分解が進み、動物性の旨みも加わった自然加工物である。
- 象糞茶: アフリカ大陸東部に暮らすマサイ族などが乾期のゾウの糞を元に作る飲み物。別名・サバンナティー。
水[編集]
- 白湯(さゆ)
ティーバッグ[編集]
ティーバッグは1907年に、アメリカの茶商トーマス・サリヴァンが、絹の小さなバッグの中に茶葉を入れ、配布したのが始まり[147]。
茶の音楽[編集]
邦楽[編集]
- 『宇治巡り』(地歌・箏曲)
- 文化文政の頃、京都で活躍した盲人音楽家・松浦検校が作曲した手事(てごと)もの地歌曲。箏の手付は八重崎検校。「喜撰」「雁が音」など、多数の茶の銘を詠み込み四季の順に配列しつつ、春夏秋冬の茶の名産地である宇治を巡り歩くという風流な趣向の曲。大曲で、二箇所の手事(楽器だけで奏される器楽間奏部)も音楽的に凝ったもので、転調も頻繁に現れ、技術的にもなかなか難しい曲。「松浦の四つ物(四大名曲)」の一つとされている。
- 『茶音頭』(地歌・箏曲)
- 文化文政時代、京都で活躍した盲人音楽家・菊岡検校が作曲、八重崎検校が箏の手付をした手事もの地歌曲。俳人横井也有の「女手前」から抜粋した歌詞で、多数の茶道具を詠み込みつつ男女の仲がいつまでも続くよう願った内容。三味線の調弦が「六下り」という非常に特殊なもので、独特な響きがこの曲独自の雰囲気を作り出しており、歌の節も凝っている一方で手事が長く、八重崎検校の箏手付も巧みで合奏音楽としてもよくできているので、現代でも演奏会でよく採り上げられる曲である。「音頭」という語が付いているが、民謡ではなく、れっきとした芸術音楽。お点前の伴奏として演奏されることもある。
- 『宇治茶』(上方歌・端唄・うた沢)
- 『茶摘み』(文部省唱歌。作詞作曲者不詳)
- 『ちゃっきり節』(静岡県の新民謡。作詞:北原白秋、作曲:町田嘉章)
クラシック音楽[編集]
- チャイコフスキー: バレエ音楽『くるみ割り人形』より「お茶(中国の踊り)」。
- レハール: オペレッタ『微笑みの国』より、二重唱曲「お茶を飲みつつ語らえば」。
- ショスタコーヴィチ: タヒチ・トロット(『二人でお茶を』という流行歌の編曲)。
その他、茶製造に関する労働歌、民謡として「茶摘み歌」「茶揉み歌」などが各地にある。またこれらに、茶に関する童謡や歌謡曲を含めて「茶歌」と言われることがある。
茶の庭[編集]

茶の庭、ティーガーデン(Tea garden)とは、茶や軽食を提供する屋外空間や庭園、あるいは茶を飲むことを連想させる庭園のことである。特にインドでは茶畑の俗称でもある[148]。茶園は初期のイギリスの商業的な遊園の一部で、しばしばカップルなどの出会い目的で訪れた。男性はローンボウルズに興じてビールまたはワインで過ごし、女性はティーガーデンで過ごすのだった。ただし現代ではカフェや喫茶店の屋外スペースを意味することが多い。


日本庭園において茶の庭は露地といった比較的小さな庭の特殊な様式であり、元々は茶室の入口の庭として、茶道のために到着した客の気分を盛り上げるために作庭される[149]。庭園は建物へ通じる道から見えるようにしか設計されておらず、通常その中で茶道をたしなむ。この様式は小規模な前庭に適しており、日本や西洋でしばしば用いられてきた。
このほか、カモミール、ビーバーム、ペパーミント、レモンバーム、ラベンダーなどのお茶として飲むハーブに特化したキッチンガーデンのハーブガーデンに対して用いられることもある[150]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 風味の違いなどから日本茶や中国茶、紅茶などは別の植物の葉であると誤解されることもあるが、種の違いを除き、分類学上は全て同一(ツバキ目ツバキ科ツバキ属に分類される常緑樹)である。
- ^ インドからアラビアを経て北アフリカにかけての地域では、日常的な飲用物としての紅茶を「チャイ」と称している。
- ^ (岩間眞知子 2009, p. 3-17, 201-216)。なお、岩間は『神農本草経』において、苦菜が含まれている上薬を「無毒で長期服用が可能な養命のための薬」と定義していることを指摘し、茶が上薬に該当しかつ苦菜の特徴と共通すると主張して苦菜を茶とした陶弘景の説を肯定している。
- ^ 紅茶は、高温の沸騰した水で抽出し、かつ硬水だと渋くならない。
- ^ 喫茶の話を記した7首の作者は藤原明衡(2首)、中原広俊、源経信、藤原実範、藤原基俊、藤原周光(編者)の6名でいずれも遣唐使の停止から100年から250年も後の人物である。
- ^ この二つの資料は制作年代にも疑問があり、法的な拘束力はなかったとされる。しかし、当時の支配者層は農民が茶を嗜むことは贅沢で怠惰なイメージを持っていたと思われる。[92]
- ^ 静岡県出身のため「茶ばたけ」というユニット名でのデビューも考えられていた。『夜のヒットスタジオ』などでの烏龍茶発言で静岡茶の売り上げにはマイナスになったが、静岡県発祥の伊藤園の業績が伸びた。
- ^ Ramusio, Giovanni Battista (1574). Secundo volume delle navigationi et viaggi (2nd ed.). Venetia
- ^ 詳細は「老化#糖化反応説」「サポニン」を参照。
- ^ タイ語で เมี่ยง [mîaŋ] と呼び、言語学者の冨田竹二郎はこの語が中国語の「茗」(茶葉の別称、あるいは茶の若葉のこと)から来たのではないかとしている。[143]
出典[編集]
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参考文献[編集]
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- マグロンヌ・トゥーサン=サマ 著、玉村豊男 訳『世界食物百科』原書房、1998年、623-624頁。ISBN 4562030534。
- 岩間眞知子『茶の医薬史 中国と日本』思文閣出版、2009年。ISBN 978-4-7842-1463-1。
- 大森正司、阿南豊正、伊勢村護、加藤みゆき、滝口明子、中村羊一郎『茶の事典』朝倉書店、2017年。ISBN 9784254431209。
- ビアトリス・ホーネガー 著、平田紀之 訳『茶の世界史』2020年。ISBN 9784560097601。
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- 松崎芳郎『年表 茶の世界史』八坂書房、2012年。ISBN 978-4-89694-144-9。
- 松田興昌・田村哲也『田水會喜多十左衛門喫茶法』共同著書 オフィスtan 2014年。
- Cha Tea紅茶教室『図説 英国ティーカップの歴史』河出書房新社 (2012年) ISBN 978-4-309-76189-3 C0372
関連項目[編集]
- 分類学 - チャノキ / 木の一覧
- 大別 - 緑茶 / 紅茶
- 国別 - 日本茶 / 中国茶
- 製法 - 深蒸し茶 / 醗酵茶
- 生産 - モノカルチャー / プランテーション / 製茶 / 検茶
- 銘柄 - 伊勢茶 / 宇治茶 / 狭山茶 / 静岡茶 / 大和茶 / 知覧茶
- 淹れる - ISO 3103(茶の淹れ方に関する国際標準)
- 嗜む - 茶道 / 闘茶・お茶講 / 食茶 / 茶漬け / 茶碗 / 給茶機
- 人物 - 栄西 / 千利休 / 大谷嘉兵衛(茶聖とも言われる実業家)
- 施設 - 入間市博物館(狭山茶の産地として茶をメインテーマとする。国登録有形民俗文化財「狭山茶の生産用具」を所蔵) / 茶店 / 喫茶店
- 作品 - 茶柱倶楽部(「茶」をメインテーマにした漫画作品)
- その他 - 乾物 / コーヒー
- お茶の振興に関する法律
- 茶色
外部リンク[編集]
- Tea 茶(英語) - (オレゴン州大学・ライナス・ポーリング研究所)
- チャ(茶) - 素材情報データベース<有効性情報>(国立健康・栄養研究所)
- 公益社団法人日本茶業中央会
- お茶の国しずおか(茶の入れ方など) - ウェイバックマシン(2018年8月6日アーカイブ分)
- クラスノダル紅茶(ロシア・ビヨンド、2014年2月20日、ロシアNOW、ミトリー・スホドリスキー)
- お茶の振興に関する法律 - e-Gov法令検索
- 『茶』 - コトバンク